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2-6 恐怖

 サクラちゃんと再会したのは卒業式の後だった。数少ない友人達と卒業証書に寄せ書きをし合い、鞄にしまい込む。私はこの後新幹線で東京に帰る予定だったので早めに別れを告げ、階段を下りた。

「あやめちゃん」

 階段から転げ落ちそうになる勢いで振り返る。

「サクラちゃん……どうして」

「卒業おめでとう。ちょっといいかな?」

 小首を傾げ微笑んでいる。なのに有無を言わさぬ迫力を感じた。高校一年生は今日、休みのはずなのに態々来てくれたのだろうか。こちらとしても相手が望むなら本当は話したいことは山ほどあって、サクラちゃんについて行くのはやぶさかでなかった。

 下駄箱で上履きを靴入れ袋にしまい、校庭へと出る。互いに無言でそのまま校舎裏へと進んでいった。

フェンスと校舎に挟まれた舗装されていない土の道。履くのは最後になるローファーが土煙を上げる。緩んできた白いマフラーを巻き直して私はサクラちゃんと対面した。

「改めて卒業おめでとう、あやめちゃん」

「ありがとう」

 肌寒い風が吹き黒いタイツを撫でていく。スカートの短さを全く変えていないサクラちゃんの紺のスカートが小さく靡いた。コートを着ていない、寒くないのだろうか。そんな場違いな考えが一瞬だけ過ぎった。

「……村から引っ越すこと、実は都内の大学を受験して合格したのを言わなかったのは謝る。でも家族で村の人間には限界まで告げずに言おうと決めて、私も賛同したの。罪悪感はあるけど、だからといってあれ以外の手段で引っ越しを無事終了させられたとも思わない。私達は央齢村に疲れてしまった。桜火王なんて架空の存在に踊らされて、古臭い価値観で傷つけてくる人間と一緒には住めない」

「あやめちゃんは……」

 五メートル以上私達は離れて立っていた。その距離をサクラちゃんが一歩分縮める。両手に拳を作って、地団駄を踏むように更に二歩目を前に出した。一発なら殴られても仕方がないと私はその姿を見据える。どう言い訳しようが友情という感情面で考えた時に裏切ったのは私だろう。

「あやめちゃんは、央齢村で私と過ごした毎日が本当は嫌だったの?」

「サクラちゃんといたのは楽しかったよ。でも他の部分……央齢村自体が最悪だった。小さい頃から休日の家族の団欒も奪われ、村を歩けば余所者と眉を顰められる。桜火王が本当はいてもいなくてもそんなのはどっちでもいい。その存在で私達がどうして苛められなきゃならないのさ。我慢の限界が来たから出て行っただけだ」

「だってあの土地で産まれた私達は桜火王様に従わないと」

「尚更その土地で産まれていない私達に強要することじゃない」

 サクラちゃんが眉毛を上下させ立ち止まる。酷く顔を歪ませて私をじっと見つめていた。

「違う。言いたかったのはそうじゃない。あやめちゃん、何で私に言ってくれなかったの? 私が大人達に言いふらすと思ったの? あやめちゃんを裏切るって考えてたの」

「サクラちゃんが裏切るとは思ってないよ。でもあの村はプライバシーがないじゃない。こっそりした内緒話が誰かに聞かれ次の日には村中に広がっている」

 サクラちゃんに以前県内の大学を受けると嘘をついた日を思い出す。あの時も瀧三知さんが聞き耳を立てていて、そうやって噂が広がっていくのだと閉口したのだった。

「でも二人で……そうだ、あやめちゃんの家に私が呼んでもらって部屋で話せば絶対にバレなかったはずだよ! 部屋越しに会話を聞けるとしてもあやめちゃんの両親だけだし、私は絶対に皆に言わないし。……あやめちゃんならそれくらい絶対に思いつくのに何でそうしてくれなかったの? ねえ、何で?」

「……あの時の父さんと母さんはもう、サクラちゃんであっても家に入れるのを嫌がってたんだ。ごめん、いくらでも責めていいし嫌ってくれて構わない。とにかく私はサクラちゃんに告げるより、より確実で安全な引っ越しを選びたかった。それだけだから」

