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1-1 再会

 ポリエステル生地のワンピースの裾がふんわりと揺れる。まるで自分の下半身が風鈴になったようだと頬を緩めた。もう本物を見ることはないからだ。

 エスカレーターを上れば足早な人の群れが交差していたので避けるように端で立ち止まる。そうして騒めきが去った後に左肩のボストンバッグをかけ直してまた歩き出した。ガラス張りの待合所の中の時計は現在十一時三十二分。待ち合わせは十二時だったので間に合うけれど余裕はないかもしれない。トイレに立ち寄るか迷ったが、そのまま改札を潜ることに決めた。向かう途中、角を曲がれば急ぎ足のスーツ姿の男とすれ違えばボストンバッグと男のキャリーバッグがぶつかり舌打ちされる。そんなに急がなくてもいいのに。身体に響く痛みを堪えながら私は溜め息をついた。電光掲示板によれば一番直近の東京へと向かう新幹線の到着は二十分後で、人にぶつかる程慌てなくても十分間に合うのにと振り返り小さくなった背を見送った。

 最寄駅から電車を三つ乗り継いで九十分。沢山のホームに迷路のような構内、自分が乗ることはない新幹線が往来するこの駅が私は苦手だった。待っても人の波が途絶えることはないので思い切って改札への列へ並ぶ。あと二人まできてようやくICカード専用の改札であることに気がついた。

「すみません。あの……通してください」

 慌てて手の平で少し湿った切符を握りしめて列から抜けて逆走する。私の住む村は一年前にようやく改札で駅員さんが切符を切ることがなくなったというのに技術の進歩とは恐ろしい。後ろの女に大きく溜め息をつかれ、胸が痛んだ。素早くICカードやスマートフォンをタッチして進む人々を見ないようにして急かされるように切符を改札へ捻じ込む。ようやく潜れたその先は何度来ても慣れない。村とは違う、土ではない不思議な匂いがした。

 心臓がコトコトと動く。この先の幸福が待ちきれず私を置いて飛び出していってしまいそうだった。胸を押さえながら見上げればガラス張りの高いドームのような天井に眩暈を起こしそうになる。長いエスカレーターにゆっくりと足をかけ下っていく。天井から糸瓜のように「歓迎」や「ようこそ」と書かれた垂れ幕がぶら下がり、昇りエスカレーター側には「また来てね」と別れを惜しむ台詞が吊るされていた。観光地の入り口として有名なこの駅はいつでもこの土地の者ではない人間を迎えるために存在していて、やはりちょっとだけ居心地が悪い。観光客のための土産屋、有名で割高な地元の人間はまず口にしない食べ物を扱う飲食店。構内の東西に広がる大通りを視界の端に捉えながら目指すは駅の外だ。大小様々なコインロッカーがひしめき合うスペースに向かう観光客とすれ違いながら、アーチ状の出口を潜れば少しだけ息苦しさが解消された気がした。

「わあ」

 駅の雑踏は苦手だけど、この町自体は嫌いじゃない。私の家の近くには絶対に存在しない有名チェーン店の大型ショッピングモール、雑誌のトップを飾るお洒落な喫茶店、発売日当日に欲しい本が陳列される本屋、このお気に入りのワンピースも履き潰したパンプスも斜め前に建つファッションビルで小遣いを崩し購入したものだ。何だって手に入るこの町で暮らす夢想を何度もした。人混みは苦手だが、利便性と比べればやはり後者の方が魅力的だ。故郷より淡い色の青空も、無機質なビル群も村の大人達が言う程恐ろしいものには見えなかった。

 十以上ある数字の看板が散りばめられたバスロータリーを歩く。今日は月に一回許された買い物でも、バスに乗って映画館へ行くのでもない。タクシー乗り場の更に先、ビジネスホテルの角を左へ曲がった先の横断歩道で立ち止まる。右肩にかけたショルダーバッグからスマートフォンを取り出した。

