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私はアルミラの手を引っ張り、クォーツを目指して村の外をとぼとぼと歩いていた。家を出てきたときと比べて、辺りはすっかり暗くなってしまっている。
「ローズさんたち、心配してるかな…」
後ろを歩いているアルミラは何も答えなかった。
日が沈みかけていたあの時にガーネットちゃんに聞かれたこと。それは胸の奥底に無理やり押し込み見ないふりをしていた、お母さんともう二度と会えないというどうしようもない現実をあっけなく引き出してしまった。
逃げるようにベルお姉ちゃんとガーネットちゃんと別れた後、私たちは二人が見えなくなるまで走り続けた。胸の痛みに耐えられなくなったころ、私たちは道の真ん中でへたり込んだ。それでも繋いでいたアルミラの手は離さなかった。
「ねぇ、アル、ミラ。…私、もう一度、三人で暮らしたい、よ」
息を整えながら首だけアルミラに向け、唇を開く。全身に汗が噴き出し、身体に服が張り付いてきて気持ち悪い。
「ぼ、僕だって…そう、思ってるよ」
アルミラも汗だくになりながら必死に息を整えていた。
しばらくお互いの息遣いだけが響いた。息も整い汗も引いてきた頃、私たちは震える足で無理やり立ち上がり、お互い同じ碧眼を覗き込む。そこにはかつて私たちの頭を優しくなでてくれたお母さんの姿があった。
「――アルミラ。私、またあの場所に行きたい」
「…うん、行こう。僕も行きたいから…」
それから私たちは買い物袋を家のリビングに置くと、ローズさんたちに黙って村を出た。空を見上げると、欠けた月がこちらを見下ろしていた。
これから向かうのはお母さんとアルミラと私で行った思い出の場所。私はあの場所の、そして"家族"との短かった日々をくすんでしまった銀のロケットペンダントに映し出した。
「おかーさーん!今日のおやつ、なーにー?」
私はリビングの横長でふかふかのソファーの背もたれに手をつき、お母さんとアルミラとお揃いの銀髪をピョンピョンと上下に揺らした。私の肩程まで伸びた髪は、お母さんとお揃いにするべく絶賛伸ばしている最中だった。期待に頬を緩めてソファーで跳ねている私の隣には、昼寝をしているアルミラが揺れで落っこちそうになっている。
「ふふっ、なんでしょう。できてからのお楽しみね」
「えー」
もうすぐだからからね。そう台所でお母さんが背中越しに楽しげな声を響かせた。慣れた手つきでおかし作りに専念しているその手は、陶磁器のように白く、やや骨ばっていた。私はぷくっとほっぺを膨らませるとソファーに飛び降りるように座り直し、開いた窓から家の庭を眺める。柔らかな陽射しを受け止め爛々と輝く若緑の葉が、気持ちよさそうに背伸びしていた。窓から流れ込む風にはお日様の香りと原っぱで寝ころんだときの草の匂いが入り混じっている。私は膨らましていたほっぺを萎ませ、めいっぱい春を吸い込んだ。
「いでっ!…ふわぁ。ん、甘くていい匂い」
「なにやってんのアルミラ」
私が春を満喫していると、隣でゴンッと鈍い音がした。見るとアルミラがソファーから仰向けにずり落ちて頭を床にぶつけていた。寝ぼけ眼を擦りながらのそのそと起き上がる。アルミラの言う通り、いつの間にか春の中にはお母さんの作るおかしの甘い匂いが混じっていた。この匂いは…!
「いちごのパイだぁ!」
「ホントだ。やったっ」
「あら、もう分かっちゃったの?それじゃあ、おやつの時間にしましょうか」
目を細めて微笑むお母さんは、両手にやっぱりいちごのパイが載った白いお皿を持っていた。そのお皿はお母さんのお気に入りで、お皿の縁にはお母さんが好きだというお花が小さく描かれていた。でもお花に詳しくない私には何のお花なのかさっぱりわかんなかった。
私とアルミラはお母さんの作るいちごのパイが大好物だった。アルミラもさっきまでぼんやりしてたのに、いちごのパイと聞いていつ間にかリビングのテーブルの椅子に背筋を伸ばして座っていた。私も窓際のいつも座ってる椅子までドタドタと音を立てながら走り首を長くする。こらこら走らないの。と困ったように笑うお母さんは、椅子に座って目を輝かせている私たちの前に三角のイチゴのパイが載ったお皿を置いた。お母さんの作るいちごのパイは、焼かれたパイの上に生クリームと切ったいちごをそのまま載せたシンプルなものだ。
私とアルミラはお皿に乗ったフォークを手にし、一度目を見合わせた。
「「いただきまーす!」」
そう声を重ねると、私は三角形のパイの山頂をいちごと一緒にフォークでおっきく切り落とし、口いっぱいに頬張った。ちらりと反対側に座っているアルミラを見ると、アルミラはフォークでのっかってるいちごを一個食べると、今度はその下にある生クリームとパイを食べていた。私はリスのようにほっぺに詰め込んだパイを小さくしながら、双子なのに全然似てないなぁ。などとどうでもいいことを考えていた。
「どう、美味しい?」