 サクラちゃんは目を見開き小さく「どうして」と言葉を漏らした。一つだけ、嘘をついている。サクラちゃんにもどうしても告げられなかった理由がちゃんとあって、私は自らの意思で口を閉ざしたのだった。

 サクラちゃんが俯く。「なんで、どうして」と繰り返す言葉が湿っぽく鼻声になった。明確に私が泣かせている。胸が痛むがただ受け止めるしかない。

 春と冬の間のような風が私達の髪を撫でていく。サクラちゃんの結わいたさらさらの髪が風に舞った。俯いて前髪に隠れているので表情がわからない。憎しみを抱いた瞳を隠しているのか。ただ悲しみに暮れているのか。

「ねえ」

 数時間にも感じる、実際には数分であろう沈黙を破ったのはサクラちゃんだった。俯いたままいつも合唱の時間にソプラノパートを任されている高い声がワントーン下がっている。

「何」

「あやめちゃん、もう今日で会えなくなるよね」

 私は言葉を詰まらせるしかなかった。サクラちゃんの言っているのは正しい。もう二度と会うことはないと今日も卒業式に臨んだ。ここで今対峙していることが不測の事態だ。無言を肯定と受け取ったのかサクラちゃんが顔を上げる。涙の筋が通った頬は寒さで薄ら赤に染まっていた。

「だから本当のことを言って。あやめちゃんは絶対私には何でも話してくれる友達だもん。なのに言わなかったのは他に理由があるからでしょう? だからお願い」

 「真実を」と瞳を潤ませた。私はどうすればいい、どうすれば。

 視線を逸らし天を仰ぐ。あの村とは違う少し薄い青空が広がっていた。卒業という晴れ舞台には最適の、私の感情とは真逆の景色だった。

 今までのサクラちゃんとの思い出が頭を過ぎる。小学校三年での出会いから始まり高校三年まで共に過ごしてきた。もしかしたら両親よりも話した時間は長かったかもしれない。転校した初日、教室で戸惑っていた私に差し出された小さな手を今でも覚えている。央齢村の風習など大嫌いだがあの時だけはサクラちゃんが「咲楽」という名で、私と同じ植物を由来とする名で良かったとホッとしたのだった。

 友達だった。ずっとずっと大切な友達として歩んできていた。私の方が年上だったからだろう。気がつけば当初と関係は逆転し私が引っ張っていくことが多くなっていた。そっと後ろをついてくる姿も、おずおずと差し出してきた手を握り返した時の瞳の輝きも全部覚えている。何かと周囲との衝突の絶えなかった私をそっと受け入れてくれる存在でもあった。二つ離れてはいるが高校だって一緒だったのだ。これから私はその友達と最後の別れを迎える。二度と会うことはないのだろう。

 央齢村で微笑んでいるサクラちゃんの顔が浮かんでは消える。この子はこれからどうやって生きるのか。ふとそんな疑問が湧いた。

 央齢村を離れて安寧と客観視を手に入れた脳は冷静に村の構造を分析し終えていた。あの村は桜火王の幻想に支配されている。そして幻想に弾圧されたまま、時を止めてしまっていた。新しい情報が、テクノロジーが導入されようがいつまで経っても一番は化け物桜で、その因習を皆が信じられるような社会構造を崩せないのだ。あの土地から基本的には離れられない、そして呪いを受ける者を絶やさぬよう子孫をできるだけ多く繋いでいく。そのために一番効率的な構造は村を桜火王の言葉の代弁者である司祭の家系中心に支配すること。そして呪いを永遠に村に留めるために男ができるだけ村内で働き、女はそれを支えながら子を産み育てることに専念する……閉塞的な旧時代の家父長制構造だ。桜火王という幻想が村という家の父長となっている。そんな村でサクラちゃんはこれからも生きていくのだ。

 丘名井さんが笑いながらサクラちゃんの肩を叩いていた光景が記憶を巡る。ああ、あの時はたしか「咲楽ちゃんはいい母親になるなあ。沢山の子に囲まれ夫を支えるそんな母親だ。うちの馬鹿息子はどうだい?」と気持ち悪い視線を向けてきたから慌てて手を引いてその場から去ったんだっけ。サクラちゃん、大丈夫だろうか。こう見えて芯の強い子だから嫌なものは容赦なく突っぱねるけれど。でも。