『サクラちゃん、前見てみ?』

 メッセージが届いていたので指で液晶を叩く。前? 横断歩道の向こう側に視線をやればコンビニの駐車場で大切な友達が手を大きく振っていた。

 信号が青に変わる。もう心臓の鼓動を、駆け出したい気持ちを抑える必要はない。電子音が鳴り響く中、跳ねるボストンバッグを押さえて走り出した。

「あやめちゃん!」

「おー久しぶり! サクラちゃん、元気してた?」

 明るいミディアムボブの茶髪が陽の光を反射し黄金色に輝く。駆け寄ってみれば根元が数ミリ元の黒髪をアピールしていた。懐かしい。何もかも。胸の奥から温かいものがこみ上げてくる。ぶっきらぼうに言葉を投げつけてくる癖にサクラ「ちゃん」呼びなことも、少し掠れた低めの声も。全部私が知っているあやめちゃんだった。

 抱き着きたくなる衝動を抑えてあやめちゃんの両手を取る。綺麗に切り揃えられた爪に鮮やかな水色のマニキュアが乗せられていた。中学時代こっそりマニキュアを塗り先生に呼び出され不貞腐れていたのを思い出す。様々な感情が濁流のようにせり上げてきて私の口から声となって飛び出した。

「あやめちゃん! あやめちゃん!」

「名前以外の単語を喋りなさいな」

 細く綺麗に整えられた眉を下げてあやめは笑う。何も変わらないその表情に胸がいっぱいになって気がつけばあやめちゃんの腰に手を回していた。結局はしたなく抱きついてしまったが後悔はない。額を押しつけるようにすればふんわりと嗅ぎ慣れない、けれど柑橘系の爽やかな香りが鼻腔を擽った。

「サクラちゃん、重いって! ボストンバッグが」

「だって久し振りなんだよ? 会いたかった……」

 頭一つ分私よりあやめちゃんの方が背が高い。一度も染めたことのない黒く切り揃えられた髪の頭頂部をあやめちゃんがポンポンと叩く。昔もこうやって仕方ないというように優しく諫められていたなぁ──何だか鼻の奥がツンと痛んで一層腕に力を込めて細い腰を抱きしめてしまった。

「こら。離して。とりあえず移動した方がいいって」

 もう一度ポンポンと叩かれたので渋々従い手を緩めた。改めて頭頂部からつま先までじっと見つめる。少しだけ、大人びたかな? でも髪の色以外やっぱり殆ど変わっていない、あの時のあやめちゃんのままだ。

 懐かしい記憶が次々に脳裏に蘇ってくる。幼い頃手を引かれ八百屋へ買い物に行ったこと、帰りに「内緒だよ」とコロッケを半分こしたこと、一緒に父親の車で小学校、中学校と共に通ったこと。山間の小さな町の子ども達が集って一つのクラスを形成していたため、あやめちゃんは二つ年上だったけどずっと一緒だった。

 それからあやめちゃんが高校に入学して──思い出がその先に進もうとした瞬間、鳩尾がキュッと締まったような感覚に襲われる。ずっと抱えていた疑問であり、それよりも大きな自分でも理解できない感情が心臓を叩いているようだった。

 高校に入学して、それから──

「サクラちゃん?」

 あやめちゃんに怪訝な顔を作っていたのを覗き込まれ、意識が現代へと引き戻される。いけない。今日は楽しむと決めたのに。私は首を小さく横に振り笑顔を作ってみせた。

「ごめんね。ボーっとしてた」

「お腹すく時間だからね。色々話したいこともあるしさ、昼食べようよ」

 あやめちゃんがポケットから鍵を取り出してコンビニの駐車場へと向かう。白い小型バンの助手席のドアを開け恭しく一礼をした。

「やんなきゃいけないことがあるから、昼はコンビニ弁当でいい? 後ろにあるから車の中で食べてもいいよ」

「ううん。着いてから一緒に食べる」

 せっかくだもん、一緒に食べたい。そう告げて助手席に座ろうと足をかける。ふと後部座席を見れば大きなクーラーボックスと大量の膨らみ切ったレジ袋が乗せられていた。

「ごめん、ボストンバッグ適当なスペースに押し込んじゃって」

「助手席で抱えるから平気」

 シートベルトを締め宣言どおりボストンバッグを縦にして抱え込む。明らかに二人の昼食だけではない量に目を丸くした。何か他に大切なものがあるのかも。私の荷物で押し潰してしまう可能性を無くしたかった。

「あやめちゃん、運転免許取ったんだね」

 やっぱりあやめちゃんは凄い。そう目を輝かせれば照れくさそうに視線を逸らされた。そういうところ、変わっていなくて可愛いと思う。

「ん? ああ、そうか。言ってなかったっけ?」

「連絡くれたの二年振りじゃない」

 ついでに言えば最後の会話は喧嘩だったよ。咄嗟に喉から出かけた言葉を私は寸でのところで飲み込んだ。あやめちゃんが高校を卒業した日が最後の会話だったのだ。会えたのは涙が出そうなくらい嬉しい。このタイミングで昔のように二人で過ごせるのが何よりだ。けれど、喉奥に刺さった小骨のように疑問が引っかかっている。あんな別れ方したのに、どうして連絡を?

