2-7-3 戦い(下)
「広がって歩くなよ。一列に並べ」
「先生、私達のこと小学生か何かだと思っているんですか」
「大だろうと小だろうと学生だろうが」
自分のパンプスがアスファルトを擦る音が骨に伝わる。列の真ん中でなければ立ち止まってしまいたい程足取りが重い。
藁にも縋る思いなのか反骨精神なのか。私は結局翌週の課外授業に参加していた。
大学の正面門を皆で抜け右に進む。所謂学生街と呼ばれる商店街を真っ直ぐと突っ切って行った。昼食の時間にはまだ早いがそれでも賑わいを見せ多くの学生達とすれ違っていく。鼻腔をひしめき合うように並ぶ飲食店から漂う油っぽい匂いが擽る。こんな時でなければ空腹を訴える合図になっていたかもしれないと力無く苦笑した。
気持ちはそのまま身体に表れるようで自然と視線が地面に向かう。俯きがちになり、ただ足を動かせば遥が背後から何度か体調を確認する声をかけてくれた。礼を返しそのまま列を乱さない程度の速さで足を進める。気がつけば商店街を抜けていて横断歩道を渡っていた。向かい風が私達を待ち構え、私の心に巣食う絶望と似た形のそれが地面を這うように流れてきた。
「桜……」
舞っている桜の花びらに思わず立ち竦んでしまい、背に軽い衝撃を覚える。振り返れば遥を始め数人のゼミ生が心配げな面持ちで私を見つめていた。
「朱芽。本当に大丈夫?」
遥が私の背を擦り眉を下げる。
「ごめん。ちょっと立ち眩みがして」
軽く頭を下げ早足で前の人に追いつく。遥が列を乱し私の隣へと進んだ。
「桜が苦手なの本当だったんだ」
「ちょっと疑ってた?」
「疑ってはいなかったけど……そんなに深刻だとは思わなかった」
「何々。火浦、桜苦手なの?」
同じゼミ生である岡本が不思議そうに振り返る。私が頷けば「ほお」と興味津々な声を上げた。
「え? 花粉症とか」
「岡本。桜の花粉症とか聞いたことないよ」
「稀にあるらしいよ」
「マジで」
「ネットで何となく調べた情報だから真偽は不明だけど」
「結局どっちなの」と遥が呆れた声を出し列の前後からもクスクスと笑いが起きる。何だかあまりにも呑気で深刻さの欠片もなくて、私も自然に頬を緩めていた。
「お前ら広がって歩くなよ。他の人の邪魔になるな」
先生が溜め息をつき階段に足をかける。二、三段上って、見上げれば最も視界に入れたくない光景が広がっていた。
遅咲きで散りかけた桜達。赤い花弁と緑の葉が混じりながらも薄桃色の雲が空を覆っているようだ。腹がキリキリと痛み、手足の末端が冷えて痺れていく。耳をすまさなくとも入ってくる楽しげな騒めきに交じり、お馴染みとなったあの音が這い出てくる。カサカサと耳元で葉や枝が揺れ始めていた。
冷や汗をかいた肌にまだ寒さを残した風が当たる。背筋を撫でられているような不快感と恐怖に身体が強張ってしまった。
怖い──私は桜が、桜火王が恐ろしい。
耳元で葉と枝が大音量で擦れる。視界が薄桃色に染まった。次の段にかけようとした足が「根っこのような何か」に縫いつけられた感触がした。
呪根元絞め──! 上体が揺らぎ目を見張った時だった。
「火浦ー。桜が苦手ならまずは桜餅から克服してこうぜ。花より団子っていうだろ」
「えっ」
「うわ! ごめん」
私がよろめいたため岡本が慌てて手を引っ張る。遥も抱きつくように身体を支えてくれていた。
「ちょっと! 岡本危ないじゃない!」
「マジでごめんって」
「こっちこそごめん……あれ?」
素っ頓狂な声が喉から飛び出した。私、遥、岡本を追い抜かし後ろのゼミ生達は不思議そうに先へ進んでいる。
「お前達! どうした?」
「すみません。先に行っててください」
階段を上り切った先生に遥がそう返し改めて私の方を見やる。遥の心配に揺れる瞳を見つめ、おろおろといつ手を離そうか迷っている岡本にも視線をやった。