 足に力を込めた。私が今言えるのはこれしかない。

「サクラちゃん」

 サクラちゃんが真剣な面持ちで私を見つめる。潤んだ瞳からまた一滴零れた。

「──サクラちゃんもあんな村、出よう?」

 目を見張るサクラちゃんに手を差し出す。私にできるのは別れではなく、誘いだった。

「できるだけサポートするし、転校しようよ。色々手続きとか大変みたいだけど、サクラちゃんは成績良いから試験は絶対大丈夫だし。……急かもしれないな。だったら転校じゃなくてもいい。卒業後サクラちゃんが何をしたいのかわからないけど、あの村からは離れた方が絶対良い。サクラちゃんみたいな子は食い潰されて苦労するだけだよ」

「……どういうこと?」

「あの村にずっといちゃ駄目だ。おじさんもおばさんも良い人だったけど、村の支配に従って生きるのを当たり前だと思っている。だったら一人で出るしかないんだ。協力はするから」

「無理だよ。あやめちゃんみたいにはなれない」

「無理じゃない。努力すれば絶対に」

「桜火王様の呪いがあるから村から出られないのにどうすればいいの!」

 豹変したサクラちゃんが掴みかかってくる。縺れて倒れそうになったが踏み止まった。鬼気迫った表情に息を呑む。あのサクラちゃんが? 今まで数年分の優しさが霧散するような顔で私を睨みつけていた。

「呪いなんか無いでしょう。昔からずっと信じているから変えられないだけだ」

「違うよ! 桜火王様も呪いも本当に!」

「違くない。サクラちゃん、既になんていうか……個人の信仰に口出しするみたいな状態だから確認するけどさ、サクラちゃん達にとって桜火王は信じている神様とかじゃなく央齢村を支配している化け物、怪異なんだよね? サクラちゃんが肯定するのが怖いなら何も答えなくていい。要はサクラちゃんを含めあの村の住民にとって本当はいなくなってほしいけど、呪いをかけられてしまっているから従わざるを得ない……恐怖政治を敷いている童話の悪い王様みたいな存在なんだよね?」

 その「悪い王様」がいることで利益を得ている大人もいるだろうけれど。顔を真っ赤にしたサクラちゃんが目を見開き、そして無言で俯く。桜火王の呪いは離れていても有効で下手なことは言えない「設定」なのでこれが限界なのだろう。肯定はしない、けれど否定もしない。つまりは。

 やはりサクラちゃんは央齢村を出るべきだ。

「サクラちゃん、冷静に考えて夜に一年中咲いている桜の木なんてありえないんだ。更に毒桜吹雪も呪根元絞めも炎花葉も植物として常軌を逸している。それが呪いとして遠隔で発動なんて尚更おかしいでしょう。急に央齢村から二時間も離れたここに根っこが生えてくるなんて」

 地面を指差せばサクラちゃんの首が少しそちらへ傾いた。そもそも央齢村の者が例えば窓が閉まっている村から数時間離れたビルの三階で盛大に桜火王を貶したらどうなるのか。地面からビルを突き抜けて根っこが生えてくるのだろうか。突然毒を纏った花びらが降り注いでくるのか。燃える葉が張りついてくるのか。科学的にありえないのだ。

「でも、あやめちゃんは見ていないじゃない。夜に咲く桜火王様を」

「村の掟に従って無断で侵入しなかったからね。一応最低限のルールは守って生きていたんだ」

 正確には炎花の森までの道があまりにも見晴らしが良く、昼間炎花の森に近づこうものなら確実に誰かに姿を見られてしまう状態だったこと。怪しい動きを見せれば──私は特にマークされていたのもあるが──大人達が森周辺を警備し始めること。夜だとあの鬱蒼とした森に入るのは桜火王抜きで危険だったことが挙げられる。とにかく私を始め父も母も散々桜火王に苦しめられたが恨みを晴らそうと森に侵入したことはなかった。

「サクラちゃんだって見たこと、ないでしょう」

「……うん。でも、桜火王様は」

「都合の悪い真実を怪異のせいにする、なんて伝承は各地に残ってるらしいよ。昔話を信じるなら江戸時代に年貢が納められなくて当時の村民が桜火王と取り引きしたんだよね? 役人を殺したのが村民で隠すために恐ろしい化け物の仕業に仕立てた可能性は十分にあると思うんだ」