そんな私たちにお母さんが優しい声で聞いてくる。私たちは口の中にあったパイをゴクンと飲み込んだ。
「「おいしい!!」」
私たちの声は再びピタリと重なった。似てないけど息はぴったりだなぁ。なんて思った。お母さんは満足げに「そう、よかったわ」と薄い唇を開くと優しく微笑んだ。
「まったく、あなたたちは本っ当に可愛いわね」
美味しさのあまり、にやけそうになる顔を必死で抑えながら食べていると、不意にお母さんの手が私とアルミラの頭を撫でた。
「ステラは私に似て真っすぐな髪ねぇ。アルミラはお父さんの癖っ毛にそっくり」
「どうしたの、急に」
「ん…」
私はお母さんに撫でられるのが好きだ。温かい手に触れてると、よくわかんないけど心がぽかぽかして安心する。アルミラもお母さんに撫でられて心なしかいつもよりほっぺが赤くなってて嬉しそうだ。
アルミラの癖っ毛はお父さんにそっくりらしいけど、お父さんは私たちが生まれる前に死んじゃったからどれくらい似ているのかよく分からない。ただアルミラを見るお母さんの星空のような碧い目は、どこか遠いところを見ているようだった。
我が家では私たち姉弟が当番制でお手伝いをしている。お母さん一人で家のことを全部やるのは大変だし、買い出しなんかも大きな買い物袋を二人で持って市場まで行っていた。最初、まだ舌っ足らずな私たちを二人だけで買い出しに行かせることに、お母さんはひどく心配した様子で反対していた。けど私たちは頑なに、お母さんは休んでて!と譲らなかった。というのもお母さんは身体が弱く、家で休んでいて欲しかったからだ。
お母さんの身体の弱さは生まれつきだそうだ。よく家にやってくる医者がそう言っていた。私たちを産んでからどんどんと体力が落ちているらしかった。だからかお母さんは一日のほとんどを家で過ごしている。家でできる細やかなお仕事や、料理、元気がある時は庭のお手入れをしている。といっても気持ちよさそうに伸びている葉を見るに、あまりちゃんとはお手入れしていないようだけど
今日は私が洗濯物の当番だった。三人分の洗濯物が詰まった籠を両手で抱えて裏口から庭に出る。草の生えてない石畳に籠を置くと、庭の隅っこにある物置小屋から物干し竿を引きずってくる。自分の身長より高いし重いで持ってくるだけでとても疲れる。いつも洗濯物を干している場所から物置小屋までの道のりにはたくさんの溝ができていた。
「よぉーし、洗濯終わり!」
三人分の洗濯物を干し終えるのにそんなに時間はかからない。空を見上げると、ちょうど真上で太陽が燃え盛っていてた。家でお母さんがお昼ご飯の準備をして待っているはずだ。早く家に戻ろうと軽くなった洗濯籠をひょいと持ち上げる。
――パリン、と唐突に固い何かが割れた音が鳴り響いてきた。音のした方向から、家の中で何かが、いやお母さんに何かあったのだとすぐにわかった。私は持っていた洗濯籠を家のひさしの下に勢いよく転がすと、石畳の上を駆け家の裏口を目指す。春だというのにやけにジリジリとした日差しが、私に嫌な汗を滲ませた。
「お母さん大丈夫!?」
私は家に入るなり大声を上げた。返事はなく、グツグツと食材の煮え立つ音だけが野次馬のように騒いでいた。私は台所まで震える足で駆け出した。途中足がもつれて転びそうになるのをすんでのところで持ち堪え、なんとか辿り着く。
「――ねぇ、お母さん!どうしたの!?」
お母さんは台所の床に私の憧れの銀髪を広げ倒れていた。辺りには料理に使われるはずだった食材がまな板からこぼれ落ち散らかっていた。私はお母さんの側に跪き声をかける。お母さんからは何の反応もない。顔を覗き込むと、額には脂汗が滲んでいて、その表情は苦しそうに歪められていた。どうしよう、何とかしないと。なんとか頭を働かせようとするが、焦りばかりが先に立ち、どんどんと頭の中が真っ白になっていく。火にかけられっぱなしの食材たちがそんな私を見て笑っていた。
「ただいまー。あぁ外暑かったぁ」
玄関から聞こえてきたアルミラの呑気な声に私は我に返った。
「…おかーさん?足りなくなってたの買ってき…っ」
台所の惨状を見たアルミラが声を失う。
「アルミラ!私今からお医者さん呼んでくるからお母さんのこと見てて!」
「…う、うん!分かった!」
アルミラは私より察しがいいから助かる。私は村の診療所に向かおうと立ち上がる。
「っ!痛ぁ…」
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「うん、大丈夫…」
立ち上がろうと床に手をついたとき、右手に刺すような痛みが走った。手のひらを見ると切り傷が横一直線にできていて血が滲んでいた。手をついた床には白い食器の破片が散らばっていた。焦っていて気づかなかったけど、家から響いてきた音はこの食器が割れた音だったみたいだ。とにかく今はお医者さんを呼ばないと。私は手を丸めて傷を隠し走り出す。ふと視界の隅に見えた破片には小さくお花の絵が描かれていた。