4-2 閉幕
「サクラ……ちゃん……?」
悲鳴を上げ続ける化け物と花見を行なう化け物の醜い争いを止めるように背後から弱々しい声がする。
箸を握る手が、レジャーシートに座り込む足が少しだけ温まった気がした。
「あやめちゃん!」
私はレジャーシートの端に寄り一人分のスペースを確保する。振り返れば所々に擦り傷を作り肩で息をしているあやめちゃんが立っていた。
崩れ落ちるように座り込むあやめちゃんに紙コップを渡し、水を飲ませる。口に含んだ瞬間、顔を顰めていた。もしかしたら口の中が切れているのかもしれない。
身体中が凍てつくように冷たくなっていく。冷徹な、燃え盛るような爆発を通り越した桜火王に対する怒りだった。
「身体大丈夫? 折れてない?」
無遠慮なのは承知だがそれでも居ても立っても居られなく四肢をそっと触らせてもらう。花見を続けなければならないため、左手にはおにぎりで随分と不格好だ。あやめちゃんはされるがままに水をこくりこくりと飲み、小さく「痛いだけで折れてはいない」と答える。たしかに打ち身のように赤くなっているが極端に腫れている箇所はなく、胸を撫で下ろした。
「あやめちゃんの馬鹿! 何で言ってくれないの!」
ホッとした後に飛び出したのは相変わらず身勝手な一言だ。あやめちゃんも身勝手だけど、私も大概でお似合いなのかもしれない。
「それは……言いにくいのもわかるでしょう」
ふいと目を逸らされ、胸が痛んだ。
「そういう優しさが好きで腹立つの! 私はあやめちゃんを呪ったんだよ! だったら呪い返してくれてもいいのに」
「返さないよ。というより」
はあ、と溜め息をつかれる。顔色がかなり良くなったあやめちゃんは腕に添えられたままの私の右手を取ってレジャーシートに投げ出させた。
「てっきり謝られるのかと思った」
今度は私が呆気にとられる番だった。
「謝らないよ。だって私が何を言おうとあやめちゃんは自分の好きなように行動しちゃうもん。私が何をしようとも」
「よくわかってるじゃない」
一拍の沈黙の後に、同時にふき出す。クスクスと口元を押さえれば、あやめちゃんは逆に歯を見せて豪快に声を張った。あやめちゃんが今怪我をしているのも呪いで苦しんだのも全部私のせいで、この罪を一生背負っていこう。
だからこそ謝らない。お人好しのあやめちゃんは私を許すから。それに何をしようとも、お節介で止められないから。
ケラケラと擦り傷の痛みを忘れたみたいに笑うあやめちゃんを前に、身体がぽかぽかと温まっていく。凍てついた心に血が通い始めた。
心臓が今から動き出したみたいだった。残忍な笑みではない、私が捨て去ったはずの感情が再生され頬が緩んでいく。一頻り笑って、咳き込んで、そうしてもう一口水を飲んでからあやめちゃんは私の名を呼んだ。
「サクラちゃんは人間だよ」
「なあに? さっきの私の啖呵を聞いて」
「アンタは化け物じゃない。私は死んでないし、サクラちゃんは誰も殺していない。ずっと一緒にいた私が保証する。アンタはただのちょっと抱え込みやすいところが玉に瑕の人間だ」
視界が一瞬で滲んで、そして冷えた頬に温かい何かが伝っていった。あやめちゃんはじっと私の瞳を見つめる。あやめちゃんの瞳の中にくしゃくしゃになった私が映っていた。
手がそっと伸び私の頭上で止まる。ポンポン、と軽く叩かれ少しだけ困ったように眉を下げられた。
「それに仮に化け物でも怪異でも殺人を犯しても、アンタが死にそうなら助けに行くよ。私を止められないって一番サクラちゃんが知ってるでしょう」