「証拠は、ないよね」

「うん。でも、サクラちゃん達の現状よりかはよっぽど……」

 掴まれた腕に更に力が込められ、すかさず勢い良く顔を上げたサクラちゃんと再び目が合った。濁った水面の中に燃え盛る炎のような強い感情がある。

 ジェットコースターが一気に降る時のような、腹の奥が閉まる感覚に襲われる。肌寒いはずなのに汗をじっとりとかき始めていた。憎悪、怒り、執念。そんな名をつけたくなるものが一心に私に向けられていた。

「『サクラちゃん達』って……そうか、あやめちゃんにはもう他人事なんだね。そうだよね……央齢村の人があやめちゃんの家に酷いことしてたの、わかるよ。だからあやめちゃんが出て行ったのも。でも」

 指先が白くなるほどサクラちゃんは私の腕をまるで折るんじゃないかというくらい握りしめようとしている。柔らかい掌を握り返した記憶が上書きされていった。

「いいな。あやめちゃんは。だって桜火王様の呪いの対象じゃないんだもん。だから私の苦しみもわからないし、簡単に出て行って私にも外に行こうって言えるんだ。何も事前に教えてくれないで……そうだよね『余所者』のあやめちゃんは私に言えないよね」

「簡単にって。村を出るのが簡単だったとでも」

 流石に腹が立ち気色ばんだ声が出た。サクラちゃんは私の家の内部がどう壊れていってたかを知らない。父も母も限界を越えていて心身ともに擦り切れそうになっていたことも何も気づいていない。それ自体は別にいい。それこそサクラちゃんに勘付かれないよう、一切語ったことがなかったからだ。アンタ達の桜火王に対する恐怖心が私達を傷つけていると開示したのはそれこそ引っ越し当日だけだ。

 けれど、簡単にと吐き捨てられるのには苛立ちが増してくる。何も努力も苦労も思考もしないで決断したと思うのだろうか。

「私なりに考えた結論だよ。たしかに本当に余所者になっちゃったけど」

「なっちゃったんじゃない。何処かで自分は『サクラちゃん達』……私と違うって考えていたんだ。だって私が桜火王様のために村中に引っ越しのことを言いふらすと思ったから言わなかったんでしょう!」

 思わずサクラちゃんの手を乱暴に振り払う。サクラちゃんがたたらを踏み、更に眉間の皺を深めた。さほど動いていないのにも関わらず息が上がる。その様を見てサクラちゃんが侮蔑の笑みを零した。

 図星だった。私がサクラちゃんに引っ越しのことを隠していたのは彼女が私達の友情と桜火王への狂信を天秤にかけた時、間違いなく後者を選ぶと確信していたからだった。サクラちゃんは村のため、つまりは桜火王のために秘密を告げ口すると思っていたのだ。

 汗が後頭部から首筋を伝い、マフラーに染みる。そこを乾いた風が撫で肩を竦めあげた。

 隠していた薄暗い真実を暴かれてしまった──!

「あやめちゃん」

 項垂れる私の名をサクラちゃんが呼ぶ。無機質な声だった。

「あのね。別にあやめちゃんのこと、許さないとかそういうのじゃないの。ただあやめちゃんは呪いの対象外で私は呪われている。あやめちゃんはこれから東京で生きて、私は一生央齢村から離れられない。この差が私が想像していた以上に大きいんだなって思ったの」

「だから、サクラちゃん。呪いは」

「あるんだよ! それがわからないのが私達の差なの! 私は絶対にあやめちゃんみたいになれない!」

 怯えよりも怒りを滲ませた声を浴びせられる。言い返そうと口を開いた時だった。

「だからお誘いの答えはノーだよ。私は家を出ない。そう決めてるの」

「サクラちゃん、諦めないで。頑張れば何とかなるんだから」

「……本当に酷い」

 酷い? 不思議がり見つめるがサクラちゃんは首を横に振った。

「そう、か。でも気が変わったらいつでも連絡してね」

 折れたのは私だった。するとサクラちゃんが眉を上下させどこか傷ついた表情を浮かべて、力無く笑った。

 ああこれが私達の終わりか。目頭が熱くなり眉間を手で押さえた。きっとサクラちゃんは連絡してこないだろう。そんな予感がした。この瞬間が私達の本当の別れなのだ。何で、どうして。頑張ればサクラちゃんなら、と無数の悔しさが頭を巡る。それでも口を開く元気はもうない。

