5-2 思いどおりにならない世界でもあなたとなら
信じられない。チカチカとする光景に瞬きの回数が増える。私が唖然と言葉を失っているのに、あやめちゃんはへらへらと苦笑いだ。あやめちゃんのそういうところ、嫌いではないけど好きでもないよ。
桜火王の呪いから解き放たれた私はすぐさま両親に事情を話し、引っ越しを促した。両親は私以上に桜火王を人一倍恐れて支配を絶対としていたけれど、その大元が消滅してしまったのならば話は別だ。桜火王に一度でも逆らってから受けた様々な他の住民からの仕打ちも決定打となっていたみたい。とにかく夜逃げするように、私達は混乱の最中遠い知り合いに匿ってもらう約束を取りつけ逃げ出した。その後、すぐに諸々の手続きをして神奈川県郊外に引っ越すこととなる。私には黙っていたが意外にも自由に使える金だけは──先祖代々使い道のない金銭が貯まり、何もせずに亡くなってきた歴史であるので手放しで喜べないが──持っていたらしい。警察が村に介入する前のことだった。
両親に対する好感度は低いままだ。同じく呪いに囚われていた者として同情するが、もう少し親として私を守ってほしかったのが本音である。片腕を失ってまで抵抗してくれたのにそれ以上望むのかと問う者もいるだろうが、そもそもの私より桜火王を優先し続けた二十年近い生活の積み重ねがある。一度の出来事で負の感情がひっくり返って正の感情になるなどありえないのだ。
だから神奈川に来てから数カ月で私は一人暮らしを決意する。短大受験の勉強と同時進行は大変だろうが早く家を出たかった。両親の体調が見る見るうちに快復に向かっていたのも後押しした。と同時に桜火王が消滅しても考えは変化することなく、女性はできるだけ速やかに結婚を目指して子どもを産めと言われたのが真の決定打だった。ちなみに本当は四年制の大学に通いたかったが、早く社会に出て収入という生活基盤を安定させたかったのと短大の費用なら出すという約束はまだ有効だったため短大進学を選んだ、という理由もある。
両親との関係がこの先どうなるかは未来の私が決めることだ。今の距離感のままなんだかんだで薄っぺらい親子関係を続けるのかもしれないし、ある日突然和解し親密になる可能性だってあれば本気で縁を切ろうとする未来だってありえる。それでも現状は距離を取りながらどちらかが病気になれば気遣い、家を訪れる関係を続けている。特に理由がない顔見せだけの帰省も一度だけはした。こんな家族関係があったっていいと密かに思っている。私の生き方だ。誰にも文句は言わせない。
それでも一人暮らし当初は「外の世界」で生活を始めた両親の困惑は私にぶつけられ、その愚痴をあやめちゃんに聞いてもらう日々が続いた。都合さえよければ狭い新居にあやめちゃんを招いて夜通し語り続けるなんてことも沢山したと思う。そういえば央齢村ではあやめちゃんが私の家に遊びに来るのは少なかった気がして、これも一つの変化だと胸を高鳴らせたこともあったっけ。そうやって新しい生活に馴染んでいった後もあやめちゃんを招く頻度は変わらなかった。流石に受験勉強も佳境に入ってきたのでお互い無言で私はローテーブルに参考書を広げひたすら問題集に取りかかり、その背後であやめちゃんは本を読みふけっているなんてことが増えたけど。
ただ一緒にいるだけで心が安らいだ。私にはあやめちゃんがついていると背筋が伸びていった。そして遂にもう一度合格を勝ち取り抱き合って泣いたのが少し前の話だ。
「こんな嘘は……つかないもんね」
溜め息が自然に漏れていく。嘘をつくならもっと地に足のついた話をするはずで、尚更現実を突きつけてきた。
怪異退治。たしかにしたけれども。
様々な困難を乗り越えた先である現在。私は相変わらず愛想笑いで誤魔化そうとしているあやめちゃんから飛び出した衝撃的な発言に眩暈を起こしそうになり、額を押さえた。
「それ……言いたくないけど怪しげな金銭を巻き上げる宗教の名を騙る詐欺集団ではないんだよね?」
「不謹慎だけどそっちの方が突っぱねられたから良かったな」
「保留にしてるの?」
そっちの方が? 突っぱねられたから良かった? 不穏な物言いに胸がざわついていく。もしかしてあやめちゃん……力が自然に込められていく眉間に痛みを覚えながらも視線を逸らさないで睨みつけた。
「保留にはしてないよ。ちゃんと断っている。なのに連絡が来るだけで」
「警察の手を借りよう」
悪質な押しかけ訪問販売と同じじゃないか。私がスマートフォンを取り出せばあやめちゃんが「わあ」と悲鳴を上げる。壁が薄いから静かにしてよね。