「……あやめちゃんの馬鹿」
「アンタそれしか罵倒の言葉知らないの?」
何だか気恥ずかしい。でもそれはあやめちゃんも同じなのをもう知っている。互いにもう一度笑い合い、対面して座った。私の激しい滑り込みで吹っ飛んだ紙皿の代わりに新しい皿を一枚ずつ目の前にあやめちゃんが並べる。私は新しい箸を袋から出して、その皿に卵焼き、出汁巻き卵、パプリカの炒め物、唐揚げと円状に盛りつけていった。
『いい加減にしやがれ! お前ら!』
団欒とした花見の空気を壊す不届き物が叫ぶ。あれ程威光を放っていた桜の花は殆ど散り、冬の枯れ木のようだった。枝も太いものは根元から折られたように失われて、子どもの手でもへし折れそうなものばかりが寂しげに辛うじて幹にくっついていた。その幹も斧を様々な方向から入れられたようにギザギザになり今にも倒れそうだ。
鼻で笑い飛ばして新しい紙コップに残りの烏龍茶を注いで自分の前に置く。そしてあやめちゃんの前のにも注いで空になったのを確認した時だった。
あやめちゃんがハッと顔を歪め「食べ物を守って!」と紙皿と紙コップを押さえる。真似した途端、桜火王が叫び残り少ない細い枝が何本か吹き飛び、桜の花びらが宙に舞った。結界を貫通して突風が私達に降り注ぎ押さえていなかった荷物の大半が禁足地の外へと飛ばされていった。
「せっかく二人で作った弁当が!」
私達が作った大切な弁当が空を舞い炎花葉で燃やされ、シャボン玉セットやスピーカー付きカラオケマイク、中身が入ったペットボトルがころころと転がっていっては呪根元絞めに捉えられてひしゃげていく。メロンソーダがあったのだろう。軽快な破裂音と共に緑色の液体が飛び散り辺り一面に甘い香りが漂った。
『これでお前らにはその紙皿の食べ物と飲み物だけだ』
桜火王が身体を更に震わせ残りの桜の花を宙へ飛ばす。毒桜吹雪──! 一撃必殺の猛毒が私達の頭上で円を描いていた。
『本当の我慢比べだ。それで俺を完全に灰にできればお前達の勝ち、できなければ俺の勝ちだ』
「食べ物を粗末にして……!」
怒りを露わにパプリカを口に運ぼうとすればあやめちゃんが手で私を制した。
「どうしたの?」
「サクラちゃん、これからは本当にお花見を楽しまなければ私達は……負ける」
額に汗を浮かべている姿に首を傾げながら私は残された紙皿に視線を落とし「あっ」と声を上げそうになった。
『二人前程も食らったのにまだこんなに幹が残っているなあ。……残りを消滅させるのに足りないんじゃないか』
私達に残された食料は紙コップ半分ずつの烏龍茶と互いに唐揚げ一つ、パプリカが二切れ、そして出汁巻きと甘い味付けの卵焼きが一つずつだ。対して桜火王の身体はみすぼらしくなったとはいえ、全体の二、三割は残っている。
二人前。殆どはあやめちゃんの胃の中に収められたその量でようやく七、八割を灰として消滅させた。本来なら私が残されていた弁当を食べ切れば余裕だったはずなのだ。
けれど、目の前には一人前にも満たない食べ物しかない。血の気が失せていくのを感じた。
「悪いけどここからは二人での攻撃だよ。花見を楽しんで桜を蔑ろに消費することが目的ならば、二人でいれば倍以上の効果はある。アンタなんか唐揚げの一つで完全に灰にすることだって可能だ」
つまり私達は意地でもお花見を楽しまなければならない。ただ桜を眺めるだけでなく、それ以上のパフォーマンスを発揮しないといけない。
あやめちゃんと、楽しむ。かつての私達みたいに!
