2-5 別れ
都内私立大学に合格したのは共通試験を受けた後だった。共通試験の点数で通常の入試の前に合否が決まる。そのシステムを利用して私は無事第一志望に合格を果たした。
第一報が入った時の両親の喜び様は言葉で表せない程で村の者達に知られないよう家の中でひっそりと祝賀会をした。
これで央齢村から逃げられる。両親の心に喜びの後に湧いたのは村全てへの憎悪だった。
少しずつ荷物を運び出していたため自宅は既にもぬけの殻に近い。診療所を畳む諸々の手続きも、私が受験のためのラストスパートに追われている間に父はあらゆる専門家の力を借りて無理やり村役場や保健所に書類を突き出してきたらしい。怒涛の勢いで痕跡を消すように私達は村を後にする。
自動車に乗り込もうとすれば村民達が車を囲む。口汚く「見捨てるのか!」と叫ぶ住民の声に遂に父は怒りを爆発させた。
「あんた達は医者を何だと思っているんだ! 医者だって人間だ! 休日だろうと何だろうと働かせて……おまけにこちらの言うことには一切耳を貸さない。そんなにあの桜の木が大切なら病気も怪我も治してもらえばいい!」
父がそこまで腹に据えかねていたとは思いもしなかったらしい。林造爺さんが尻餅をつく。瀧三知さんが拳を振り上げた瞬間、母が前に出た。
「貴方達の『信仰』までには口を出しません。ですが今までの私達への発言も言動の一部を録音、録画させていただいて弁護士に相談しております。わかりますか? 今殴れば私達は法の力で強制的に村から貴方達を引き離すことができる。お引き取りください。二度と会うことはありません」
「信仰なんてそんな……そんなものじゃなく俺達は支配されているだけで」
「馬鹿! 桜火王様の耳に入ったら!」
付き添いで村の息がかかっていない弁護士が、父の知り合いが数人腕を組んで母の前に立ちはだかった。
信仰──果たしてこの村の人間の架空の化け物桜に対する態度はそうなのだろうか。信じる、という点では当てはまるが一般的に言われている宗教を信じる心とは明らかに違う気がした。この村の住民が桜火王を信じ、様を付けて呼ぶのは恐怖からだ。圧力から信じろと言われているようなもので、そうしなければ命の危険があると本気で思い込んでいるからだ。それはただの支配ではないのか。それでも信仰なのか。
わからない。人の心の、価値観の難しい部分に無遠慮に触れてしまう気がして背筋に震えが走る。自分の価値感が他者の信仰かもしれない感情を加害してしまう恐怖は妄言の塊である桜火王よりも恐ろしい。ただ言えるのは架空であっても、仮に本当に存在していても私達が受けた苦しみは事実である。村の人達も許せない。本当は暴力的な手段に出てしまいたいくらいには。ただそれ以上に全ての元凶である桜火王だけは一生許せない、これだけは変わらないだろう。架空の存在に憎しみを抱いている自分もまたある意味では「信じている」状態なのか。薄ら氷の上を歩くような思考をずっと脳内で巡らせていた。
一部の者はまだありったけの罵声を私達に浴びせている。しかし、既に診療所の閉院手続きは完了してしまっているし、両親もこの態度だ。
手遅れ。全てがもう取り返しのつかないことだとようやく悟ったらしい。自動車を囲んでいた人々が誰ともなく引いていく。勝敗は決したのだった。
「それでは失礼します。さようなら、元気で」
私も後部座席に乗り込む。ここから二時間かけて通学していた高校には話をつけていてあとは卒業式に顔を出せばいいことになっていた。
一度都内の新住居に戻り、三月になったら隣県のホテルから出席する。勿論ボディーガード代わりの父の友人達も一緒でそうすれば彼等の報復も免れるだろう。
自動車がゆっくりと進む。舗装と呼べない道の上で車輪が何とか回転し、この村から脱出しようとしていた。
「おめでとうございます」
弁護士が胸を撫で下ろしながらハンドルを握る父に声をかける。父はここ数年で一番元気な声で礼を言い、アクセルを更に踏みしめた。
ふとフロントミラーを眺める。見覚えのある少女が間に合うはずもないのにこちらへ駆けてきていた。
「朱芽」
「いい。出して」
サクラちゃんだった。行き違いからか私が実はこの村を離れること、都内の私大に合格したことの全てを直接会話できずに今日を迎えてしまった。高校でもすれ違わず、スマートフォンで通話を試みても一度も取ってくれない。当然だ、理由がどうであれ私は彼女を裏切った。だから諦めていたのに、何故今更。
「あやめちゃん!」
自動車の装甲に、エンジン音に掻き消されそんな声は聞こえないはずだ。それでも彼女は大口を開け泣き腫らしながら私の名を呼んでいる気がした。ミラーに写るサクラちゃんは顔を真っ赤にして叫んでいる。やがて足を縺れさせ、倒れる。思わず振り返りそうになって、止めた。私に振り返る資格はない。
「いい。このまま縁を切った方が。サクラちゃんもこの村の住民だ」
思ったより声が震えていて、隣の母が肩を抱く。すっかり細くなってしまった腕に鼻の奥がツンと痛んだ。
さようなら、央齢村。さようなら、残虐殺人桜。
これで終わりじゃない。四月から私はこの村で受けた仕打ちを一ケースとして学びに大学へ行く。
古き謎の怪異の伝承も、過疎地域の人間の狂気も全部学び自分なりに「倒しに」いくのだ。
やがて道がかつては当たり前にあったアスファルトへと変わる。ここまでくれば一安心と車内の全員が申し合わせたように息を吐いた。
高速道路に乗る。サービスエリアで運転手を交代して走らせて目指すは東京だ。
「朱芽も運転免許取ったら?」
母が肩を叩きながら言葉を躍らせる。確かにいいかもしれない。大学に入ったら沢山、あの村じゃできなかったことをしよう。休日にどこかにドライブに行くなんて生活も楽しそうだ。
ぐんぐんとスピードを上げる自動車に合わせて私の心も弾む。ああ、遂にあの村から、央齢村から解放されたのだと人工物に囲まれてようやく実感が湧いてきた。
「母さん、ちょっと寝ていい?」
身体の力が抜けて窓の外に流れていく景色がぼんやりとしてくる。見栄えのない灰色の道路にここまで安らぎを感じたことはない。続いて襲ってきたのは睡魔だ。ここ一年はずっと息継ぎ無しで走ってきていた。少し休んでも罰は当たらないだろう。
「おやすみ、朱芽」
まるであの村に引っ越す前のような優しい母の声がして私はゆっくりと意識を手放した。