 ひりつくように胸が痛む。息苦しさを洗い流すようにショルダーバッグからペットボトルを出し中身を一気に煽った。冷たい緑茶が喉から胃に落ちていく。顔を顰めたのは口の中に残った苦みからだけではない。

「それじゃ出発進行!」

 あやめちゃんは私のどろっとした感情に勘付いていないようだった。溌剌とした声が車内に響き、エンジンがかかると身体に僅かな振動が伝わった。コンクリートで舗装された道の上を滑らかに自動車は進んでいく。地元の土で固められた凹凸のある道とは大違いだ、思わず声に出せばあやめちゃんは前を向いたまま口を開いた。

「央齢村は相変わらずなの」

「相変わらず?」

「碌でもない風習を馬鹿みたいに皆信じてんの」

 息を呑めば見計らったように信号が赤となり車体が停止する。あやめちゃんはこちらを一瞥もせずにハンドルを指で叩きながら続けた。こっちを見ないのは運転しているのだからそういうものかも知れないけれど。

 央齢村。私が産まれた時から暮らしている村で、あやめちゃんも以前は住んでいた。山奥の不便で、それでも離れられない小さな村だ。

「碌でもない風習って」

 唾を嚥下する。村の中に過疎化が進み捨て置かれた畑があった。その賽の目状に区切られた土地の畦道をずっと進んでいけば森へと辿り着く。木で覆われ、一メートル先も確認できないようなその鬱蒼とした闇に二つだけ白が浮かんでいた。幅二メートル程の間隔で私の腰くらいの不思議な文字が彫られた白い石。そこから人の手が加わった石畳が真っ直ぐに闇の中へ伸びている。許可なしに村人が入ることを禁じられた、許可を貰うまでもなく滅多に誰も近づかないその場所が脳裏を掠めていく。

 舞う花びら。血飛沫。それを嘲笑うのは──

「だってそうじゃない」

 私の首筋を汗が伝った。野山に囲まれ大人達は畑を耕し、子もそれを手伝う。自動車に乗れない者にとっては一時間に一本だけやってくるバスが唯一の脱出口の世界では交番のお巡りさんよりも、一番高い丘の上に住む司祭さんが法となる。小さな商店街は住民のライフラインを握り、更にその商店を一家が支配する。助け合いと支配が同居した世界を今日だけは忘れていたかった。

 その人々を更に上から支配する「アレ」を今日だけはあやめちゃんに塗り潰してほしかった。

「あのさ。昨年、央齢村のあたりに台風がいったよね。もしかして」

「あやめちゃん!」

 張り裂けそうな音が喉を傷つけながら飛び出した。信号が青に変わる。車体がまたゆっくりと舗装された道を走り出した。

「サク……」

「あやめちゃんからすれば……というか央齢村以外の人間からすれば信じられないのはわかるよ。でも桜火王様がいらっしゃるんだから仕方ないじゃない」

 舌を縺れさせながら私はあやめちゃんの言葉を遮った。ミラーに青ざめた私の顔が写る。前を向きながらも顔を歪めたあやめちゃんの顔が隣にあった。

 桜火王様。お許しください。木の根が足を締め上げるような恐怖に襲われる。震える指先を隠そうと私はボストンバッグを握り、目を閉じた。お許しください、どうかどうか。

 瞼の裏で花びらが舞う。倒れる誰か。覆う花びら。

 場面が変わる。

 斧。血飛沫。悲鳴。そして浴びせられる罵声と冷笑。

 私が、私がお許しを得なければならない。桜火王様どうか。まずはあやめちゃんの今のご無礼をお許しください。もうすぐそちらに参りますから──

「アンタ、ということはまさか」

「そんなことより今はあやめちゃんの話を聞きたいな」

 被せるように声を張れば、今度はあやめちゃんの息を呑む音がする。重苦しい沈黙が車内を支配しルームミラーにはばつが悪そうな二人の女の子が写っていた。あやめちゃんはやはり桜火王様を信じていないのだ。いつも随分と無礼な真似をしようとして……背筋に冷たい物が走り耳元でさわさわと木々が揺れる音がした。ああ、やっぱり。お怒りになられている。