「大体何でそれがバレたの? あやめちゃんがやっつけたって。それに桜火王や殺人朝顔だっけ? そいつらが実在するとしても他の怪異がいるとは限らないし、央齢村のことをワイドショーで聞いた詐欺集団が元央齢村の住民をターゲットにしている可能性も」
仲が良くはないとはいえ両親が詐欺に騙されるのは寝覚めが悪い。後で忠告の連絡だけしておくか。そう決意していればあやめちゃんが申し訳なさそうに口を開いた。
「その……何でバレたかは『そういう人達』から見れば一目瞭然だかららしい。で問題は詐欺集団ではない根拠がある方で」
落ち着かないのかあやめちゃんがマグカップを持ち上げてはテーブルに置くを繰り返している。そっと手で制して「あやめちゃん」と語気を強めた。
何か嫌な予感がする。根拠って。
「春柳先生に相談したら『一回現場に行ってみよう』って話になって。殺人ススキをお月見で倒すのを見学したんだよ。本当に同じように怪異と戦う者がいるとわかってしまったから詐欺ではないよ」
「私には相談しないのに先生にはしたの!」
「怒るところ、そこなんだ」
あやめちゃんが居た堪れないと云わんばかりの視線を送ってくる。殺人ススキ。この世には殺人植物の怪異がどれ程存在するんだろう。もしかして植物の数だけなのか、それ以上なのか。頭痛がしてきた米神を揉み解すようにしながら続きを促した。
「と、とにかくさ。大丈夫だから。真面目に世のために怪異と戦う人達は凄いとは思うけど私は死の危険と隣り合わせの仕事には就けないし、そもそも院に通いながらそんなハードなアルバイトは無理だよ……そんな顔しないで、本当だって」
あやめちゃんが引きつった笑みを浮かべる。私はそんなに恐ろしい顔をしているのか。鏡を棚から取り出したくなったがそんなことよりも考えることが山積みだった。
「信じていいんだね?」
「うん。それは信じていいよ」
それ「は」? 引っかかりを覚える言い方にまた頭痛がする。わざとらしく納得がいっていないというメッセージを込めて溜め息をついてみる。あやめちゃんの口角が一層引きつっていった。
こっちに引っ越してきてから気づいたことだけど、あやめちゃんはどうも自分の感情に鈍い。人をぐいぐいと引っ張っていくバイタリティも持っているし、意見もはっきりと伝えられる。弱いのでも苦手なのでもない。ただ単純に自分が嬉しいだとか悲しいだとかそういう感情に鈍感になっているようなのだ。今回のことも家族のことも妙なオカルト団体からのスカウトも一大事で、掘り進めていけば何らかの強い感情に辿り着くはずだ。けれど彼女はのらりくらりと曖昧な笑みを浮かべ「しょうがない」「まあ、いいか」と認識する。だから私にも相談せず、気がつけば全てが過ぎ去った後だ。傍から見れば何事にも動じない頼もしい存在だろう。他者の境遇に対して命を懸けられる程の激情を見せ、独り善がりになる程熱心に突き進む。なのに自分の感情はさざ波程度で済ませてしまうその生き方に危うさを感じてしまっていた。
私がついていないと、支えてあげないと。対等になりたいと告げたのは私の方なのに、最近そんなことばかりを考える。鈍さが自らを傷つける前に、あやめちゃんの傷を傷と認識しにくい性格に何か変化が訪れるまで。少なくとも一緒にいる理由を私は見つけていた。
「そもそも本当の意味で『同じ』なんてないからね」
「どうしたの?」
「独り言」
私達は「同じ」にはなれなくて、あっちはあやめちゃんが優れているけどこっちは私の方が得意だなんて差を持っている。そんな風に自他を評価するのが間違いかもしれないけれど理由がほしかった。
怪異という立ちはだかる困難は滅ぼせるが、そんなものより大きな人間の形をした不満を私達は抱えながら生きている。妥協と改善の境目を線引くのは何なのか、あるいは引かないのかすら自分自身だけで決めるのは難しい。怪異の呪いは完全に解けても人間関係の完璧はありえないのだ。
他者の不平不満に声を上げられるが自分の痛みには鈍感な彼女と、不平不満を流せるようで溜め込み呪う私。
寄りかかったり助けたりしながらこれからも二人で一緒にいる理由を作っておきたい。
だって──
「もし。あやめちゃんがそっち方面に進んでも見捨てないから」
ポカンと口を開けてあやめちゃんが包みを開ける前のクッキーをテーブルの上に落とす。
「何で」
「興味あるんでしょう? あやめちゃんの人生だから決めるのはあやめちゃん。でも絶対死んだり大怪我したりしないで」
あやめちゃんの顔がくしゃりと歪み、泣き出しそうな表情を作る。鈍い感情のどこかに楔を打つことができたと信じたかった。離れないでいてほしいと強く願った。