『強がりを……ほうら。そろそろ花見を続けないと』
「サクラちゃん! パプリカを齧って!」
咄嗟に転がっていた箸を掴みパプリカを齧る。レジャーシートの端を削り取りながら物凄い勢いで根が生え、結界に跳ね返された。
死の恐怖が脳裏を掠める。しかし、あらゆる感情が塗り潰していった。
「大丈夫?」
心配げにあやめちゃんが顔を覗き込んでくる。
「平気に決まってる。だって」
それでも私は勝てると、必ず勝つと決めていた。この忌々しい化け物に目に物を見せてやらないと気が済まなかった。
私は人間だ。抑圧され歯を食いしばりながらも僅かな希望に縋って、時に人を呪うごく普通の心に化け物を飼っているただの人間だ。
「あいつに人間の呪いの恐ろしさをわからせてやりたいし。それに」
レジャーシートの上で足を揃え正座する。私にとってこれは立ち合いだ。
「短大も行きたいし、あやめちゃんとお花見以外にもしたいこと沢山あるもん。だからあやめちゃん、私とお花見を今度こそして!」
「うおおおお」としゃがれた声が遠くから響き、続いてハウリング音が場を支配する。全員が音の出所に視線を送って目を丸くした。
「爺さん!」
林造お爺さんが覚束ない手つきでマイクを握り、そして調子っぱずれの歌をシャウトした。村の祭りでよく流れていた六十年代後半のヒット曲らしい。「遅れてきた青春を」と鼻歌交じりに畑仕事をしている姿がよぎった。
「わ、ワシもお前達に賭ける! こんな化け物、始末した方がいい!」
『林造! お前!』
曲のかけ方がわからなかったみたいで、アカペラでお爺さんは歌を紡ぐ。気がつけば禁足地に足を踏み入れて、襲いくる呪根元絞めを完全に結界で弾き飛ばしていた。
錆びた鉄を擦り合わせたような悲鳴を桜火王が上げ、細い枝が折れていく。あやめちゃんが大声で笑う。私も生まれて初めてお爺さんに好感を少しだけ抱いた。
「マイク、あっちに転がっていたのか」
あやめちゃんも目元の涙を拭って正座の姿勢をとる。何だかこうやって向き合うのは本当に久し振りな気がした。
「私ね。花見を楽しむって聞いた時、昔の私達みたいに話そうって思ったの」
残りのパプリカを摘まむ。少しだけ多めな塩胡椒の味がパプリカの甘さを引き立てていた。
「昔の?」
「小学校六年の時の林間学校。あの時に布団並べて寝不足になるくらい」
「ああ。次の日先生に叩き起こされて」
「でも違うなって今思った」
あやめちゃんが出汁巻き卵を箸で二つに割って片方を口にした。私も真似て甘い味付けの方を食べる。ふんわりとした、初めてなのに懐かしいような甘さが広がった。
「だって昨日から喧嘩して、こんなに色々話して、前と同じな訳ないもん。でも今の方が好き。色々言えてスッキリしたし」
「たしかに。……私もスッキリしたな」
お爺さんの熱唱と桜火王の絶叫が響く。最悪のBGMだけど、私にとってはこの空間が最高だった。あやめちゃんとお花見をしている今が生きていて一番素敵だった。
「ねぇ。話変わるけどあやめちゃんって濃い味が好きなの?」
「何で?」
「味付け、全部濃い。将来健康面で後悔するよ」
「いきなり酷くない?」
苦笑いを浮かべながら紙コップを手にして、そしてあやめちゃんが渋い顔をして置いた。
「もしかして今日異様に喉が渇くのそのせいか」
「もう弊害が生まれてるじゃない」
呆れたと唇を尖らせれば、誤魔化すように唐揚げを頬張る。
「冷凍食品食べようよ。これさ、お気に入りなんだ。学校にも持っていったりする」
「あやめちゃん、弁当作ってるの?」
「たまに、ね。節約のために」
ふうんと頷き私も唐揚げに手をつけた。美味しいけどこれも濃い味付けで本当に不安になってくる。
『よくも……! よくも……!』
途切れ途切れのラジオのように殺人桜が恨み言を吐く。私も、あやめちゃんも倒れそうな幹を一瞥して笑顔で話を続けた。
「味が濃いのはわかったけどさ。卵焼き、どう?」
「甘いのも、出汁巻きも美味しいよ。でもちょっと固いかも」
「……実は初めて作ったんだ」
えっと眉を上げればあやめちゃんが頬を薄く染めていた。
「弁当作ってるのに?」
「基本、残り物と冷凍食品で済ませるから」
「あやめちゃん、卵焼きにはね。少しだけ溶き卵にお水を入れるの。そうするとふんわり焼き上がるよ」
「水で? 本当に?」
首肯すればきらきらと瞳を輝かせる。今日一番の笑顔で何だか可笑しくなってしまった。
『呪って……やる……』
