1-2 料理
キッチンが付いているホテルがある、と淡々とメッセージが送られてきたのを覚えている。
つまりホテルの一室がマンションのようになっていて滞在中「暮らせる」形式らしい。たしか正式名称をあやめちゃんが送ってきた気がするけれど忘れてしまっていた。あやめちゃんと会える、その事実に頭がいっぱいで余計な情報を無意識にそぎ落としていたのだと私は自分自身に苦笑する。
空のスパゲッティーのプラスチックパックが二つゴミ箱に並んでいる。その隣であやめちゃんはシンクで手を洗い戸棚から包丁とまな板を取り出しダイニングテーブルへと並べていく。小さなキッチンは二人で作業するには不向きであり、食材の切り分け等火を使用しなくても問題のない作業は全てテーブルでやろうと二人で決めていた。
「新聞紙引いたから汚れないよね?」
「うん。違約金取られる心配はない」
「じゃあ始めようよ、まずは何からする?」
あやめちゃん、と私は首を傾げて尋ねた。するとあやめちゃんが奥のベッドがある部屋に行き、ナイロン製のバッグの前でしゃがみ込む。カタカタと震わせて大きな箱をダイニングテーブルへ置いた。
「あやめちゃん」
「ん?」
「それお重だよね?」
村の集会でよく見かけるそれに私は怪訝な顔をあやめちゃんに向ける。
「私の顔より大きいのが四段も。二人で食べ切れないよ」
「せっかくだから見た目を豪華にしたくてさ。全段ぎっちり入れなきゃ大丈夫だって。私沢山食べるし、余ったらクーラーボックスに入れて持ち帰るし」
一段目はお肉を入れて、二段目は煮物をと指を折っていくあやめちゃんに私は首を振った。
「その量だと四段全部使うと持ってく時にぐちゃくちゃになっちゃう。一段に全部入れるくらいにしないと」
あ、と抜けた声を漏らしてあやめちゃんが固まる。小学四年生の時の遠足でリュックサックを振り回して弁当箱の中がシェイクされていたのを思い出したようだった。
「それは困るなぁ。だったら」
あやめちゃんがお重を抱え再び奥の部屋へ消える。そして片手で円形の先程のお重よりは小さな箱を持ってきた。
「二人から四人分くらい想定のお重。これならいいでしょ?」
ピンクの二段重ねのお弁当箱。蓋には白で猫のイラストが印刷されていた。
「うん。これくらいなら……それでもちょっと多いけどね」
「じゃあ、作りますか」
「ところであやめちゃん」
どうしても気になることが一つだけあった。あやめちゃんは不思議そうな顔をしながら合格を貰った箱をテーブルの端に寄せている。
「もしかしてお重、何個も持ってきたの?」
あやめちゃんが都内から自動車で会いに来るとは事前に聞いていた話だ。大荷物でも大丈夫だから買い出しは事前に済ませるとも言われ、私は自分の着替えくらいしか持ってきていない。部屋に荷物を運びこむ時にあまりの多さに目を丸くしたが、こんな嵩張る物を複数持ってきていたなんて。
呆れが伝わったのかあやめちゃんが頬を掻く。そしてポツリと唇を尖らせながら漏らした。
「実はもう一つ、さっきのより大きな物も持ってきてる」
フッと私の口から空気がふき出す。クスクスと声を出せばあやめちゃんの頬が薄らと赤くなっていった。
「何でそんなに弁当箱ばっかり」
「大切なお花見のためだから迷ったの全部持ってきたんだよ」
そういえばあやめちゃんは妙なところで優柔不断だった。高校で文系か理系かはすぐに決めて進路調査書を提出していたのに、喫茶店でイチゴケーキを頼むかチョコケーキを頼むかで二十分頭を抱えていた。結局二人で半分こすることにして大袈裟に感謝されたこともあったっけ。口角が自然と上がっていく。ちょっと子どもっぽいところがあるから二つ年下の私と仲良くしてくれたのだと思えば尚更だ。