 ──あやめちゃんの罪も明日償いますからどうか今は。

 目をもう一度瞑り祈りを捧げれば耳元の音がスピーカーのボリュームを急に下げたように消えていく。足元の根もゆっくりと自動車の足置き場へと沈んでいった。ホッと胸を撫で下ろし目を開ければミラー越しにあやめちゃんと目が合う。への字の口から小さく息が漏れた。

「そうだね」

 あやめちゃんは渋々頷くとサイドミラーを確認しハンドルを切った。右折と共に目に飛び込んできたのはベージュ色のマンションのような建物だった。

「あれだよ。今日泊まるホテル。私もサクラちゃんの話が聞きたいし、着いたら話そうか」

 どうやら一先ず納得してくれたらしい。あやめちゃんが桜火王様を信じて一緒になってくれるのがやっぱり一番だけど、央齢村の外で産まれた人間には呪いが効かないのだ。一人で納得し頷けばカサリと後方から物音がした。

 後部座席を振り返る。クーラーボックスは相変わらず閉まったままで、レジ袋の一つから弁当が顔を覗かせていた。スパゲッティーナポリタン大盛り。私が好きなの覚えていてくれたんだ──恐れと苛立ちが混ざった感情が見る見るうちに氷解し私の心を歓喜が満たした。やはり大切な一番の友達はあやめちゃんなのだ。喧嘩をしても桜火王様に理解がなくても、それでもたった一人の。

「楽しみだね。お花見にお泊り会」

「……うん。楽しみだ」

 自然に声が弾んでいき、改めてホテルを見上げる。これから二人で遊ぶことだけを考えようと目尻に溜まった生温い水を指で弾いた。

 窓の景色がぐんぐんと流れていく。冬を越え青々とした葉を再び生やし始めた木々を置き去りにしてあやめちゃん運転の自動車は走る。

 昔に戻ったみたいだ。かつて共に後部座席で揺られ小学校に通っていた光景が脳裏を掠め私は窓を半分程開けた。木々のせいか少しだけ、央齢村と同じ青臭い空気が車内に流れ込んでくる。深く息を吸い込んでそしてもう一度「楽しみ」と呟いた。

 半年前、央齢村から引っ越し連絡が取れなくなっていたあやめちゃんから突然私の元にメールが届いた時は目を疑った。動揺と怒りとそれから幸福。ぐちゃぐちゃな感情でメールを開ければシンプルな一言が書かれていて目を見張った。

 ──久し振りに会いたい。

 最近めっきり使わなくなったメールアドレスを削除しないで良かったとスマートフォンを抱きしめ、すぐさま肯定の意を返信した。そうやってやり取りを重ねてメッセージアプリで都合を擦り合わせた結果、ようやく再会を果たしたのは先程のことだ。三月末。私にとっては最後の休みであり、あやめちゃんにとっても大学の春休みの終盤であった。

 フロントガラスの端に薄桃色の花びらが一枚舞い降り、身体が強張るのがわかった。風圧でそれが吹き飛ばされるのを見送ってようやく私は握りしめていた拳を解いた。

 桜なんて本当は大嫌いだ。

 名前と同じ花は嫌いだった。でもそれを声高に主張することは許されない。罪悪感と恐怖と周囲の視線と。全てが雁字搦めになって私の魂ごと縛っている。それでも今は早咲きの花びらを笑顔で送れるのだ。隣に最後に会いたい者がいるのだから。

「うん。楽しみだ」

 あやめちゃんが私の言葉を拾い同意する。運転する横顔は真剣そのものでやっぱり大人びて見えた。あやめちゃんも私もあの頃から成長した。それでも変わらないものを最後に確かめたい。

 窓から吹きつける風に髪を靡かせて、薄桃色の花びらの中を自動車が走っていった。


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