 二人してしばらく黙っていた。サクラちゃんもきっと同じ気持ちなのだろう。違う、とサクラちゃんは言ったが今の気持ちだけは一緒だと信じたい。

「……私があやめちゃんみたいになれないなら」

 ポツリとサクラちゃんが言葉を漏らす。薄い雲が太陽の前を通過し、周囲に影が落ちた。「何」と相槌を打つ。最後の会話かもしれない。せめて言葉だけは拾おうと耳を傾けた時だった。

「あやめちゃんも桜火王様に呪われてしまえば一緒になれるのにな」

 憎悪に満ち、それでいてうっとりとした笑みを向けられた。

 瞬間、全身の毛が逆立つ。鳥肌が立ち、私は身体を大きく震わせた。

 怖い。始めてサクラちゃんに対してそう、感じた。私の知らないサクラちゃんがそこにいて呪詛の言葉を吐きかけられた。背筋が冷え切り胸の奥が痛い。身体の末端から凍りついていくようだ。

 思わず一歩後退る。ざわざわと周囲の木々が揺れる音が響く。何か知らない存在がそこに立っているようだった。

 怖い。サクラちゃんが、目の前にいる存在がとても、怖い。

 もう一歩後退る。砂利がローファーの下で擦れる音が足に伝わった。強張った顔を緩めることができない。唾を飲み込み、もう一歩下がろうとした途端、サクラちゃんがこちらの異変に気づいたのかハッと身体を跳ねさせおろおろと手を伸ばしてきた。

「違うの」

 涙ぐみながら離れた一歩分、サクラちゃんが私に近づく。先程の狂気すら感じる表情は一転して青ざめていた。それでも、私にとってはもう恐怖の対象だった。サクラちゃんが恐ろしい。

 嘲笑うかのように木々が風に吹かれ揺れる。ざわざわとした音が妙に耳についた。

「違うの、あやめちゃん! ごめん!」

 飛びかかられる! 恐怖から目を閉じたものの、予測していた衝撃が襲ってこない。不審に思い恐る恐る目を開けば遠くにサクラちゃんの後ろ姿を目視できた。

 逃げられた。いや、見逃してもらえたのか。

 無意識に「はあ」と深く溜め息をついていた。マフラーの下が暑い。外して鞄の取っ手に結びつける。首筋に季節外れな程汗をかいていた。

 これが小学校三年から続いていた友情の終焉か。ふらつきながら私は足を前に出すがサクラちゃんではなく、校門へ向かう。追いかける勇気はまるでなかった。

 住む世界が違うなんて陳腐な言葉では表したくない。けれどもう。幻想に囚われ、外に飛び立つ意欲を失った者を奮い立たせる術を私は知らない。両親が傷つきながらそれでもあの村を出る決断をしたように、私が勉強に励んだように一歩を踏み出せなければどうしようもないのだ。

 スマートフォンを取り出し、時間をチェックした。新幹線まで余裕のない時刻が表示されていて私は小走りで校門まで突き進む。ボディーガード代わりに一緒に来てくれた人達と合流しなければ。恐らく私が最後なのだろう。他の卒業生とすれ違わないまま校門を潜り抜ける。味気ない学び舎との別れだが感傷に浸っている場合じゃなかった。

 街路樹がざわざわと揺れる。細い木の枝は少しの風でも大きく音を立てるようだ。果たしてあの村の木々もそうだったか。疑問が過ぎったがそれよりも青信号の横断歩道を渡る方が先決だった。