「アンタの敗因はさあ、人の恐怖を楽しんだところだよ。残虐さに歯止めが効かなくなったんだ。本当はちょっと昔話として噂されるように恐れられるだけで十分だったのに。生きるための力を得るためではなく、人間を傷つけるために支配したんだ。その悪意がアンタがやってきたように反射した、それだけだよ」
含み笑いを浮かべていれば怨念が籠った声が鼓膜を揺さぶる。お爺さんの歌で、そして私達のお花見で桜火王はもう枝は全て折れ、今にも倒れそうな幹だけとなっていた。
『呪ってやる……道連れ……だぁぁ』
最期の足搔きだろう。私達の頭上をずっと回転し続けていた毒桜吹雪が光を帯び一斉に降り注ぐ。私達は顔を見合わせどちらともなく紙コップを手に取った。
「あやめちゃん、再会を記念して」
「サクラちゃん、お花見を記念して」
紙コップを掲げる。そして縁を重ね合わせた。
「乾杯!」
『ぎゃあああ……ぁぁぁ』
瞬間、眩い閃光が桜火王から走る。僅かに残っていた貧相な幹が青白い炎に包まれる。毒桜吹雪も同様に青白く光り、やがて幹と共に灰となった。
何百年もこの地を恐怖で支配した怪異、桜火王の最期だった。
沢山の灰が花びらの代わりに舞う。どこからともなく突風が吹き、全てを巻き上げそして空に溶けるように消滅していく。
「呪ってやるって最初から呪ってる癖によく言うよ」
傷だらけの身体を見回しながらあやめちゃんが立ち上がる。
「呪うしか能がないんだから仕方がないよ」
「アンタ、結構言うね」
へらへらと私もあやめちゃんも笑みを浮かべる。先程まで命の危険に晒されていたとは思えないくらいに互いに軽薄でむしろ清々しかった。
「それでこれからどうするの?」
永遠にも感じた時間だったが、実際はさほど経過していないのだろう。月は位置を殆ど変えず、朝日が昇るにはまだ時間がかかりそうだった。
立ち上がり深呼吸をする。冷たい春の空気が肺に溜まりそして抜けていく。ふと周囲を見渡した。
桜火王がいた場所にはぽっかりと穴が開き、反して他の「元」禁足地は平坦だ。あれだけ呪根元絞めが乱れ打っていたのに、その存在と共に消えてしまっていた。
何も残らない。私達は酷く傷ついたのに。冷たい空気を入れたはずの身体が熱く火照ってくる。無性に腹立たしくて、そして哀れだった。
──終わったんだ。
ありとあらゆる桜火王に対する記憶が蘇り、その全てが苦痛でしかない事実に思わず拳を作っていた。
──もう、本当に。
私は死ななくていい。これから先を生きていける。そう実感した途端、膝から力が抜けた。レジャーシートに尻餅をつくように崩れ落ち、あやめちゃんが身体を支える。
「大丈夫?」
「私」
「うん」
「これからも生きていていいんだ」
「当たり前じゃん」
互いに夕飯のメニューを聞くような淡々とした声色だった。予想外に涙が出なくて戸惑ってしまう。きっと本当なら私もあやめちゃんも号泣してもおかしくないのだ。でも。
怒りも恐怖も膝の力と共に抜けてしまっていた。あるのは清々しいこれから先の展望だ。
トクン、トクンと心臓が動く。私は生きている。
「じゃあ、とりあえず東京でケーキ食べたい!」
この衝動をもう呪いになんか変えなくていい。極度の緊張から解き放たれたせいか鉛をつけられたみたいに重い身体に対して、心臓が軽やかに跳ねる。衝動をそのまま願望に変え私が叫べばあやめちゃんはフフッと笑みを零した。
「バイキング行く? ホテルのやつが美味しいらしいよ」
「行ったことあるの?」
「ない。だからアンタとが初めてになるかな」
当然のように二人で行動するように話せている──! 足元から頭の先まで身体中で感情が踊っているみたいでくらくらした。全身が震えている。きっとこれが感極まるというものなんだろう。感情を自覚すれば更に胸が高鳴り、私はもっと大声で叫んだ。
「あとね。食べ放題なら焼き肉屋! カルビでしょ、それからタン塩にハラミで」
「回転寿司もどう? でも、その前にね」
諫めるように、宥めるようにあやめちゃんが優しく微笑む。そして左に身体を向けて歩き出した。
「とりあえず爺さんを助けようか。恩を売ったままにしたくないし。腰が抜けちゃっているみたい」
「さっさと助けんか!」と無事に生き残った林造お爺さんがマイクを振り回す。七色に光るそれに何だか応援されているようで、私もあやめちゃんの後を追った。
「そういえば一発殴られたんだった」と告げ口をしたところ、あやめちゃんが鬼の形相で拳を握りしめたから羽交い絞めにして止めたのは別の話。




