2-1 引っ越し
過疎地域の医療を支えたい。それが父の夢だった。
当時幼稚園生だった私にはよくわからない。けれど、都内からとんでもない田舎に家族皆で引っ越すってことだけは理解していた。卒園と共に山奥の村で暮らす。てっきり同じ小学校に通うと信じていた友達と別れるのが悲しくてわんわん泣いたことだけは薄らと覚えている。悲しいかな子どもが泣き叫んだところで親の職業に関する引っ越しは覆らないんだけども。
これも当時はよくわかっていなかったけれど、引っ越しにあたってかなり母方の祖父母と揉めたらしい。結婚し子育てをしながら夢であるWEBデザイナーとして働き続けている母。当時にしては珍しいフリーランスの在宅勤務だったため、インターネット回線さえあれば引っ越し先でも仕事は一応可能だとか。だが一番の問題はそもそも仕事をするのに差支えのないインターネット回線が引けるかである。問い合わせてみたところ答えはNOだ。母の仕事は父に合わせた場合、廃業ということになってしまう。大切な娘の夢が断たれてしまうとなれば怒りは当然だ。当時の私は大好きなおじいちゃんとおばあちゃん、父さんと母さんがずっと喧嘩をしているのが悲しくて仕方なかったけれど。隣の部屋のクローゼットの中でずっとしゃくり上げていた記憶が今も確かに残っている。
結局私達は父が診療所を建てる村から一時間半程離れたマンションに住み、そこから父のみが通勤する生活形態で妥結した。インターネット回線が引けるようになり次第、母も私も村へと引っ越す条件付きで。父も母も利便性よりも家族が一緒にいることを重要視する人間だった。仕事さえできれば住む場所はどこでもよい、と朗らかに笑っている母。夢の第一歩に燃える父。引っ越しの寂しさを抱える私の三人は三月の中旬に東京を旅立つ。その後何が起きるかなんて誰も知りやしなかった。
その後、央齢村に私と母が引っ越したのは何と二年後だった。丁度央齢村……というより当時の県知事が過疎地域への対策の一環としてインターネット回線の充実を計ったようだ。つまり央齢村は失礼な言い方をすれば村の規模に対して何故かインターネット環境だけはそれなりに充実している不思議な場所になったのだ。
引っ越し前夜。最近は診療所に寝泊まりが多く家を空けることが多かった父と母が私を呼ぶ。
「朱芽」
「なあに。父さん、母さん」
父と母は眉を歪めて顔を見合わせる。何か言いたげに口が開いては閉じてを数回繰り返していた。私を呼んだのにも関わらず、呼びたくはない。そんな雰囲気を感じ取ってしまい、首を傾げる。二人の間に重苦しい空気が流れていた。
「明日引っ越す村の話だが、絶対に守らなければいけないことが一つある」
叱られる時の声色で父が呟く。背筋がピリピリとして居心地が悪かった。
「世界には色んな物を信じている人がいるんだ。それは尊重されるべきもので否定してはいけない」
よくわからず一層首を傾げる。もう薄れてしまっているが様々な例え話をされて無理やり納得したんだと思う。
「明日から家族全員で暮らす村にはな『桜火王様』という……そうだな、妖怪がいるんだ」
「オウカオウサマ?」
思わずふき出してしまった。幼稚園の時はアニメに出る妖怪の存在を信じていたが、今はもう。騙そうとしていると笑顔を向けて、そして目を逸らした。父も母も見たこともない暗い吸い込まれそうな瞳をしていたからだ。
真剣な話をされている。子どもながらに何かを悟った。笑い飛ばしてはいけない、重要なことを父さんと母さんは告げてきていた。
「央齢村の皆はその桜火王様を大切にしている。だからおかしいと思っていても否定しちゃいけないよ。父さんと母さんだけの時は『おかしい、そんなものはいない』って好きなだけ言っていい。けど、村の皆の前では桜火王様は『正しく』『いる』って合わせてあげなければいけないよ」
「父さんと母さんは桜火王様のこと信じてないの?」
父と母がハッとして再び顔を見合わせた。そして眉を下げ緩く首を振ると、困ったと云わんばかりに小さく溜め息をつかれてしまった。
「そうだね」
母が私の頭を撫でる。さらさらと前髪が眉の上で揺れた。
「朱芽と同じかな」
困ったように微笑まれる。誤魔化しだと頬を膨らませたがそれ以上は言及できなかった。
「朱芽。僕達はやっとまた一緒に暮らせる」
「そうよ。朱芽。家族が一緒ならどんなことがあっても大丈夫」
父も私の頭を撫でた。確かに引っ越してきてから父と過ごす時間は圧倒的に減っていた。東京に住んでいた時はよく週末に一緒に買い物に行ってお昼ご飯を食べたし、一緒に寝ることも多かった。しかしこちらに引っ越してきてからは一切なくなってしまっていた。平日は基本帰ってこない。そして休日も死んだように眠りにつくか、けたたましく鳴る電話に出てはそそくさと家を後にする後ろ姿ばかり見ていた気がする。
「父さん、前みたいに遊んでくれる?」
「勿論だよ。皆で遊びに行こう」
まずは皆で焼き肉だ。父が歯を見せて笑い私を抱きしめた。ふんわりと酸っぱいような臭いが鼻腔をつく。医者は清潔でなければと毎日風呂に入っていた父からは考えられない匂いに目を見張った。
「家族一緒なら困難を乗り越えられるさ」
「ええ。勿論」
まるで自分自身に言い聞かせるように両親の唇から言葉が漏れていく。重苦しい空気はなくなったものの、別の不穏な掴み取れない何かが私達家族を縛り上げているようだった。
大丈夫。家族一緒なら何があっても。父の服をギュッと掴み顔を埋める。やっぱり病院独特の消毒液ではなく土と汗の匂いばかりがした。




