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4-1 真の化け物

『しくじったなあ。火浦の娘よ。老いぼれを助けて花見を中断するとは』

 あやめちゃんが桜火王様に殺されちゃう! 視界の端が黒く狭まっていき血の気が失せていくのがわかった。叫ぶことすらできないで私は縫いつけられたように草履を地面に擦りつけている。

「私がアンタを『お祓い』している時に爺さんが死んだら、まるで私のせいみたいじゃない。そんなの御免だ」

『強がりを』

 絞り出すようにあやめちゃんがまた挑発する。やめてよ、そんなことしたら本当に!

「火浦……どうして」

 お爺さんが膝から崩れ落ち呆然とあやめちゃんが見上げている。あやめちゃんが自分を助けるとは思っていなかったのか、この人は。

 カッと腸が熱くなる。無意識にタオルが巻いてあるその手を引きずり上げていた。

「あやめちゃんはあなたみたいな人でも助けるお人好しなんです! そんなこともわからないんですか! 一緒の村に暮らしてたのに!」

 お爺さんが言葉を詰まらせ俯く。決まりが悪そうに小さく呻いた。

 そうだ、あやめちゃんは面倒な程お人好しでお節介なのだ。こんな私を助けるために命懸けでお花見をして、あんなに酷いことを言ったのに助けに来てくれて。小学校の時からそうだった。例えば。

 そこまで記憶を探りはたと気づく。私も忘れていたんだ、あやめちゃんがずっと優しかったのを。村での思い出より、あの別れを選び一人で憎しみを募らせていたのを。

 指先が冷たくなり震える。私、最低だ!

『おっとよそ見をしている場合か。咲楽、林造。今からお前達を一番の恐怖に陥れるショーの開幕だというのに』

 呪根元絞めがゆっくりとあやめちゃんの身体に食い込み、口から潰れた蛙のような声がする。どうしよう! どうしたら!

「やめてください! 生贄は私だけでいいはずです! だから桜火王様! あやめちゃんを助けてください!」

 父の腕が切断された時と同じだ。私は地面に頭を擦りつけ袴が汚れることもお構いなしに土下座をした。

 悔しかった。結局土下座しかできない自分が。これからこんな奴に身を捧げる選択を取った自分が!

 歯ぎしりを通り越してプツリと何かが切れた音と共に口の中に鉄の味が広がる。痛みは感じない、それでも唇の端を嚙みちぎっていた。

『いいや駄目だ、咲楽。長郷、父親と二度も見逃してやったのにどうにもお前の周りには反逆者が現れやすい。……ああ、そうだ』

 愉悦をそのまま音にした声が響き、私は真っ青になりながらそっと顔を上げた。苦悶の表情を浮かべ顔を真っ赤にしたあやめちゃんの四肢が根っこに支えられ真っ直ぐに伸びている。このまま引きちぎる気なのだ。想像するだけで吐き気を催しそうになるが目を逸らしたくないし逸らしちゃいけない。止めなければ。でも何をすればいい?

『ここまで俺を苦しめたんだ。ただ身体を引きちぎるだけじゃ気が済まねえ。だから火浦の娘。お前には心身ともに苦しんでもらう! 咲楽も含めてな』

 ギュッと目を閉じていたあやめちゃんが薄目を開けた。何かをやめさせようと必死で手足をばたつかせ、呪根元絞めが更にそれを絡めとる。言葉にできないような鈍い音が四肢からした。

『火浦の娘。駄目じゃないか。友達には本当のことを言わないと。あんなに俺を恐れていなかったお前がどうして呪われたのか』

 あやめちゃんの目が更に見開かれ、必死に振ろうとしていた首に根が巻きつく。

 え? 私はポカンと口を半開きにして随分とみすぼらしくなった桜火王様に視線を向けた。

「それって……」

『咲楽。……お前のせいだ。お前が自分と一緒に呪われてほしいと願ったからこいつはそんなお前越しに俺を恐れた。お前があんなことを言わなければ火浦の娘はここで四肢を引きちぎられない! 呪いにも苦しまずお前を過去の存在にして大学生活を謳歌していた! 火浦の娘を殺すのは俺じゃない。俺の呪いだが……真にかけたのはお前だ、咲楽。お前が殺すのだ!』

 目の前が一瞬真っ暗になり息が止まる。満天の星空も、苦しそうなあやめちゃんも、桜火王様も見えない。

 私のせい? 私の──

 不意に過去の光景が濁流のように押し寄せる。あやめちゃんの高校卒業式に私は二人きりで話がしたくて彼女を校舎裏へ呼び出した。そして。

 ──あやめちゃんも桜火王様に呪われてしまえば一緒になれるのにな。

 ああ、そうだ。一人でいなくなってしまうあやめちゃんが憎くて、私の努力なんて知らないで無神経に決めつけ手を差し伸べてくるのが恨めしくて、それでも大好きだった。

 どうすれば一緒にいられるのだろう? 央齢村に産まれた私と引っ越してきたあやめちゃん。呪われた私と呪われていないあやめちゃん。差を埋めるには。

 零れ落ちた本音だった。一筋の光が私の薄暗い情念に降り注ぎ、鼓動が早まりくらくらとする。止めたくても上がっていく口角をそのままに、私は呪いの言葉を口にした。産まれて始めて本気で人を呪った瞬間だった。

 そして間違いに気づいたのは、吐き出した直後だった。

 自らの醜さとあやめちゃんから私は走って逃げ出したのだ。

 あやめちゃんから獣の咆哮に近い濁音混じりの唸り声が上がり、意識が引き戻される。その反応こそが正解の証で私の罪だった。そういえばここに来たばかりの頃、あやめちゃんが桜火王様の発言を遮っていたのはこれだったのかと胃に重い物が溜まっていく。

 あやめちゃんはお人好し。一番理解していないのはやっぱり私じゃないか。

「あやめちゃん……! やめてください! どうか桜火王様!」

 私のせいだ。全部私のせいじゃないか! 叫ぶことしかできなくて四つん這いのまま喉を震わせる。どうか、どうか!