あやめちゃんが咳払いをしてキッチンの前に置かれたレジ袋とクーラーボックス達をこちらに移動させ始めたので私も続く。ずっしりとした重さの食材達は改めて見ると絶対に二人では食べ切れないような不安になる量だった。
一泊二日。今から二人で夕飯用のお弁当を作って夜桜を見に行くことになっている。そしてホテルで夜更かしして悔いのないように話して、朝ご飯を食べてそれから家に帰るのだ。
「まず、献立だけど」
あやめちゃんが食材を一つ一つ並べてる間に改めてお重の蓋を開けてみる。あやめちゃんに買い出しを任せた手前、献立も自動的にあやめちゃんが決めることになる。目分量だと一段に大体五、六種類のおかずを詰め込めそうだけど何を買ってきたのだろう。
「下の段の半分はおにぎりにする予定だけど何個いる?」
「中くらいのを二つ!」
もしあったらでいいんだけど出来ればツナマヨとおかかチーズがいいな、私がそう告げればあやめちゃんが得意気にツナ缶とおかかのパックとブロックチーズを引っ張り出す。私の好みを覚えてくれたことに一層笑みが深くなった。
「お米は炊くんじゃなくてパックをレンジで温めた方が楽だと思って買ってきた。それから揚げ物もちょっと借りてるスペースで揚げるのはなぁ」
「えっ! 唐揚げは必須じゃないの」
「そのために冷凍食品を」
目の前に揚げたての写真が印刷された唐揚げのパックが差し出された。良かった。私が胸を撫で下ろせばあやめちゃんはケラケラと笑う。
「それからミートボールとアスパラガスをベーコンで巻いたのを入れたいなと思って」
コトリ、コトリ、一つずつ食材がテーブルに並ぶ。調理済みで温めればいいだけの物、一からどんな料理をするか考えなければならない物が混ざっていた。
「サクラちゃん、出汁巻き卵焼き好きだったでしょ? それとほうれん草のお浸し」
ほうれん草も冷凍の物らしい。私の家では見かけない調理工程を省けるお手軽な品物にへぇと関心の声が口から漏れていた。
「甘い卵焼きも食べたい」
「そういうと思って卵は多めに買ってきたから。後はウィンナーでしょ? 彩りを考えてパプリカは塩胡椒で炒め物に。ポテトサラダは人参と玉葱を入れよう。あとはちくわの穴に胡瓜とマヨネーズを入れたのかな」
「最高!」
どれも好きな献立だった。私がきらきらと顔を輝かせるとあやめちゃんは身体を屈めて透明なケースやサランラップ、それからおかずパックを袋から取り出した。
「作ったのが余ったらこのタッパーに入れて持って帰る。それからお重内の仕切りは基本はサランラップで囲って水気の多いものはこのおかずパックを使う。ここまでで質問は?」
「無いです! 早速作ろうよ」
浮足立って私はじゃがいもが入った透明な袋に手を伸ばす。表面を洗おうと立ち上がればあやめちゃんがスマートフォンを取り出した。
「どうしたの?」
「レシピを確認しようと思って。えっと……調べておいたポテトサラダのを。まず」
「大丈夫だよ。私、よく家でご飯作ってるから」
人参にパプリカにアスパラガス、じゃがいも。とりあえず水洗いした方がいい野菜を私が手に取ってシンクに向かえばあやめちゃんが呆気にとられたように後ろからついてきた。
「一気にまとめて洗うの?」
「一つ一つ作るより似たような工程は纏めた方がいいじゃない」
「マルチタスクってやつか」
