2-7-2 戦い(中)
プレゼミと呼ばれる制度がある。春柳准教授は面倒くさそうに口を開いた。
この大学には三年から始まるゼミの他に一年生の時だけ必須科目として存在するプレゼミと呼ばれる講義が前期後期通年で存在する。主に例えばパソコンの使い方だったり、論文や参考書の探し方と読み方だったり。学びに必要な土台作りをランダムに大学側が選んだメンバーでクラスを作り先生役……教授や准教授が指導するのだ。
「見てのとおり、規模の小さい高校までのクラスみたいなものだな。まあ、せっかくだ。俺の専門は日本の都市伝説や田舎の妖怪伝説だからその分野なら質問は受け付ける。それから友達作りの場として仲良くするのも好きにしてくれ。ただし問題は起こすなよ」
「先生ー! 問題って何ですか」
同じクラス、もといプレゼミのメンバーの一人が手を挙げる。
「昔なあ、お前達くらいの人数のメンバーの中で」
全員が口の字型に配置されたテーブルできょろきょろと周囲を見渡す。全部で十二人。あの村の小学生の数より多いと改めて人口差に啞然としてしまった。
「五角関係が勃発して授業の空気が最悪だったことがある。お前達も必須科目で針の筵みたいな講義を受けさせられるのは嫌だろう?」
ハッと向かいの男の子が目を剥き、隣の男の子が肩を叩いた。もしかして何か恋愛関係で苦労した経験が既にあるのだろうか。
「要は嫌でも一年間は一緒なんだ。羽目を外して通学が苦痛になるような生活を送るなよってことだ」
顎をぼりぼりと掻きながら春柳准教授こと先生は溜め息をつく。確かに通うならできるだけ楽しい思い出を作りたいと心の中で願ったのは二週間前のことだ。
先生がホワイトボードに文字を乗せていく。今日のテーマは図書館にある民俗学の書籍を何でもいいから持ち寄って事前にパソコンで紹介文を作成し発表する、というものだった。
「いいか。まず本を借りて一週間でお前達は読んでまとめた、ということが大切なんだ」
全員がじっと先生の言葉に耳を傾けている。三回の授業ですっかり先生はゼミ生皆の知的好奇心を鷲掴みにしていた。
「興味のある本を手にした者、課題を楽にクリアーするためにできるだけ薄い本を選んだ者、俺の授業だからとりあえず俺が書いた本にしてみた者……色々理由があるだろうがとにかく選んで読んでまとめた。これが大学で行なわれる講義の第一歩だ」
頷きながらホワイトボードに記された言葉をノートに書きこんでいく。そうして十分程説明が続いた後に先生は「今日はここまで」と宣言した。
「ということで来週の授業の内容を発表するぞ。来週はフィールドワーク体験……という名の交流会だ」
「何処かに行くんですか」
「ああ。散歩をする」
散歩。隣の席に座っていた女の子がそのまま言葉を繰り返す。先生はにんまりと微笑み、私にとって第一の試練となることを告げてきた。
「大学から徒歩で十分のところにお前達も知っているだろうが大きな公園があるだろう。あそこは遅咲きの桜がかなり散りかかっているが今でも花見客で賑わっている。折角だから見に行こう。だから来週は一応歩きやすい服装で来るように」
わあと歓声が上がる中、私は谷底に突き落とされたような衝撃で目の前が真っ暗になる。
桜──入学式の光景が蘇る。結局私は両親に呪いのことを話さず、怯えながら入学式へと出席した。一般的には美しい、薄桃色の花びらが舞い散る桜並木通りを歩き会場へと向かったのだ。緊張で震える私の耳元では案の定、桜火王の呪いが鳴り止まない。酷い時には足を根っこで締めつけられたりもした。それでも周囲に不審がられないようにと必死で笑顔を取り繕う。写真を撮ろうと無邪気に微笑む母を恨みたくなったが、それでも背筋を伸ばし記念をデータとして残すことに成功した。帰宅後、緊張の糸が切れてスーツのまま、ベッドにダイブして眠りについたのは言うまでもない。私にとっては過酷な呪いの恐怖との戦いだったのだ。
呪いに対し怒りで戦いを挑んでいたがそれでも恐怖は捨てきれなかった。記録をつけているが未だに不明な法則性。糸口が見えない呪いの解き方。それらは私の神経を疲弊させ、なんとその象徴である桜に過剰に反応するようになってしまっていた。
だからこの二週間ほどは苦痛の毎日だった。今年の桜は開花が遅く、入学してから今まで道を歩けば何処かの桜の木が花を咲き誇らせ花びらを落としていく。そんな現状が続いた。私にとっては毒桜吹雪と区別がつかないそれはできるだけ避ける害でしかない。しかし、この大学のキャンパス内にも私達を迎えるように薄桃色の花は舞い踊っている。桜に囲まれた道を歩けば「忘れるな」と云わんばかりに桜火王は耳元で葉や枝を擦り合わせる。現実と呪いがごちゃごちゃと溶け合い私を混乱させた。
何より困ったのは新入生歓迎として花見を企画されるのが多かったことだ。花見は人を開放的にさせ、皆で飲食を楽しみながら美しい桜を眺める……通常なら最適な交流の場だろう。しかし、今の私にとっては死地に飛び込むようなものだ。自ら敵の攻撃を浴びに全裸で飛び出すのに等しいのだ。せっかく仲良くなった友や先輩の誘いを固辞するのは気が引けるが仕方がない。新しい世界に飛び出したい好奇心とは真逆に、最低限の講義だけ受けできるだけ建物内に息を潜める生活を送る羽目になっていた。
やがて桜が散り、薄桃に覆われていた木々が緑の葉を出し始める。ようやく外を出歩けると安堵していた時に耳を疑うことになった。
講義で遅咲きの桜を見ることになるなんて──!