 こうして私はサクラちゃんと別れ、高校を卒業した。晴れやかな今後の生活と苦い過去を抱えて今はただ、駆けることに専念した。


 ──。──微睡んでいた意識が戻り、最近ようやく見慣れた天井が視界に飛び込んでくる。長い過去の夢を見ていたようだ。

「朱芽ー!」

 母の声がドア越しに聞こえる。目覚まし時計の時刻を見れば八時。休日の朝食の時間だった。

 卒業式から三日が経過して私は都内のマンションにいる。両親と共に引っ越してきた新居は圧倒的に住み心地が良かった。

「今行くって」

 口を開けて熟睡していたのか呟きは少しだけ掠れていた。思わず口元をパジャマの袖で拭ったが涎は垂らしてなかったみたいだ。

 ふわふわとした羽毛布団から脱出し欠伸を一つ。勉強机の椅子にかけていたカーディガンを羽織り背伸びをした。

 苦い経験をまるで追体験したような夢だった。瞼の上から目を指で押さえ溜め息をつく。口の中がカラカラで水分補給を訴えていた。

 苦しい生活だろうと人生で過ごした時間は長い。そんな央齢村から都会への引っ越しは当時は余裕がなかったが、いざ段ボールの封を開け棚に衣類等をしまっていれば不安が這い寄ってくる。高速道路を下り自動車が向かった一般道の光景だけで眩暈がしたものだったからだ。人も車も建物も多い、窮屈な場所。遠い昔はこちらが当たり前だったのに。

 それでもやはり都会の利便性は全ての不安を掻き消してくれた。一歩外に踏み出せば何でも手に入る店の数々も、思わず目を見開いた電車の時刻表も何もかもが自分の性に合っていた。無事、「帰って」これて良かった。努力して戦い続けて良かったと高揚していく。眠気で鉛のように重かった足が軽くなった気がした。

 部屋を出る前にカーテンを開けるか。私はドアノブにかけた手を止め振り返って窓際に近づく。分厚い遮光カーテンだけを端に寄せ、レースカーテンから差し込む日差しに目を細めた。日差しはどこでも平等で、そして。

 ──あやめちゃん。

 ぶるりと身体が震える。夢の世界でしばらく共にいた人間に名を呼ばれた気がした。

 あれから結局、サクラちゃんとは連絡を取っていない。こちらからメールを送るのも、電話をかけるのも恐ろしかったし、相手からもなかったからだ。最後の物騒な発言が共に尾を引いている。呪い。たとえ科学では証明できない不確かなものとわかっていても「呪われてほしい」と願われたら恐怖で身体が竦んでしまう。

 あれが決定打だった。でも互いに忘れて生きた方がいいのだろう。

 三日前に実際に見た光景が瞼に焼きついている。憎悪に満ちた瞳を一心に向けているのにうっとりと恍惚すら感じる笑みだった。一体何があって……。

 やめよう。緩く首を振り笑みを掻き消す。自分を抱きしめるように両腕を抱え寒気に耐えた。

「温かいスープでも飲もう」

 トーストと目玉焼きとそれから。インスタントスープを入れて身体を温めたい。楽しいことを考えて嫌な恐ろしい記憶は忘れてしまおう。

 今度こそダイニングに行かなくては。腕を擦りながら窓を背にしようとした時だった。

 ざわざわと葉の擦れる音がイヤホンをしているように耳元で響いた。

「えっ」

 両耳を塞ぎ周囲を見渡す。何のことはない、最近片付けが終わった自室である。それでも、耳を塞いでも、音は響く。木が揺れる。葉が擦れる。これはまるで……。

 ──桜火王様はな、呪いをかけた者を地の果てまで追い詰める。必殺奥義だけじゃなく警告としてメッセージを送ってくるんじゃ。そう例えば。

「木が揺れ、枝や葉の擦れる音……!」

 血の気が失せていき視界が回る。立っていられなく、膝からフローリングに崩れ落ちた。

「朱芽! どうしたの!」

 母の声が遠い。私が倒れた音で異変を察したらしい。

 呪い。そんな馬鹿な。視界と共に私の思考も巡る。そんな非科学的な存在があってたまるか! フローリングに両手をつき立ち上がろうとする。桜火王。そんなものはいない。いてたまるか!

 風もないのにレースカーテンが舞い上がる。その瞬間、私は遂に悲鳴を上げた。

 窓の端に季節外れの桜の花びらが一枚へばりついていた。それが毒桜吹雪の警告だと、仰々しく語る司祭の声が反響したように葉の音と共に耳元で鳴り続けていた。


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