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呼んできたお医者さんが言うには、お母さんは過労が原因で倒れたらしい。
「心配かけてごめんね、二人とも」
「ううん、それより今は休んでて」
「家のことは僕たちに任せてよ!」
リビングのソファーで横になっているお母さんは、顔を覗き込んでいた私たちに手を伸ばすと頭を撫でてくれた。
「じゃあ私たち、台所片付けてくるね」
「ごめんね、ありがとう」
薄く微笑みを浮かべ、私たちの頭から手を離すと目蓋を閉じた。頭に感じていた手の温かさを名残惜しく思いながら、私はアルミラを連れて台所の片付けを始めた。
翌日の朝。お母さんはいつも通り台所で朝ご飯の準備をしていた。
「おはよう、お母さん。…もう大丈夫なの?」
「えぇ、もうすっかり元気よ」
アルミラと話しているお母さんはとても元気そうには見えなかった。顔色は悪いし足元もなんだかおぼつかない。
「もう少し休んでたほうがいいんじゃない?」
私は心配になり、おはようも忘れて言葉を零した。
「大丈夫よ、ステラもアルミラも心配性なんだから…」
ほら、もうご飯できるから座って。言いながらお母さんは湯気を纏ったベーコンエッグが載ったお皿を持ち上げる。瞬間、お母さんの身体がぐらりと傾いだ。
「っ!危ない!」
アルミラが言うと同時に、私たちは咄嗟にお母さんの身体を支えた。手からお皿が滑り落ちる。お皿は割れはしなかったけど、載っていたベーコンエッグは床に落ち、半熟だったたまごの黄身が周囲に飛び散っている。
「ほら、やっぱり休んでた方がいいよ!」
「そうだよ。昨日倒れたばっかりなんだよ」
「…そうね。今日は少し、休むわね」
お母さんは困ったように目を細めた。それからお母さんは私たちに支えらるようにしながら自室まで向かい、ベッドに横になった。
私たちは台所まで戻ると床に落ちたベーコンとたまごを片付け始める。落ちているベーコンを拾い上げながら、私は床を拭いているアルミラに口を開いた。
「アルミラ。私たち、特訓しよう!!」
「え、特訓ってなんの?」
「なんのって、そりゃあ掃除でしょ?あと洗濯、お料理、お仕事…はまだ無理かもだけどそのお手伝いとか」
私は指を折りながら特訓の内容を説明する。
「はぁ。それは分かったけど、なんで急に特訓しようと思ったの?」
「私、昨日今日と思ったの。お母さん、今までずっと無理してたんじゃないのかなって。だから家のこととか完璧にこなして、お母さんを楽させてあげたいって思ったの」
「…そういうことなら、うん、いいと思う。僕もやるよ」
「さっすがアルミラ!じゃあ早速今日から特訓ね!」
こうして突発的に私たちの特訓は始まった。
特訓と言っても掃除、洗濯は元々やっていたし、今私たちに必要なものは料理の腕だろうと考えた。というわけで私たちのひとまずの目標は料理をできるようになるという、なんとも曖昧なものに決まった。お母さんは包丁や火を使ったりする料理を許してくれないだろうと思った。私たちはお母さんに内緒で、いつも遊びに行ってる教会のシスターに料理を教えてもらうことにした。…結局、シスターは特訓のことをお母さんに話していたらしいけど。シスターが教えるならとお母さんは何も言わなかったそうだ。
半月ほど特訓を重ねた私たちは簡単な料理くらいはできるようになっていた。早くお母さんに食べてもらって喜んで欲しかった。
お母さんの具合は倒れたあの日から良くならなかった。前からお母さんの様子を見に来ていたお医者さんは、前よりもよく来るようになっていた。一日中ベッドの上で過ごすことも増えた。ずっと寝ていて何も話せずに一日が終わることもあった。私たちは寂しかったけど、お母さんに無理をして欲しくなかったから甘えたがる心を必死で抑えつけて我慢した。
あるとき。いつもみたいにお母さんの部屋でお医者さんとお母さんが話をしていた。部屋から漏れ聞こえる声の中に、お母さんのすすり泣く声が混じっていることに気が付いた。私たちはお医者さんが帰った後、不安に苛まれながら何の話をしたのかお母さんに聞いた。お母さんは眉を八の字にしながら、身体の調子を聞かれただけよ。と赤く腫れた目を細めて微笑んだ。私たちはその微笑みの裏に別の何かがあると気付いていても、それが何なのか、確かめる勇気はなかった。
春の陽気に、夏の気怠い暑さが見え隠れし始めた頃。朝ご飯の準備をしなきゃ。と私とアルミラは寝ぼけ眼を擦りながら部屋を出るとリビングの黒茶色のドアを開けた。
「あら、二人ともおはよう」
