2-4 内緒
それからは怒涛の日々だった。
例えば父のように医師になりたいなら医学部への進学が必須だ。母のようにWEBデザイナーなら専門学校を目指すのもいい。だが私には学問で叶えたい夢がなかった。なりたい職業も、学びたい学問もないのだ。参考書を開いて書かれている内容を脳に叩きこむ。全ては央齢村から出る言い訳を作るため。正確には両親が私を原因にするためにシャープペンシルをノートに走らせる。勉強は嫌いでなかったし、部屋で机に向かっている時は一人でいられた。変わり果てた両親も、どうしようもない村も忘れていられる。自分のためか、誰かのためか。わからないまま空いた時間を全て勉強に捧げる、そんな日々を送り始めた。
この頃には炎花の儀の夜の部には参加はしていないものの、この村の住民の狂気も知り尽くしてしまっていた。苛め抜く割に父が央齢村の生命線であるのを住民達はしっかりと理解していて、父がこの土地を去ることを桜火王の次に恐れていた。引っ越しの気配が漏れれば桜火王という存在しない化け物のために捧げられた家畜の末路を、父を脅すために私と母は辿るかもしれない。恐怖が私達の口を堅くして、表向きは県内の国公立大学に進学するという話になっていた。その嘘をつく対象は勿論、サクラちゃんもだ。
高校三年の春の頃の話だ。
「ここから通うの?」
「うん。もしかしたら一人暮らしするかもしれないけど、それでもここの近くかな」
最寄駅から電車を三つ乗り継いで九十分の場所に大きな駅がある。新幹線も通っている、近辺で一番栄えている町だ。その駅の名を出せばサクラちゃんの顔が光り輝くように明るくなる。チクリと痛む胸は無視して口角を上げてみせた。
「本当? そうしたらすぐ帰ってこれるし、私も遊びに行けるね」
サクラちゃんが畦道をスキップして制服を靡かせる。遠くで畑を耕している瀧三知さんが作業の手を止めこちらを見ていた。私の進学先は色んな意味で村の話題らしい。父を手放したくない村民の執着と、それから女に教育は不要という化石レベルの価値観を抱いている者達の侮蔑──何より私が外に出てもし桜火王の怒りに触れた場合の飛び火を恐れているからだ。桜火王の呪いはこの土地で産まれた者だけが対象だが、私を制御できなかった罪で裁かれるのを恐れているらしい。
だから村民達は実は私の受験失敗を願っていた。私が村を出なければ父が確実に診療所を続ける確約になると思い込んでいる。更に受験の失敗という挫折によって生意気な私達家族がこの村の価値観に屈するとっかかりになると息巻いているようだ。
馬鹿にしやがって。思わず鼻で笑い飛ばす。
絶対に都内の大学に合格してやると心に決めていた。
「ねぇ。一人暮らししたら泊まりに行っていい? 二人で買い物に行こうよ。映画館も行きたい」
「泊まりをサクラちゃんのお父さん、許してくれる?」
「それくらいなら大丈夫だよぉ。桜火王様だってお許しになる」
桜火王──忌々しい名がサクラちゃんの口から飛び出し私は小石を思い切り蹴飛ばした。村の住民は愚かで馬鹿だ。だが何よりも腹立たしかったのは桜火王という存在もしない癖にこの村を支配する化け物桜のことだ。
桜火王への怯えが人を狂気に走らせている。何をするにしても私達の生活に桜火王は影を落としていた。父が必死に最善の治療を尽くそうとしても、桜火王の前では霞んでしまう。先日の炎花の儀も高熱があるのにも関わらず、司祭だと鼻を膨らませて森へと入っていった林造爺さんは生死を彷徨い一週間の入院となった。呆れて物が言えない私達家族に反して村民は林造爺さんを讃えるばかりだった。自らの肉体より桜火王を優先させる司祭の鑑だなんて泣き崩れる婆さんの姿こそ恐怖を感じる対象だ。適切な治療を施そうとした父に対する罵声を聞いて、儀式で貧血を起こした母に対する嘲笑を聞いて私の心に沸き上がったのは怒りだった。
もし、桜火王が本当にいるなら倒してやる。それが一番のこの村への復讐にもなるだろう。
教科書を読むための理由が生まれる。世界に伝わる怪異を、民俗学を学ぼうと決意した。怒りが学問への原動力となり身体と心を動かしている。架空の存在と、それを崇め恐怖する人との関係についてが挑むべき学問となった。自分なりに学び、知識や論理で以って苦痛に塗れた数年間について整理、納得したかった。両親には反対されたが、そこは譲れない。
春の肌寒い風が吹く。長くなった日を見上げてそしてサクラちゃんと重なった影に視線を落とした。
スキップをするサクラちゃんの影は楽しげに揺れていた。風が長い髪を靡かせ、影の形も変化する。小さな花びらが舞い私達の頭上を通過していった。この村に桜火王以外の桜の木は存在しない。だから別の花か、咲き乱れている桜火王のものだ。
──もし、本当に桜火王が存在したら?
「あやめちゃん?」
「え?」
「どうしたの? 足、止まってる」
真っ直ぐな畦道の先。数歩前にいるサクラちゃんが駆けてくる。心配げに顔を見上げられ、額に手を当てられた。
「何」
「熱あるのかと思って」
「あったら家で寝てるわ」
額の手をどかし、そっとサクラちゃんの頭を軽く叩く。くすぐったそうに肩を縮こませてサクラちゃんがはにかんだ。
「でも何か辛そうな顔してたよ? たまには勉強休んで早く寝てね」
「……そうだね」
遅れを取り返すように足早に住宅地区へと進む。不意に過ぎった妄想を頭から追い出そうと私はまた小石を蹴り飛ばした。
馬鹿馬鹿しいったらない。桜火王が本当に存在するなんて。今でも初めて話を聞かされた時のことを鮮明に思い出せる。林造爺さんが酷く怯えた顔で毒桜吹雪、呪根元絞め、炎花葉と漫画で見るような「必殺奥義」を語るものだから笑いを堪えるのに大変だった。上がりそうになる口角を隠そうと怖がる振りをして俯いたのはサクラちゃんにも内緒だ。
人を支配する残虐殺人桜の化け物なんかいるわけがない。
はあ、と大きく溜め息をつけば隣のサクラちゃんが不思議そうに見上げてくる。この子もアレを信じているのが何ていうか玉に瑕だよな。
「本当に体調悪いの?」
「違う、ちょっと呆れてた」
不意に左手に温かい何かが触れ指先を掴まれる。サクラちゃんがそっと私の手を握っていた。
「ありがとう」
これが彼女なりの慰め方なのだと気づいたのは引っ越してすぐのことだった。何か言葉にできない感情を伝えるためにサクラちゃんは私の手を握る。学校で浮いていた私に一人じゃないと伝えたくて彼女は手を繋いでくれていた。さすがに互いに成長した今ではしなくなっていたので目を丸くしたけども。
「捕らぬ狸の皮算用だよな、と」
「受からなきゃ二人でお泊り会もできないってこと?」
「合格しなきゃ……ね」
肯定はせずにはぐらかした回答をする。私が夢を叶える時、お泊り会なんてありえないのだ。両親の圧力はあるがそれでも自分で選んだ道で後悔は一つもない。だが嘘をついている罪悪感は燻っていて腹の底に沈殿していった。
花びらが宙を舞う。こんなに美しい物が「必殺奥義」であるものかと私は久し振りにサクラちゃんの手を握り返した。