「何で……! 何であやめちゃん、私のために!」

 わかっているよ、だってあやめちゃんは優しいから。私が傷つくと思って黙ってたんだ。私が桜火王様と同じく人を苦しめる存在だと気づいてしまったら立ち直れないと思ったんだ。答えられるはずもないあやめちゃんに愚かにも返事を乞えば桜火王様の高笑いが響く。お爺さんが隣で手を合わせ祈るようなポーズを取っている。この人は今何に祈っているのだろうか。

 私のせいだ。お爺さんの浅い呼吸音が耳障りだ。

 私があやめちゃんを呪った。桜火王様が私を、あやめちゃんを嘲笑い続けている。

 私があやめちゃんを殺すのだ。記憶の濁流が感情と合流し瞳から水となって放流される。びっしょりと全身に汗をかいていて、鼻緒が当たる足の指の間も切った唇の端も痛みを感じない。

 どうか、どうか……どうか? 突如、何も遮断されたように音が途切れる。必死に抵抗を続けているあやめちゃんも、桜火王様の根も、風に舞う桜も全て止まっていた。

 お爺さんは何に祈っているのだろうか。では、私は? 私は何に縋っている?

 呪ってでも手放したくない存在だった。呪いの恐ろしさを誰よりもしっているのに、私は火浦朱芽を呪った。禁忌に手を染めたのだ。私もまた怪異なのかもしれない。桜火王様と同じく醜悪な。

 だから。

 止まっていた──正確には私が止まっていると感じていた──時が動き出し、身体が凍ったように冷えていく。体重を支えた膝が袴越しに土に冷気を伝えているようだった。

 やることはもう、決まっていた。

「咲楽?」

 お爺さんが名を呼び、そして喉を引きつらせた。ゆらりと立ち上がる。そして邪魔な草履の左をゆっくりと脱ぎ捨て、右を足の親指と人差し指で挟んだ。

『さあてそろそろ……どうした? また懇願か? お前次第では』

「必要ないです。……必要ないよ、桜火王」

 お前次第だと? どうせ嘘な癖によくも! 袴を手で持ち上げ、右足の草履を天高く蹴り上げ放す。宙を舞う草履を見届ける間もなく足袋で土を蹴り走り出した。「あっ」と桜火王が声を上げあやめちゃんを引きちぎろうとして──

 その根が全て灰となった。

『ぎゃあ! な、何故だ!』

「靴投げ鬼ごっこ……私が鬼だから、逃げてね」

 靴の片方を鬼が放り投げ、拾う間に他の者が逃げて隠れる。缶蹴りをアレンジしたもので、小学校の頃よくあやめちゃんとも遊んでいたのだ。もっとも桜火王は逃げられないので、厳密には鬼ごっことして成立していない気もするけれど。とにかく今私は「花見より鬼ごっこを優先させ桜を消費した」のだ。あやめちゃんに駆け寄りたい気持ちを全力で抑え、鬼となり桜火王を追うように可愛らしいレジャーシートまで走り抜ける。逃げる代わりに苦しみながら桜火王が根を私に差し向け右頬を掠めていくが、怯まずにお重が広げられた安全地帯に頭から滑り込んだ。

 全身に鈍い痛みが走る。衝撃で紙コップが倒れ、烏龍茶が私の頭を濡らす。構うものか。これで「捕まえて」やった。鼻息荒く私はツナマヨおにぎりを掴むと肉食獣が獲物に歯を突き立てるように噛みちぎった。

『何だとぉ! 咲……』

「気持ち悪い声で私の名を呼ばないで」

 マヨネーズが多く油っぽい。隠し味に出汁を足しているな、これ。私が嚥下しもう一度齧りつけば桜火王が汚い悲鳴を上げ、せいせいする。高笑いしたいくらいの衝動を食欲に変え、念願の卵焼きに箸を突き刺した。

『馬鹿な! お前、どうして俺が』

 盆栽崩れの木がうねうねと気持ち悪く動き、目に見えて狼狽している。愉快だった。私が食事をする度に呻き声を上げる化け物が、滑稽でならなかった。

「怖くないよ。だって……あなたは私だから」

 桜火王という名の化け物が息を呑む。レジャーシートの上で立ち上がり、にたりと微笑んでみせた。

「呪いをかけるのが怪異なら、人間に呪いをかけてみせた私もあなたと一緒だよ。私も化け物なんだ。あなた以上の、呪いの意味すら気づかなかった邪悪な殺人鬼のなりそこないだ」

 心が、身体がどんどん冷たくなっていく。最後の一口を残した冷え切ったおにぎりが手の中で妙に熱く感じた。

 同じ化け物をどうして恐れる必要があるのだろう!

「覚悟しなさい。この殺人桜が! 呪い殺してやる!」

 許さない、許さない! この殺人桜が! あやめちゃんを! お父さんを! 私の人生を!

 醜い獣の咆哮が喉奥から狼煙のように発せられ、私はおにぎりを頬張る。ちぎれ飛び灰と化す幹の一部が花びらよりも美しく、私は恍惚と息を漏らした。


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