リビングには珍しくお母さんの姿があった。
「お母さん、寝てなくて大丈夫なの?」
「今日は調子がいいから大丈夫よ」
なんだか久しぶりにお母さんの顔を見たような気がする。そんなことないはずなのに。寝ているときの顔ばかり見ていたからだろうか。
私たちを見て幸せそうに微笑むお母さんの顔は、記憶の中にあるお母さんと比べて少し頬がこけたように思えた。
「ねえねえ、今日三人でお出かけしないかしら?」
お母さんはいつの間に用意していたのか、私たちの分の朝ご飯をテーブルに運びながら楽し気に提案してきた。どうせなら私たちが作った朝ご飯を食べてもらいたかったな。と心の中で密かに残念がる。けどお母さんの提案は私の残念がる心を飛び上がらせた。
「え!行きたい!行きた、い…けどお母さん大丈夫なの?」
飛び上がった心は空気の抜けた風船のように落ちる。
「さっきも言ったけど、今日は調子がいいから大丈夫よ」
「本当?無理してない?」
アルミラも心配そうに聞いている。
「もう、二人とも心配性ね。大丈夫だから、ほら早く食べて準備しましょう。お昼も作っていこうね」
私たちはどこか強引なお母さんの様子が僅かながら心に引っかかった。私たち二人とも心配ではあったけど、久しぶりのお母さんとのお出かけにふわふわする心は止められなかった。
「お昼ご飯なら私たちも作るの手伝うよ!」
「うん、僕たちもう料理だってできるからね。…簡単なやつだけだけど」
私たちは特訓の成果を見せるべく鼻息も荒く気合が入る。
「ふふ、二人の手料理が食べられるなんて。とっても楽しみね!」
お母さんが心底楽しそうに銀の髪を揺らすを。どこに行くのか知らないけれど、なんだか今日は楽しい一日になる予感がした。
私たちは三人で協力してお昼ご飯を作った。サンドイッチやたまご焼き、サラダ、鶏のから揚げといった定番のおかずをお弁当に詰めると、買い物袋程のサイズのバスケットに入れた。
「…ピクニック?」
アルミラはお母さんの腕に提げられているバスケットの中を覗き込みながら言った。確かにお昼ご飯の内容を聞くと、ピクニックにでも行くつもりなんじゃないかと私も思う。実際バスケットの中にはお弁当の他にも水筒や紙皿、外で座るためのクリーム色の敷物が畳んで入れられていた。
「ふふ、当たり。お母さんのお気に入りの場所を二人にも見せたくてね」
「お気に入りの場所って?」
「それは着いてからのお楽しみ。…きっと驚くわよ」
ちょっと遠いから早めに行きましょ。とお母さんは悪戯っぽく笑うとバスケットを揺らした。珍しく子供っぽいお母さんにちょっと驚きながらもつられるように笑みが零れる。行先は気にはなったけど、お母さんの言う通り楽しみに待つことにした。私たちはお母さんの服の裾を両側から掴むと揃って玄関を出る。そんな私たち三人の間を、草花の甘い香りをはらんだ春風が吹き抜けた。
私たちは村を出ると、そのまま真っすぐ伸びている道幅の広い田舎道を歩き続けていた。道には空から降り注ぐ日差しを遮るものが一つもなく、ちょっと暑いくらいだった。
「ねーお母さん、あとどれくらい?」
私はお母さんの服を引っ張りながら尋ねた。
「そろそろだったと思うんだけど…あった。ここだわ」
お母さんは額に滲んだ汗を拭いながら答えると、道の脇にある森の中へ続く細道を進み始める。道には馬車が通ったであろう轍がいくつも残っていた。さっきまで歩いていた田舎道と違って、森の中の道は柔らかい土の感触が足に伝わってきて心地いい。それに周りの木々たちが太陽からの熱い眼差しを遮ってくれているおかげで、森の中はひんやりとした空気で満たされていた。
それからまたしばらく歩いた。足がじんわりと痛くなってきた頃、急にお母さんが立ち止まった。
「ほら、着いたわよ」
お母さんは私の背と同じぐらいの茂みの奥を見ながら言った。私とアルミラは背伸びしてお母さんの視線を追ったけど、やっぱり茂みが邪魔してよく見えない。
「二人ともはぐれないようにね」
私たちはお母さんの服を掴むと、茂みの中へ突撃した。すると茂みはそんなに深くなかったようで、すぐに視界が開けた。
「どう、二人とも。驚いた?」
お母さんはとっておきの秘密を明かすように口を弧にして微笑んだ。
私たちは目の前の光景に圧倒されて言葉を失っていた。それも無理のないことだったと思う。だって、だって。今までずっと、村の中でしか遊んでこなかったから。こんなに綺麗で素敵な場所があるなんて、知らなかったから。