「来週楽しみだね。八重桜っていうんだっけ? ……朱芽?」
呆然としている内に講義が終わったらしい。友人の遥が心配げに私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫。青白いけど……貧血とか?」
「ああ。そうかも、でも大丈夫だから。次の講義へ行こう」
引き戸を開け、廊下に出れば大勢の人が行き交っていた。集団を避けるようにして廊下を進む。次の講義は一階上の中教室での基礎科目だ。
「朱芽。本当に大丈夫?」
「そんなに顔、青白いの」
「うん。白い絵具を塗りたくったみたい……もしかして病弱だったり?」
眉を下げる遥に私は慌てて首を振った。
「そんなことは」
「隠すことじゃないよ。だって新入生歓迎会も結構断ってたし」
「あー」と思わず唇から声が零れた。やはり妙に思われていたのだろう。
「実はさ。私……桜が苦手なんだよ」
階段をゆっくり降りていく。二段飛ばしで駆け上がっていく二人組とすれ違いながら遥はキョトンと口を半開きにしていた。
「桜が?」
「うん」
「檜とか杉なら花粉で許せないって聞いたことあるけど……桜?」
遥の怪訝な顔付きに何だか恥ずかしくなってしまい、小さく頷くに留める。どこまで言っていいものなのだろうか。あの村のことを全て曝け出せば、距離を置かれるだろう。更に呪われている以上不用意な発言は危険な予感もする。だが正直に新入生歓迎に出席しなかった理由は桜だと言っておいた方が今後の人付き合いが楽な気もするのだ。
雑踏の中で耳に意識を集中させる。いつもの音がしないのを確認し、ゆっくりと言葉を選びながら続けた。
「前に住んでいたのが田舎だったんだけど……ちょっと桜で色々あって。あまり見たくなくて、ごめん」
「いや謝ることじゃないと思うけど」
「けど?」
「珍しいから反応に少し困った」
「火浦の田舎には桜にまつわる伝承でもあるのか」
低めの、少し前まで聞いていた声が背後からして飛び上がる。踊り場じゃなければ転げ落ちていたかもしれない。遥が「ひゃあ」と気の抜けた悲鳴を上げた。
「先生。階段で急に話しかけないでください」
「悪い。……火浦」
誰が言うわけではなく、三人で踊り場の窓際に寄る。窓から差し込む日光が体格の良い春柳先生の背を照らし私達に影を落としていた。
「苦手ならまあ、今日やったのと同じレポートで出席一回分にしてやる。ところでそれは桜の木から毛虫が落下してきたからではなく、桜そのものが苦手なんだな?」
「はい。まあ、その。詳しくは言いたくないですが」
「桜の伝承は各地にあるからな。もしそれが伝承絡みでいつか話したくなったら聞かせてくれ」
曖昧に笑みを湛え頷く。果たしてあの村の全てを語れる日が訪れるのだろうか──そこまで考えはたと気づく。
すっかり恐怖と疲労が怒りを覆い尽くしていた。途方に暮れて桜火王から逃げることばかりに思考を巡らせていた。
暗い気持ちが更に沈んでいく。本当に根に足を掴まれ、底なし沼へ引きずり込まれているようだった。
目を伏せた後に窓の外に視線をやる。キャンパス内を移動する人々がわらわらと流れていく。先生と遥が何かを喋っていたがぼんやりと掴めずにいた。
「おっ」と先生が声を上げる。腕時計を見て小さく息をついていた。
「俺はそろそろ行くが火浦」
「はい」
私の返事を待たずに先生は階段を下りていく。そしてこちらを見ずにポツリと、しかしはっきりと声を響かせた。
「ショック療法は賛否両論だが……意外に参加してみたら何か解決するかもしれないぞ」




