1-3 元凶
包丁が床に落ちる音を置き去りにしてあやめちゃんが血相を変えた途端、私の両肩に痛みが走る。あやめちゃんの顔がいつもより近くにある。肩を掴まれているのだとようやく気がついた。
「やっぱり……」
あ、気づいていたのか。悲痛な面持ちをしたあやめちゃんの瞳に微笑んだ私が映っている。やっぱり醜く笑っていると他人事のように小さく息を吐いた。
「あやめちゃん、包丁危ないよ」
「包丁なんてどうでもいい!」
聴覚があやめちゃんの声で支配された。眉がつり上がり、瞳の奥には怒りの感情が滲んでいる。それでも何だか泣きそうに眉が下がっていて私は生きていて一番満たされたような気分だった。
「嫌な予感がしたんだ。スマホで台風のこと聞いてもアンタ大丈夫しか言わないし、炎花の儀の話を振ってもはぐらかすし……あの村ならやりかねない」
「お父さんとお母さんは最後まで別の人を、と交渉してくれたよ。でも桜火王様は私がいいんだって。だから私含めた央齢村の総意だよ。私は明日の夜、死ぬ」
「何で言ってくれなかったの……そんな」
「だってあやめちゃんは信じていないじゃない。桜火王様のこと。言っても無駄だと思ったんだよ。『迷信を本気で信じてるおかしな子』だなんてあやめちゃんに思われたくないもん」
「信じている」
「嘘をつかないで。信じていたら央齢村から引っ越さない。それに碌でもない風習って馬鹿にしてたじゃない」
「信じているのとそれが碌でもないのは両立するでしょう!」
悲鳴に近い甲高い声が響き渡った。
「碌でもないじゃない……! 央齢村はあのクソ殺人桜に支配されている……! 毎年桜の季節に森の入り口で村の住民総出で祈りを捧げるくらいならその土地の信仰として理解できた。産まれた子の名に必ず植物由来の文字を入れるのも前時代的だけどあるんだろう。でも何かある度に『桜火王様が許さない』『桜火王様のお怒りだ、鎮めなければ』と生贄と祈りを捧げ、対価を払い、最優先は人ではなく村はずれにポツンと生えている桜の化け物だ! 桜火王が白と言ったと司祭役からお告げがあれば黒でさえ村の住民は白と従い、たった今まで仲間だった村民を異分子として排除か服従を迫る! うちが出て行く前に何人追い出したの? どれだけの村民を虐げてきたの? 皆してあのクソ野郎の殺人桜の木に怯えて……!」
「様をつけて! 聞かれている!」
あやめちゃんが目を見開き、力が緩む。身じろいで振り解き一歩後ろへと下がった。
「怒りを買ったらあやめちゃんも呪われちゃうよ。せっかくあの村で産まれてないから呪いの対象から外れたのに」
「サクラちゃん……違うんだよ。呪いは」
「無いって言いたいんでしょう! 呪われて苦しんでないあやめちゃんにはわからないよ。桜火王様はたしかにあの森の中から央齢村を呪いで以って支配しているの。呪いから身を守るためには従わないといけないのが央齢村のしきたりなんだよ! 実際、過去には従わなかったからって桜火王様の毒花吹雪で三日三晩苦しみながら死んだ人も、呪根元絞めで胴体を引き千切られて死んだ人も、炎花葉で生きたまま焼かれた人だって……」
自分の身体をギュッと抱きしめる。湿った手が服の袖を濡らしていった。「あの時」の光景が瞼の裏に再生され胃から苦い物がせり上がってきた。あやめちゃんは堪える私の前でいつもどおり視線で射抜いてくる。そして溜め息をつくとゆっくりと口を開いた。
「サクラちゃん、聞いて。私は殺人桜の呪いを信じているよ。あの桜の化け物は確かに存在して村の離れの森の中であの村の住民を苦しめて楽しんでるんだ」
「嘘だよ! 信じているなら桜火王様にそんな口を……」
「信じているから許せないんだよ」
気色ばんだ声だった。
「まず村の連中が許せない。司祭の家系である炎花家を中心に炎花の儀……毎年家畜を生きたまま桜の木の下に縛りつけて解体して何人倒れているのさ。しかも悲鳴を捧げるってより痛めつけてから命を奪うだなんて。それ自体も最低だし、うちみたいな外からの住民が入ってこないのはそのせいで、いつまで経っても診療所の一つも定着しない集落のままだ。更に対価が欲しいと炎花家から告げられた時にはペットの犬だって捧げた。長郷君が塞ぎ込んでしまったのもそれが原因でしょう」
「外から見ればおかしいのはきっと他の村の人だってわかっているよ。でも捧げなければ、従わなければ皆桜火王様に呪い殺されちゃうんだよ……! 何処にいたって、村から出ても毒桜吹雪も呪根元絞めも炎花葉も呪われた私達にはいつでも届いてしまうんだ。だったら大人しく従わないと……」
ここに来る自動車内でも確かに呪いは発動しかけていた。歯の根が合わなくなる寸前で奥歯をぐっと噛んで私は堪える。産まれた時からずっと何者かに見られている感覚と共に生きていた。桜火王様を貶せば、あの村から離れようとすればまるで耳元で囁かれているように葉が擦れる音が、桜が舞って散る風の音が大きくなるのだ。毒桜吹雪か炎花葉か、あるいは脹脛を縛られている感覚がして呪根元絞めにゆっくりと命を狙われているのか。