私たちの目の前には、空を鏡のように映した大きな湖と、それを取り囲むように咲き誇る色鮮やかなたくさんの花、生命力にあふれた瑞々しい新緑の短い葉の海が降り注ぐ太陽の光を一身に受けパチパチと輝いていた。その中を白い羽をした蝶が自由気ままにひらひらと散歩している。私は足の痛みも忘れて蝶を追いかけるように駆け出した。
「ほら!アルミラも行こう!」
「うん!…って待ってよお姉ちゃん!」
はしゃぎすぎて転ばないようにね。と背中からお母さんの声が聞こえてくる。私は大丈夫だよ!と返事をしながら緑の海へ頭から飛び込んだ。
湖を覗き込むと小魚が水底を漂っていた。突然現れた私の影に驚き、物凄い速さで逃げていく。小さい身体のどこにそんな力があるんだろう。私は逃げていった小魚を目で追いながらそんなことを考えた。視線を足元に戻すと、今度は波打って歪む私と目が合った。透明な水の中にいる私の頭には、緑の葉がでたらめにくっついていて、そんな有様に水の中の私はケラケラと笑うのだった。
「ステラ!アルミラ!そろそろお昼にしましょう!」
声のした方を向くと、いつの間にかお母さんが湖の近くにポツンと生えている木の影に敷物を敷いてお昼の準備をしていた。はーい、という私とその近くで寝そべっていたアルミラの声が辺りに響き渡った。
お母さんの元へ行くと、私たちの分の紙皿がお弁当を囲うように用意されていた。私たちはお母さんを挟むように座ると、三人でいただきますと声を揃えサンドイッチに手を伸ばした。
私が手にしたのはお母さんが作ったハムサンドだった。二つの四角いパンの間では、新鮮なレタスと少し厚切りにされたハムが私を食べて!とこちらを見ていた。私は誘われるがままに勢いよく齧り付いた。シャキシャキとしたレタスの食感と、厚切りなのに嚙むたびにプリッと簡単にほぐれるハム。パンの裏にはマヨネーズが少しと薄くスライスされたチーズが隠れていて、ちょうど良い酸味が疲れた身体に染み渡るようだった。
一つ目のサンドイッチを食べ終えた私は、足をだらっと投げ出しながら水筒に入っていた水を紙コップに注いで一息ついていた。お母さんの方に首だけ回すと、ちょうど私とアルミラで作ったサンドイッチに手を伸ばしていた。アルミラも気付いたようで、私たちはお互い顔を見合わせながら息を吞んだ。いよいよお母さんに私たちの特訓の成果を見せるときが来たのだ。今までだってベッドで寝ているお母さんに手料理を持っていくことはあったけど、おかゆとかの病人食だったから、ちゃんとした手料理を食べてもらうのはこれが初めてだった。
私たちが作ったのは王道のたまごサンドだ。ゆでたまごを潰し、塩、胡椒、マヨネーズと一緒に混ぜたものを、マスタードが塗られたパンに挟んだシンプルなものだ。本当はマスタードは苦手だから入れたくなかったけど、お母さんに美味しく食べてもらいたかったから入れた。以前シスターに教えてもらったときに、マスタードがあった方がいいアクセントになって飽きないのよ。と言っていたからだった。最後にパンを中の具ごと切るとき、少しだけ形が歪んでしまったけど、味には何の問題もないはずだからよしとする。
お母さんは私たちの緊張を知ってか知らずか、あーんと意味ありげに焦らすと、パンの端っこを薄い唇で挟み込んだ。
「…うん。とっても美味しいわ!」
「「ほんと!?」」
私たちの声が重なる。
「ええ、もちろん。二人とも一生懸命練習したのね。お母さんびっくりしちゃった」
私の心は羽が生えたかのように舞い上がった。どくどくと鼓動が速くなり、辺りを全力で駆け回りたくなったけど必死に我慢した。代わりに私たちは勢いよくお母さんに顔を埋めて抱き着いた。お母さんは名前も知らない甘い花の香りがした。
「お母さん、…大好き」
ぎゅっと、抱き着く腕に少しだけ力を込めると、一緒に抱き着いていたアルミラの手と触れた。私はそのままアルミラの手を組むように握った。
「あらあら、どうしたの。…甘えん坊なんだから」
私たちの頭上から聞こえてくるお母さんの声は嬉しそうで、だけどほんの少しの寂しさが混じっているような気がした。ぽつりと温かい雫が私たちの手に落ちた。私は、私たちは埋めていた頭を持ち上げる。
「…どうして泣いてるの?」
アルミラは不安げな碧い瞳で見上げている。
「なんでもないわ。あんまりにも幸せだから、つい、ね」
お母さんは白くて細い指で目元を拭った。
「ほら、早く食べましょう!お母さんお腹空いちゃった」
何かを振り切るように明るく話すお母さんの手には、食べかけのたまごサンド持たれたままだった。
私はまだお弁当に残っていたお手製のたまごサンドを手に取る。口の中に広がるマスタードの味が気になって、あまり美味しくなかった。