あれ? だって、そんな。
「朱芽」
遥に名を呼ばれハッとして「ありがとう」とだけ返した。続いて岡本にも同様に礼を告げる。遥は岡本のせいで私が転びかけたと思っているため「礼なんていいよ」と頬を膨らませていたが、私からすれば救世主……になるかもしれない。
「ありがとう。あれ、ちょっと待って」
「おい、火浦。俺ちゃんと支えたよな? お前頭打ってないよな?」
「朱芽も岡本もしっかりしてよお」
二人に支えられながらゆっくりと階段を上る。正直もう一人で歩けたのだが、二人の優しさに甘えることにした。何故なら。
「おかしい」
「さっきの岡本の諺の使い方が?」
遥がじろりと岡本を睨んで、岡本がばつが悪そうに視線を逸らした。
「俺だってな。火浦が体調悪そうだったから気持ちだけでも和まそうと」
「わかってる。冗談、面白かったよ。ありがとう」
そう、面白かったのだ。桜火王の呪いで苦しんでいる中、余りにものギャップに「可笑しい」とあの時私は確かに感じたのだ。そして。
──その瞬間。呪いの全ての症状が一瞬で掻き消えた。耳元の腹立たしいノイズも足を捉えた呪根元絞めも霧散したように無くなったのだ!
胸の奥から熱いものが全身に広がっていく。忘れていた、失いかけていた感情だった。恐怖はまだ心の中で燻り、私を底なし沼に沈めようと手招きしている。それでも私は必死に熱い何かで沼を干上がらせようと思考を巡らせ始めていた。
落ち着け。いいや、落ち着かずそのままの勢いで考えろ。
何かとんでもない欠片を掴んだ気がする。桜火王の、呪いの致命的な弱点をだ。
冷え切った手足がサウナに入ったように熱い。心臓の鼓動が高鳴り目の前がちかちかとした。
もしかして。
深呼吸をして最後の一段に足をかけた。私が上り切ったのを確認し二人が手を離す。そこには想像した以上の桜が広がっていた。隠れた花見の名所として親しまれているその公園には、予想どおりまだ花見客で賑わっていた。
「ああ……」
桜の花びらが舞う。足元を赤い花弁が転がっていった。枝がしなるように揺れ、一層花びらが落ちる。キャアと歓声があちらこちらで上がっている。
公園はアスファルトで舗装された大通りの両端に桜の木が等間隔に植えられ、存在を主張していた。その木の奥が芝生で覆われた広いスペースとなっていて子ども達は意にも介さず甲高い声を上げながら走り回っている。風で吹き飛びそうなレジャーシートを四つん這いになって押さえている男性がいる。転がる空き缶を慌てて追いかけている女性が不機嫌そうなに顔を歪ませて息を切らしていた。
別の場所に視点を向ける。反対側にも平日の昼間だというのに大量にレジャーシートが敷かれていた。
円状にレジャーシートに座り込んだ集団の一人がジョッキを掲げ「乾杯!」と叫んだ。隣では酔い潰れたのか大の字で仰向けになり周囲に荷物を積まれている者がいた。斜め右からは所々音を外した流行りのコマーシャルソングを熱唱しているスーツ姿の男が左右に揺れ、リズムに合わせて周囲のこれまたスーツ姿の者達が手拍子をしていた。
視界にふわりと揺れる球体が通り過ぎる。少女がストローを一心不乱に吹き、シャボン玉を飛ばしていた。遠くのベンチでは女性二人が膝におにぎりを載せ、頬を緩ませて談笑していた。向かいからは小型犬を連れた高齢者がゆっくりと歩いてくる。それをサングラスをかけたランナーが桜を一瞥した後に追い抜いていった。
花見客達だった。誰しも公園を様々な理由で利用している存在が桜に負けず劣らず存在を主張している。桜が舞う中でめいめいに花見を楽しんでいた。むしろ──
あっと声を上げる。雷に打たれたような衝撃が頭の天辺から足の裏までを貫いた。
