1-5 怒り
あやめちゃんから放たれた一言にまだ眩暈がしている。ふらついた身体がテーブルにぶつかり表面が乾いた野菜達が揺れた。
料理をしてたんだっけ。そうだお花見に、せめて最期に楽しく自分の名を冠した花を見たいと願ったんだ。
「サクラちゃん、大丈夫?」
「大丈夫なわけないじゃない……! 倒す? 桜火王様を?」
脳が鷲掴みされ絞られているようだ。頭痛間際の感覚に私は頭を抱える。冗談であってほしい、そんな願いはあやめちゃんの溢れんばかりの殺意によって叩き潰されている。
「それしかアンタを救う方法がない」
「救ってほしいなんて頼んでいない」
「私が嫌だ。今度こそ」
──サクラちゃんもあんな村、出よう?
手を差し伸べるあやめちゃんの姿が過去と重なる。二年前のマフラーを巻いたあやめちゃんの何も知らずに空回りする真剣な面持ち。本当に──
「吐き気がしてきた」
「混乱するのもわかるよ」
「少し休憩させて。……それから水を飲みたい」
ふらつきながらボストンバッグのある奥の部屋に行き、そして戻って冷蔵庫に入れた二リットルの緑茶を備え付けの二つのグラスに注ぐ。あやめちゃんはエプロンを着け直すと私が切ったじゃがいもを耐熱皿に入れ水をまぶしてサランラップをした。大きな音が鳴り、電子レンジが開く。こんな時にも料理を続けるなんて! 閉口する私には気づかずにレンジが光り低く唸り出した。
「この状態でお花見に行こうとしているの」
「約束したでしょう。それに大切なんだ」
「……馬鹿なんじゃないの」
侮蔑に近い感情が言葉となって乾いた唇から漏れ出し、私は慌ててグラスを一つあやめちゃんに押しつけた。
「ありがとう」
「ついでだから……。話の続きは座ってしたいんだけど」
シンク前で背後のテーブルを二人して見やる。新聞紙を一面に敷いたテーブルにまな板や食材が散乱していた。あやめちゃんがグラスを煽り、空になったのをシンクに置く。
「とりあえず今切ったやつだけは調理しちゃおうよ。勿体無い」
再びお茶を注いでいれば呑気にあやめちゃんがテーブルとシンクを行ったり来たりしてフライパンをコンロの上に乗せる。息が詰まるような思いでポケットに手を入れ不貞腐れたように溜め息をついた。野菜を取りに行ったのを目で見送ってあやめちゃんの使ったグラスにもう少しお茶を注いでいく。背を向けている私を意に介さず、フライパンに油を薄く敷きパプリカを入れるとつまみを捻った。
こうなったあやめちゃんは言うことを聞いてくれない。私は溜め息をつきながらけたたましい音で加熱完了を告げる電子レンジを開ける。ミトンで皿を持ってテーブルに運び、今度は人参を同じようにレンジに投入した。
あやめちゃんがパプリカに塩胡椒を振り過ぎないようにと、アスパラガスにベーコンを三枚くらい巻こうとしているのを咎めたの以外は互いに無言だった。
玉葱を薄くスライスしていけば涙が零れる。柔らかくなったじゃがいもを粗く潰してマヨネーズと和えれば味を想像して唾液が口内に溜まる。こんがりと焼けたベーコンの香りにお腹が鳴った。生死の話をしていたはずなのに、もっと泣きたいことは山ほどあるのに、玉ねぎを切れば涙が出て、匂いや想像で食欲を掻き立てる自分の身体に思わず自嘲した。あんな会話をした後なのに結局あやめちゃんと料理をしていることに心を温めている自分の感情も含めて。