「そうかあ」
間延びした声が私の部屋に響きあやめちゃんが後ろのベッドに寄りかかる。
「本当にそっちに就職も考えていないし、アルバイトをしようとも思っていないよ。その……本当に興味があるだけで。ただの好奇心ってやつ。深入りすると突っ走りそうだからはっきり断ったし」
「オカルトに傾倒しても元気に遊んでくれたらそれでいいよ」
「……アンタ、止めたいの? 勧めたいの?」
「止めたいけど、あやめちゃんはそういうの好きなんだとは思っている」
そうか、と噛みしめるようにあやめちゃんがもう一回呟いて部屋に沈黙が訪れた。
遠くに行こうとした私をあやめちゃんは命懸けで引き留めたけど、同じことはできない。だから私は遠くにあやめちゃんが行くなら「それは遠くではない」と堂々と言い張ってやる。隣にいると宣言して曖昧な笑みを浮かべる友人を困らせてあげるのだ。お人好しな友人にはこれが一番効果的だ。
「私の入学祝いだけど」
だからまずは盛大に祝ってもらおうと私はスマートフォンを操作して画面に料理店を表示させる。冷めかかった珈琲を飲み干してあやめちゃんが顔を近づけてきた。
「どれ?」
「ここ。前に行こうって言ってた個室イタリア料理屋」
「ん。了解。じゃあ空いている日は」
あやめちゃんもスマートフォンを取り出して画面に指を滑らせればあっという間に予約が完了する。美味しそうなピッツァとパスタが並ぶ素敵なお店だ。
「あとね。これは祝いじゃなくてお願い。今年が忙しかったら来年でも再来年でもいいの。本当は昨年にしたかったんだけどお互いに大変だったから」
一人暮らし用の格安マンションの一室は二人でいるとすぐに暑くなる。肌寒い春の始まりだというのに首筋がぽかぽかとして私は立ち上がって窓を開けた。ひんやりとした風がレースカーテンを揺らし外に薄桃色の塊が小さく見える。
ただの、桜が咲く季節だった。
クローゼットの中で眠るワンピースを着て駅構内を歩いていた記憶がそっと脳裏を掠めた。一年前の今、二度と見ることがないと諦めきっていた光景を今度こそ見に行きたい。
「あやめちゃん、夏になったら海に行こう。一度でいいから風鈴のついている海の家でかき氷を食べてみたいの」
「水着を買わなきゃな」とあやめちゃんが微笑んだ。実は海に行くのは生まれて初めてになる。もし今年が駄目でも来年、再来年と予定を延期すればいい。私もあやめちゃんも自由なのだから。あやめちゃんは糸の切れた凧になりがちだから自由になり過ぎないように結び直さなきゃいけないけれども。
「水着って何処で買うものなの?」
「スポーツ用品店」
「それは競技用のじゃない」
クスクスと笑ってまたスマートフォンを動かす。女性用、夏、水着と検索をかければ可愛い水着が大量にヒットしたので画面を眼前に突きつける。
「これ、夏前に買いに行こう」
「随分と先の予定を決めるね」
「だってやりたいことなら山ほどあるもん。普通のお花見だって今年はするって約束したでしょ? それに浴衣着てお祭りも行きたいし花火も見たい。遊園地に、温泉にえっと」
短大に入学したら英語の勉強を集中的にしたい。それから資格が取得できる講義はできるだけ出て社会人に備えようと思っている。広い社会に出て働いてお金を稼いでそれで。いつかあやめちゃんをあっと言わせる提案を突きつけてやろうと企んでいた。
「そうだね。沢山遊びたい。まずは普通のお花見かな」
「うん! 楽しみだな、大学近くの公園」
戯れにマグカップを掲げればあやめちゃんが空のそれをぶつけてきた。コツン、と小さな音が響いて私達は微笑み合った。
いつか準備ができたら言うと決めていた。私が働き出して、あやめちゃんも進路が決まったその時に互いに誰かを家族とする選択をしていなければ。あやめちゃんがもし結婚をしたらその権利は配偶者に譲ってあげるけど、誰もいなければ私が貰おうと思う。
何故今すぐ言わないのかって? 隠し事ばかりのあやめちゃんに意趣返しをしたいから、そして未来にお楽しみを取っておきたいからだ。どっちになろうと私の特別はあやめちゃんで、あやめちゃんの特別は私だと確信できるからだ。たった一つの特別な友人枠はもう互いに埋まっているのだ。いずれできるかもしれない恋人とも新しい家族とも違うその居場所を互いに手にしている。
シェアハウスをして一緒に暮らそう。そう言って手を差し伸べる準備を、鈍いあやめちゃんの隣で呆れ果てる友達としてずっと過ごしていく一歩を私は確実に踏み出そうとしていた。
了