もしかして。いいや、かなりの高確率で。
「遥。岡本君」
二人からすれば一瞬に近い時間だったはずだ。けれど私にとっては何時間にも及ぶ「答え合わせ」だった。熱い、湿った息が口から漏れていく。高揚した気持ちはそのまま声に表れた。
「ごめん。先生達に追いつこう」
謝罪にしては軽やかで笑いを堪えられない、といった声色だった。今すぐスキップでもしたくなる程の衝動を持て余しながら私は足を一歩前に踏み出す。桜が舞う花見会場へ進んで行く。
二人は顔を見合わせそしてホッとしたように目を細めた。三人、横に並んで早足で小さくなった集団の背を追いかけた。
「火浦。急に元気になったけどどうしたの? やっぱり桜餅から克服する決心が」
「まだそれ言ってるの」
遥が呆れたように眉を歪ませる。
「桜餅……はいらないけど、ちょっと克服するための方法を思いついて」
「マジで」
「ありがとう、二人とも。今ならお花見も挑戦できるかも」
「どういう風の吹き回しだよ」と岡本君が苦笑いを浮かべる。嘘じゃない、本当に二人には感謝をしてもしきれないのだ。
歩きながらギュッと目を閉じる。桜火王のことを、恐ろしいと震えていた感情をできるだけ詳細に記憶から呼び起こす。
──あやめちゃん。
サクラちゃんの声がハウリングしたように脳を揺らす。けれど、今なら。私は思い切って目を開け、「答え」の確認のため周囲の桜を見渡した。
何も恐怖を感じなかった。桜火王の呪いも発動しなかった。
ははっと声が漏れていく。早歩きはいつの間にか小走りになり少し息が上がってきたが、貴重な酸素を使ってでも笑い飛ばしたい気分だった。
ああ。だから父も母も呪いにかからなかったのか。呪いに波があったのは。得心したように一人頷いていれば岡本が悲鳴を上げた。
「ちょっと待って。俺息切れかも」
「もう少しで追いつくんだから頑張りなよ。結衣ちゃんに『ダサい』って言われるよ」
「何で俺の彼女の名前知ってんの!」
岡本が可愛いだろうってゼミ生全員に惚気てきたからじゃないか。私は心の中でそう回答しながら「先生!」と大分大きくなってきた背中に声をかける。
「遅かったじゃないか。大丈夫か」
「はい。すみません」
おや、と息を切らしながら追いついた私達、正確には私に視線をやり先生が目を瞬かせる。そして目を三日月の形にしてゆっくりと口を開いた。
「ショック療法になったのか」
「なりました。だから」
わからないことはまだ沢山ある。央齢村と桜火王の在り方について自分なりの解答を出したくて選んだ進学先だったが、呪いというイレギュラーにより解く方向へ舵を切ってしまっていた。
では次の一手は。様々な可能性が生まれては並んでいく。このまま勉強を続けるとして当初の予定どおりにするのか、それとも。無数の可能性でもあり危険因子でもある思考が舞う桜の花びらのように体内を駆け巡っているようだった。ただ一つ言えることは。
私は呪いを解いた。
もう、毒桜吹雪も呪根元絞めも炎花葉にも悩まされる心配は全く無い。桜火王の呪いの「仕組み」がわかってしまったのだ。
「前に言っていた田舎の伝承の件ですが……お話しします。こちらからも質問したいので」
胸のすく思いで私は真っ直ぐに先生を見つめる。気が大きくなっている時は妙なことを口走りやすいのだ。だから冷静に考えれば絶対に信じてはもらえないだろう央齢村の地獄を私は専門家に相談しようとしていた。
「ああ、待っている。次の講義の後でいいな」
雲がゆっくりと動き、木々の間から日光が私達に降り注ぐ。手で眉毛あたりを覆いながら見上げれば青空に花びらが漂っていた。
もはやただの桜の花びらと化したそれを一瞥し、私は今後の生活に思いを馳せたのだった。