手を動かして意識を集中している方が楽だった。沈んだ空気の中でもあやめちゃんの隣は確実に呼吸ができる。毎日村の男達に振る舞うためにおにぎりを握らされるのよりずっと良い。結局あやめちゃんが胡瓜を拍子木切りにして竹輪の中に入れようと格闘している間にウィンナーも焼いてしまい、ポテトサラダ、パプリカの炒め物、ウィンナーに胡瓜入り竹輪、アスパラガスのベーコン焼きが完成した。残りはおにぎりと卵焼き、冷凍唐揚げに同じく冷凍ほうれん草のお浸しだ。流石にそろそろ続きを話し合いたい。お互いにそんな空気を察して一度片付けを始める。部屋に備え付けの折り畳み式テーブルを組み立て料理とお重を置き、調理道具は一度シンクに避難させ、新聞紙をゴミ箱に捨てた。
あやめちゃんがまた礼を言い、お茶を半分ほど飲みグラスに付着した水滴を手で扱くように拭いた。綺麗になった四人から六人掛けのダイニングテーブルの椅子を引く。汗をかいているグラスの先にあやめちゃんが腰掛け、ペットボトルを脇に寄せた。
向き合う形となり数秒。沈黙を互いに貫き様子を窺う。グラスを握りしめ口火を切ったのは私だった。
「無理に決まっているよ。江戸時代から何度も皆がやろうとして失敗してきたことじゃない。林造爺さんの話、あやめちゃんも何度も聞かされたでしょう」
寝る前に子守唄代わりに聞かされる物語としては過激だが央齢村の子ども達がまず教えられるのは桜火王様の恐ろしさだ。いわば圧政を強いられている状態を知れば井の中の蛙である子は他のフィクションの世界を信じ今のあやめちゃんのような結論を出しやすい。つまり「桜火王様を倒してしまえばいい」と。自分が物語の主人公である勇者、桜火王様を魔王として打倒を目指す。三百年余りの年月をかけて構成された結界のような森は魔王城だ。
「わかっている。三百年もの間多くの央齢村の村人が木を切り倒し森に火を放とうと、それから霊能力者に大勢でお祓いをしたこともあったって。でも全員が失敗し無残に殺された。毒桜吹雪に呪根元絞めに炎花葉……ありとあらゆる手段で殺され、反抗の見せしめに村の住民の半分の命が奪われ、ようやく毎年の炎花の儀で矛を収める今の形になったんでしょう」
「それを知っているなら何で……こんな言い方よくないけど、呪いなんかかかっていないあやめちゃん一人が歯向かって殺されるだけならまだいいよ。あやめちゃんの暴挙の結果、家畜を言われるがまま捧げるだけで済んでいたパワーバランスが崩れちゃう可能性……他の央齢村の皆が死んじゃうかもしれないんだよ! 呪いに必死に耐えて生きている皆が!」
「アンタが生贄になる時点で崩れてるでしょうが! 自分の命も勘定しなさい!」
互いに身を乗り出しテーブルを両手で叩く。数拍置いてじんじんと痛む手の平に舌打ちをしたい気分になりながら口を開こうとすればあやめちゃんに遮られた。
「そもそも違うんだ。呪いは……いや、ここは後回しにする」
「そもそもって何よ」
「倒し方が間違っていたんだ。あの化け物殺人桜は正攻法では倒せない」
「……伐採しようとしたり燃やしたりするってことが間違ってるって?」
あやめちゃんが大きく頷き「お祓いもあの怪異には通用しない」と付け加えれば、肺の奥が詰まったような痛みが走った。間違っている? ノイズが視界に過ぎる。血飛沫の記憶がちらつくように脳に広がり思考を遮ってきた。
「仮に間違っていたとして……あやめちゃんは正しい倒し方を知っているってことだよね?」
「だから用意をしてサクラちゃんに会いに来た」
「信じられない。根拠は? きっと過去の桜火王様を倒そうとした輩だって、同じ考えであの森の奥に住まわれる桜火王様の元に向かったんだ」
「……昭和四十九年、蓮河三十郎が書いた『XX県郷土異種族怪異譚』によれば隣県のXX県山奥には朝顔の怪異の伝承があることが、明治時代に記された書物によって確認されている。口伝で室町時代から伝わったとされるそれは人を喰らう巨大な殺人朝顔として恐れられ蓮河が確認した際にはまだその地域では庭に朝顔を植えてはならない文化が強く根付いていた」