レバー式の蛇口を押し上げプラスチック製の洗い桶に水を張った。聞いたことのないスーパーマーケットのラベルが張られたビニール袋から野菜を取り出せばどれもあまり土の匂いはせず、綺麗だった。都会ではここまで洗浄されたものが売っているのだろうか。土塗れになりながら毎日野菜を洗う日常がフラッシュバックのようにちらつく。胃の奥がむかむかするような感覚の燻りを覚えつつじゃがいもを桶の中へ投入し、表面を指で擦る。あまり濁らない水に胃が波打つ。すると隣にあやめちゃんが立ち蛇口を上げた。
「人参もじゃがいもも小さく切って火は電子レンジで通そうと思っているんだけど」
「茹でないの?」
「そっちの方が楽でいいよ。楽しよう。レシピにも書いてあった」
人参とアスパラガス、パプリカを蛇口から流れる水に当てながらあやめちゃんが台の上にセットされた電子レンジに目をやった。私は頷くと続いて玉葱をビニールから取り出し状態を確認する。皮の上に土は付着していない。これなら剥いた後にさっと流すだけで良さそうだ。
「パプリカは先にヘタと種とわたを取っちゃおう。待ってて」
テーブルに戻り赤と黄一つずつのパプリカを縦に切る。包丁でヘタの部分に切れ込みを入れ、へたと種を取ってワタをそぎ落とした。おお、とあやめちゃんから声が上がったのでちょっとだけ自慢したいようなそんな気分になる。
「はい。これで洗って」
「わかった。ところでアスパラガスの下処理にピーラー買ってきたんだけど使う? それととりあえず野菜の皮剥いておくって感じでいいのかな」
「うん。ピーラーあるならありがたいかも。洗って持っていってくれる?」
「はーい」と間延びした声がしてあやめちゃんはまたガサガサとビニール袋の中を漁り始めた。
どうやらあやめちゃんはそこまで料理が得意……というより経験が少ないみたいだった。そもそも本当に効率的に料理をするのであれば例えばじゃがいもを電子レンジで加熱している時間に人参の皮を剥く等、同じことを纏めて処理するのではなく別の手順を同時進行した方がいいのだ。料理にもよるが一品ずつ仕上げるのではなく同じテンポで全ての料理を行なった方が短時間で完了する。あやめちゃんは知っていれば私に遠慮なく指摘する性格で、しないということはつまり本当に料理を殆どやっていない証明だった。私に主導権を委ねた方が得策だと指示を仰ごうとしているのも経験の差を悟ったからだろう。
それでも私は嘘をつく。少しでも長くあやめちゃんと一緒に料理をしていたかったからだ。あやめちゃんが央齢村を出て行かなければ日常となっていた光景をここに生み出したかった。
洗い桶の水を流してゆすぐ。切った後の玉葱を水にさらすとしてもまだ早いだろう。台に玉葱を置いてじゃがいも、人参、アスパラガスをテーブルの方へ戻した。
「あやめちゃんはパプリカをくし切りにして、それからアスパラガスの底を少しだけ切って」
「く、くし切り?」
「縦に細く切るやつだよ」
「あー。あれか」
得心したようにあやめちゃんが頷いた。
「アスパラガスは下の方の固い部分だけピーラーをかけて半分に切ってもらっていい? 私はその間にじゃがいもと人参をやるから」
「了解しました! 先生!」
敬礼のポーズを取ってあやめちゃんがピーラーとアスパラガスを手にする。シュッと心地良い音が響く中、私もじゃがいもに包丁を当て芽の部分を厚めにこそげ落とした。
しばらくそうやって黙々と作業が続く。二つじゃがいもの処理が終わり人参を半分にする。二人前、多く作って三人前でもポテトサラダには一本も必要無いだろう。半分は持って帰ってと告げればあやめちゃんは頷きながら包丁に持ち替えパプリカを細く切っていた。
「あやめちゃんって大学は何学部に結局入ったの」
じゃがいもは厚めのいちょう切りにして加熱した後でスプーンで粗く潰そう。真っ直ぐに包丁を入れながら気になっていた問いを投げかけた。
