2-2 出会い
こうして二度目の友人との別れに涙を流しながらも私は小学校三年から央齢村で過ごすこととなる。そうして出会ったのがサクラちゃんだった。
「あなたもお花の名前なの?」
学年で分かれていない教室で大きな生徒に囲まれて縮こまっている私の手をサクラちゃんが握る。小さくて温かい手。「私、咲楽っていうの」と微笑まれ、どもりながら「私は火浦朱芽」と返した。
さて。私の学校生活、正確には央齢村生活だが一言で表せば戦いの日々だった。小さなコミュニティでは「都会から来た余所者の少女」は酷く浮き、そして一つの言動が逐一村中で共有される。この村で違いは排除すべき対象だ。はっきり言って気持ち悪い。余所者と試すように昆虫を近づけてくる奴も、これ見よがしに遠巻きに歪んだ笑みを浮かべる集団も全部鬱陶しいったらなかった。
対抗するためには戦うしかなかった。嫌なことは嫌とはっきり言い、決して涙は見せない。取っ組み合いの喧嘩をして何故か私だけ教師に叱られるなんてこともあった。態度が気に入らないと憤慨され、あるいは学校内で生意気だと噂されるも負けていられない。やがて火浦朱芽はそういう人間だと認められる──認めるだなんて何とも傲慢な態度で、実際は認めたのでなく迎合に諦めたのだろうが──のに、不当な嫌がらせを受けなくなるまで何と一年もかかった。それでも一部の大人達からはじゃじゃ馬と溜め息をつかれたが気にしていられなかった。そう在らなければ「自分」が折れてしまう。一度でも迎合すれば二度と私の意思は尊重されなくなる。央齢村は最後まで私にとってはそういう場所だった。
そんな一年間でずっと味方だったのは両親とサクラちゃんだった。二つ年下のサクラちゃんは少し頼りないけれど、とても優しい。校舎のガラスにボールを当て割ってしまった犯人と私が決めつけられかかった時もアリバイをたどたどしく、それでも真剣に訴えてくれた。守ってあげなければ。いつしかずっと一緒にいるのが当たり前になっていた。他の子とも友情を育んでいった後も、一番の友達はサクラちゃんだ。
それでもサクラちゃんにも言えない不満があって、それは「桜火王様」のことだった。村を支配する妖怪もとい怪異を老若男女全部が信じ切っていて何かにつけてはその名を出すのだ。
「何で皆桜火王様がいるって言うの?」
小学五年生だった頃だ。土曜日。今日は学校が休みで私と母は朝からテレビを見て過ごしている。母が作ってくれたチキンライスを嚥下してコンソメスープに口をつけた。
「朱芽。外では」
「言ってない。ちゃんと約束守ってるよ」
母が安堵の息を吐き、チキンライスを口に運んだ。毎年三月末、桜火王様を讃えるための祭りである「炎花の儀」が行われる。その祭りに対する住民の真剣さは異常だった。
当時子どもであった私は昼の部と呼ばれるかつて都内の神社で行われていたような屋台が立ち並ぶ祭りに参加するだけでいい。大人達はその後、全員参加で夜に本儀式を執り行うために炎花の森へと参列していく。これだけなら変わった土地の祭りで済んでいただろう。だが実態は本儀式は家畜をできるだけ残虐に痛めつけ捧げる正気を疑うもので、昼も夜も含めてたとえ体調が悪かろうが全員参加が強制されているのだった。三十九度を越える熱を出しながら参列に加わる住民を父は医師の立場から必死に止めようとしたが断られるのを見てしまっては恐怖しか感じない。それどころか父を蔑むような目で睨みつける他の住民にもだ。
特にサクラちゃんは村の中でも桜火王様に怯えていた。私が少しでも軽んじたような素振りを見せれば眉をつり上げて怒りを露わにする。その度に私は内心反省もせずに謝罪の言葉を口にするのだが、正直サクラちゃんのそこだけは苦手だった。
「ただいま」
疲れを滲ませた声が廊下の向こうからした。火浦診療所は土曜は午前中のみの営業だ。少しして廊下のドアが開く。皺くちゃのワイシャツを着た父が顔を覗かせた。
「おかえりなさい」
「おかえり、父さん!」
母が立ち上がり、サランラップがかかったチキンライスを電子レンジに入れ、鍋に火をかけた。私は食器棚から大きなマグカップを出しシンクに置く。これにスープを入れてもらうのだ。