「は?」
呪文のように紡がれた言葉の意味が理解できない。私は目を白黒させグラスに入った緑茶で唇を湿らすあやめちゃんを唖然と視界に入れていた。
「殺人朝顔を倒すためその地域の人々は昔から夏に朝顔を燃やす、水やりをしないとあらゆる手を使ったらしい。しかし全ての策は無駄と終わり頭から朝顔に嚙みつかれ現場には首無し死体だけが残ったとか」
「何を言っているのあやめちゃん……」
「ところが昭和五十五年『続・XX県郷土異種族怪異譚』ではその風習が突如途絶え、夏には庭に朝顔を咲かせる家だらけになっていたと記されている。殺人朝顔とは私達の問題である桜火王と違い、通常の朝顔に憑りつき花を咲かせる頃に突如人を食らう存在。庭にあるというのは首輪無しの猛獣を家の中に入れているのと同等の危険だったはずなのに、だ。何をしたのか尋ねる蓮河に対し」
「もういいよ! それが桜火王様とどう関係があるの!」
「殺人朝顔、亜殺花との関連について記された村が、名は伏せられているけど明らかに央齢村なんだよ!」
目を剥くように丸くしてあやめちゃんを凝視する。あやめちゃんは腕を組み、一拍置いて続けた。
「ごめん。前置きが長過ぎた。かいつまんで話せばXX県の殺人朝顔は人の手によって倒された。そして最後に全く同種の存在である殺人桜の伝承について触れられていたんだ。花びらによる猛毒攻撃、根っこによる人体切断……。これらを恐れる村があるとした上で著者は『殺人桜について詳細は不明だが間違いなく亜殺花と同系統の怪異であり、もし倒すのであれば同じ手が有効だろう』と締めていた。これが大学で私が調べた内の一つだよ、サクラちゃん」
「ちょっと待って。あやめちゃん……まさか大学に行って勉強しているのって」
「腹が立ったから。親には反対されたけど、自分の過去と決着をつけるために学問として学ぶ道を選んだ。言っておくけど、この文献だけが根拠じゃないからね。他にも色々と根拠となるものはあるし、何より私自身が」
「もういい」
「サクラちゃん?」
プツンと糸が切れた音が脳内で響いた。
「どうしたの? だから」
「それで……沢山勉強して明日の儀式までに桜火王様を倒すんだ。私は何をすればいいの?」
私の様子に怪訝な顔をしながらも、協力的になってくれるとあやめちゃんは信じたらしい。安堵の息を吐き頬を緩ませた。
二年前のあやめちゃんが脳を過る。もっと前の手を繋いで学校に通っていた頃のあやめちゃんの体温を思い出す。
自信満々で私の一歩先を駆けて行く。何度もその姿に憧れ、そしてもやもやとした感情を抱えていた。花壇のチューリップを折ってしまい謝りに行った時、宿題を忘れてべそをかく私の隣でノートを開き間に合うと鉛筆を握らせてきた時、あやめちゃんはいつも「大丈夫だよ」と微笑むのだ。当たり前に自分の言うとおりになると信じ切って私の手を引っ張るのだ。
──サクラちゃんもあんな村、出よう?
あの時だってそうだ。自分が正しいと手を差し伸べて。今度もきっと。
「危険だから終わるまでは逃げていてほしい。この部屋にずっといるだけでいいんだ」
ほら。やっぱりそうじゃない──!
「それができたら、苦労はしない!」
癇癪を起したように私は立ち上がりもう一度両手でテーブルを叩いた。痺れるような痛みが手の平から腕、肩へと走る。勢いに任せ椅子が倒れる。その椅子を力任せに蹴り飛ばせばあやめちゃんが呆然と目を見開いた。