命の危険を常に感じている。この恐怖は余所者のあやめちゃんにはわからないだろう。沸々と煮えたぎる感情に表情が強張る。あやめちゃんを気づけば睨みつけていた。
「結局犬の生贄に抗議した長郷君の家をよってたかっていじめて引っ越させたのも、全部桜火王のせいだって? ……それは桜の木の化け物ではなくあの時何もしなかった私も含めて私達村の住民の責任でしょう」
「違う! 悪いのは」
ハッと口元を両手で覆った。今、私は何を考えた? 途轍もなく不敬な発言を口にしようとしていた事実に心臓が激しく脈打つ。熱い息が漏れ、舌が乾く。耳元でまた葉の擦れる音がし始め、瞼をギュッと閉じた時だった。
「ああ。そうだよ。結局悪いのは全部あの殺人桜だ。村の人間を残虐に支配してる元凶! 一番許せないのは桜炎王とか偉そうな名前で人間を弄び続けるあのたかが木一本の怪異だよ」
やられた──! 鎌をかけてきたのだ。村の人の罪を引き出して、元凶が誰かはっきりと突きつけてきた。あやめちゃんもわかっているのだ。村の人の罪もあるが本質的には全ての元凶が人間ではなく桜火王様だと。
憎悪を隠しもしない地獄から這い出てくるような声が私の鼓膜を揺さぶり、葉の擦れる音が掻き消された。目を開ければあやめちゃんは笑っている、はずだった。口角を上げ、目を細めているのにその瞳からは冷たいぎらついた光が瞬いている。全身の血の気が引いていく。呪根元絞めが発動し身動きが取れなくなっていた足元が解放されていた。
殺意。私はそうあやめちゃんの笑みと瞳のぎらつきをそう名付けた。見たことのないあやめちゃんがそこにいて、知らない感情を目の前の私ではなく私の支配者様へと向けている。
全部怪異のせいにしてしまうのは調子が良過ぎるだろうけど。そう付け加えてあやめちゃんは続ける。
「大昔、あの化け物が大勢の人間を殺し、ようやく家畜を生贄に捧げ服従することで手打ちになり今の生活を何とか手にした歴史だって耳に胼胝ができるくらい聞かされたから知っているよ。昔と比べたら今はマシだとそう言いたいんでしょう。けど、遂に今人間を捧げるしきたりが復活しようとしている! 今更恐怖があるとはいえ人間を生贄にって発想を全員が渋々だろうとあの村の連中は受け入れている。だからしきたりを変えようなんて無理というか直ぐにできる問題じゃない。そもそも私はそこまであの村に関わりたくないし。そうなったら私にできることは一つしかないんだ」
ぎらつきが増していく。炎花の儀で牛を解体した肉切り包丁のようにしっとりとした煌めきだった。黒い感情が腹の底から這い出す。あの日、あやめちゃんが引っ越すと告げてきた時の記憶がぐちゃくちゃになって思い起こされた。そんな私の気も知らないであやめちゃんは奥の部屋からキャリーバッグを転がしてくる。エプロンを解いて適当に投げ捨てた。
「予想はしていたんだよ。もしかしたらって。妙にサクラちゃんは今年の炎花の儀をはぐらかすし、あの殺人桜なら絶対にやがて再び人を殺すだろうって考えてた。央齢村なら殺人桜に言われたらサクラちゃんを差し出すだろうし、アンタも受け入れると思ってた。……さすがに本当にそうだと言われて驚きはしたけど」
「完全に隠してたのに」
「アンタ、話題を変えるの下手過ぎ。村の話を聞いてるのにいつも突然旗色が悪くなるとローカルテレビ局の話をするんだから」
そうだったの? 意外な自分の癖に歯ぎしりをしたくなりながらあやめちゃんの次の言葉を目で促した。
「ただ私にはもう、アンタ以外あの村で連絡が取れる相手がいない。だからもし……根拠は嫌な予感だけだけど『本当にサクラちゃんが殺人桜の生贄に捧げられる』場合の準備をして今日、此処に足を踏み入れた」
「私も今、嫌な予感がしているよ。ま、まさか」
舌が縺れ言葉が上手く吐き出せない。どもりながら縋るような気持ちで鋭い殺意を抱えた目の前の友人を見つめた。
それだけは、それだけはいけない! 視界が赤く染まる。あやめちゃんの顔に、全身に血飛沫が舞っているかのような錯覚に陥った。桜火王様、どうかお許しを。あやめちゃんの罪も私が償いますから──!
視界がぐるぐると回る。現実逃避のように視線を逸らせばボストンバッグが目に留まった。あの中に今日のお泊り会のパジャマを詰めている時はこんなことになるなんて思わなかったんです。桜火王様許してください。どうか。どうか。
懇願に近い祈りを捧げていればあやめちゃんからすっと小さく息を吸う音がした。
「炎花の儀までに央齢村に侵入し桜火王を倒す。その後、央齢村がどうなるかは知ったことじゃない。けど呪いは解け、少なくともアンタは明日死ななくて済む。私はそのために会おうと約束したんだ」