「人文科学部民俗学科」
「何をするところ?」
「色々だよ。人間の文化に関わることなら何でも研究してますって感じの。社会学部とも似ているのかもしれない。……いや文化人類学部かな」
「へぇ。どう違うの?」
「どう……なのかなぁ。教授達も学部の名前に拘りはないみたいでとにかく研究したいって人が揃ってるし。何なら執筆した本には文化人類学者や社会学者として巻末に紹介されてる人もいるから」
つまり、自由なのか。私と正反対で。朧げな認識のまま相槌を打ち私は質問を続けた。
「大学楽しい?」
「まあ、それなりには。これでも真面目に勉強して結構忙しいんだよ。アルバイトもかなり入れて春休み入る前は週六で朝から深夜までスケジュール埋まってたし。三年からは少しだけ講義の数が減るけど」
赤いパプリカがまな板の隅っこに押しやられる。今度は黄色い方だった。
「というかサクラちゃんはどうなのよ?」
「どうって」
「高校卒業してこれから。教えてくれないじゃない」
プラスチック製のまな板が揺れる。勢い余って包丁を振り下ろしていた。白いつるつるとした切りかけのじゃがいもがぐわんぐわんと揺れている。呼吸が浅くなっていく、息苦しい。
「サクラちゃん、大丈夫?」
「ちょっと手が滑っただけだから」
二酸化炭素を目いっぱい吐き出すように言葉を作り舌で押し出した。じゃがいもを手繰り寄せまな板の中央に持ってくる。今度は優しく刃を突き立てた。
「これから?」
「そう、だって卒業したばかりだよね。おめでとう」
隣であやめちゃんが頬を緩める。手元を見れば意外にも均等に切り揃えられたパプリカ達が並んでいた。
「これからか」
聞こえないように口の中で溜め息を転がす。あやめちゃんは「台風」に言及しているし、てっきり気づいているから連絡を取ってきたと思っていたけどどうやら違ったみたいだ。
「もしかして……言いたくない?」
野菜を切る音が止まる。ワントーン低くなった声が鼓膜を揺さぶった。
「あやめちゃん、あのね」
私も手を止める。ここが私の人生の分水嶺でもあった。
あやめちゃんが私の村での現状に気づいていない。だったらこのまま何も告げないで楽しい思い出として明日まで過ごすのもいいかもしれない。あらゆるしがらみから抜け出した幸福を抱えて終わりへと向かう、考えるだけで私には勿体なくて目頭が熱くなってくる。
「どうしたの」
あやめちゃんが不安気に、しかし真っ直ぐに私を射抜く。いつだってあやめちゃんはそうだった。恐れなんか何もない、と云わんばかりに心を交わそうと見つめてきた。私が花壇の前で転んでしまい隣の武中さんのチューリップを折ってしまった時も言い当てて、それから一緒に謝りに行ってくれた。
真っ直ぐで優しくて強いあやめちゃん。隣で手を繋いでいるようで本当はずっと背中を追いかけていた。大切で憧れで勝てない存在だった。ずっと、ずっと。
だから傷つけて勝ちたいと本気で願ってしまった。
「あのね……私」
心の中で花吹雪が舞う。暗闇を薄紅の花びらが塗り潰し、私の口元が弧を描く。きっと醜い表情をしているんだろうと想像して益々口元が歪んでいった。
「短大に行く予定だったんだけど受験しちゃ駄目って言われたの。台風が『直撃しないで』村人が死ななかったのは桜火王様の加護のお陰だから礼として生贄が欲しいんだって。私、明日帰った後生贄になるんだ。あやめちゃんも知っているでしょう? 炎花の儀。村の離れの森の中にある大きな桜の木──いつもなら村の司祭さん達でやるんだけど今回は直接桜炎王様に殺されることで魂を捧げ、墓ではなく骨壺を桜の木の下に埋めることで肉体を捧げる儀式。桜火王様に私が選ばれたの」