「今日も大変だったでしょう」
「ああ。丘名井さん家の爺さん、あれだけ大人しく寝ていれば治ると言っているのに薬が効かないと怒鳴ってきて……安静にしていなきゃ治るものも治らない」
父が冷蔵庫を開け麦茶を取り出す。私はもう一度背伸びをして食器棚から向日葵の絵が描かれたグラスを手渡した。
「ありがとう」
「今日はもう休めそう?」
「ああ。ゆっくりチキンライスを食べてとりあえず昼寝を」
間延びした電子音が何度もダイニングに響き渡る。電子音が途切れる前に重なるように鳴り、私は顔を顰めた。インターホンを連打されている。出ようとした母を手で制し、父が室内カメラへと近づいた。
「はい」
「先生! 何でいないんですか! 瀧三知さんに鎮痛剤を処方してくださいよ! 可哀想に。立てないって嘆いています」
こっそりと背後からカメラを覗き込めば数人の大人がひしめき合うように顔を近づけていた。その中には件の瀧三知さんがいて不服そうにふんぞり返っている。立てているじゃないか。出かかった言葉を飲み込んで私は父の服を引っ張った。
──今日はもうゆっくり休んで。
父が私の顔をじっと見つめる。そして首を振ってマイクに声を張った。
「申し訳ございませんが、当診療所は本日はもう時間外でして。瀧三知さん、先程鎮痛剤も湿布も処方しているはずですよね。そちらを使って今日、明日と安静になさってください」
「患者を見捨てるのかい! この藪医者!」
隣の老婆こと丘名井さんが皺を震わせる。唾がカメラにかかり顔が歪んで見えた。
「ですから、既に診察も処方もしております。これ以上私にできることはありません」
「じゃあ儂が見てもらおうかな。最近妙に鼻がむずむずとしての。ついでに瀧三知さんも見てもらえばええ。患者が一人も二人も変わらないじゃろう」
おお、と歓声が上がる。唾で顔が隠れている奴がとんでもない提案をしてきた。
「診療時間外です。お引き取りください」
「アンタはこの村唯一の医者だろう! 非常事態に治療ができないで何が医者だ! 今までの治療費を返せ!」
バン、と大きな音が玄関の方から上がった。カメラを見れば門扉を瀧三知さんが蹴り続けていた。
「あなた……」
「仕方がない」
父が舌打ちをしながら床に転がした鞄を持ち上げ、早足で玄関へ向かう。──いつものことだった。
「今回だけですよ!」
玄関が開くと同時に外の喧騒が大きくなる。大人達が声を張り上げ、父を罵倒した。
「さっさと出てくればいいのに! 桜火王様に祟られてもいいのか、この余所者が」
「アンタ達がしっかりしないと私達が桜火王様に断罪されるんですよ。身体を痛めてでも今年の捧げものの用意をしなければいけない、この重大な使命をわかっとらん」
「まあまあ丘名井さん、アンタと違ってこの家の嫁は怠け者だからなあ。夫を支えもせずパソコンを弄って遊んでいるじゃないか。そんな暇があればもう一人産むか、あのじゃじゃ馬をしっかり躾し直せばいいのに」
「全くだ。朱芽なんてこの村に相応しい名の子かと思ったらとんでもねえガキだ。女ってのは」
「申し訳ありませんが、うちの家内と娘の話は止めてもらっていいですか」
父が地を這うような声を上げれば大人達がピタリと全員黙り込む。マイクが「いつか桜火王様に殺されてもしらねえぞ」と誰かが吐き捨てたのを拾い上げていた。
母が無言でマイクを切ってテレビをつける。チャンネルが二つしかないテレビはいつもニュースか通販ばかりを映していた。かつて私が見ていた「妖怪が出るアニメ」なんて全くやっていなかった。
「お母さん」
ダイニングと繋がっているリビングのソファに私も腰かけた。当時は大人達がいっている意味がわからなかったが、それでも馬鹿にされていることだけは伝わってきていた。
「大丈夫よ。朱芽、大丈夫」
母が私を抱き寄せる。その声が震えているのには気づかない振りをした。
「家族一緒なら乗り越えられるから……ね?」
腰に回された手に力が込められた。私はただ黙っていることしかできずに青汁の宣伝をしている知らないタレントを見続けていた。




