ティラミスの味
その家は、僕の中でちょっとした名物だった。いつもはよくある普通の家だが、年末が近づくと大きく様変わりして、夜の闇に落ちた街の中で煌々と輝くのだ。
僕が学校に行くときは必ずその家の前を通る。錆びたガードレールが左右にある急勾配の坂道を降りていくと、大きな交差点に出る手前のカーブの途中に建っていた。
水路に面した場所でフェンスと石塀に囲まれたその家は、すごく古臭く見えた。くすんだ赤色のトタン屋根に、雨風で汚れた白い壁。玄関手前にはごく小さな和風の庭と、屋根だけの簡素な駐車場があった。
その家が変わり始めるのは、毎年十月の終わり頃だった。車の出入り以外で人の気配を感じないその家に、クリスマスの飾りが次々と取り付けられる。屋根にはサンタが現れて、フェンスには大粒の雪の結晶が降り注ぐのだ。
夜になると、それが一斉に光りだす。白、赤、緑。鮮やかな人工の光が、家をかたどって昏い街に浮き上がるのだ。
僕の住む地域はやや寂れていて、夜の明かりはチリチリと明滅する消えかけの街灯以外にない。
そんな場所だから、あの古めかしい家は冬になるとまるで別世界のように目立っていた。
十年以上昔のある冬の日、外は雪が降り積もっていた。その日は土曜日で学校も休み。当時の僕は気軽に遊びに行ける場所がなかった。だからいつも、家の前で雪だるまを作ったり、家の中でゲームをしたりして遊んでいた。
昼ごはんを食べたあと、リビングのテレビを使ってレースゲームをしていると、母に呼び出された。
「買い物に行くからついてきて」
「えー、やだ」
「わがまま言わないの。ついてきたらアイス買ってあげるから」
「本当?」
僕はすぐにゲームを中断して、上着をとって外に出た。空は雲で覆われ薄暗く、地面に積もった雪には足跡が一つ。家の前にある駐車場には、つい数時間前まで車があった跡を残していた。
母の車の後部座席に乗った。まだ買い替えて間もない車のシートは冷たく、固い。窓の外をぼうっと眺めて母を待つこと五分、いつも持ち歩いている黒い大きなバッグを持って玄関から出てきた。
運転席に座った母に、今日はどこへ向かうのを聞いた。スーパーとケーキ屋さん、という答えを聞いて、僕はちゃんとアイスが食べられると確信し、足を揺らした。
「ちゃんとお利口についてきてね」
「わかってるよ」
母の小言にむくれ、僕は結露した窓に顔を描いた。笑い顔に、怒り顔。五つほどかいたところで叱られて、手を止めた。
エンジンがかかると、ビートルズが大音量で再生された。母の趣味だが、何度も聞いているうちに自分も好きになっていた。
坂を降り切るまで、一台の車ともすれ違わなかった。この地域に僕たち以外の人が住んでいるのだろうか、と思った。通学やイベントのとき以外、人とすれ違うことはほとんどない。
あの家の前を通った。昨日まではなかった飾り付けが、いつの間にか仕上がっていた。ここに住む人はいつ取り付けているのだろう。
曇天の下で、その家はただの民家の一つに見えた。どこにでもあるような見た目で、光っていないから目立つこともない。僕はカーブを曲がって見えなくなるまで、その家の方に目を向けつづけた。
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
「あのキラキラするの、買って」
「ダメよ。毎年見れるんだからアレで我慢しなさい。それに、窓に貼り付ける飾りもあるでしょ」
「やだ、あれがいい」
「わがまま言ってると、アイスなしにするよ」
僕は母の言葉に勝てない。アイスは僕の大好物だから、キラキラ光る飾り付けよりも大事だった。僕が口をつぐんで横に寝転がろうとすると、シートベルトに体を引き上げられる。母にそれが見つかって、いけませんと叱られた。
スーパーに着くまで、二十分ぐらい車に乗っていた。坂を降りてからは車がすれ違うようになって、建物の数も増えた。
新しく開発を始めた住宅地の真ん中を通ってスーパーの一階駐車場に入ると、道路のアスファルトが綺麗な黒からあせた灰色に変わった。
僕はスーパーに入ってから、ほとんどずっと母の後ろについていた。お菓子とおもちゃのコーナーが見たいと言うとただ一言「ダメ」と言われて、こっそりジュースをカゴに入れるとすぐに戻されてしまった。
野菜と肉と冷凍食品でいっぱいになったカゴを持ってレジに向かった。袋を二つに分けて、軽い方を持たされた。床に引きずらないように高く持つと、前が見えなくて大変だった。
「一回おいてからアイスを食べに行こうか」
母が言った。僕は小走りに車に向かって、荷台のドアを半開きに中へ袋を放り込んだ。指先が少しだけ痛い。見ればかすかに赤くなっているようだった。母は半開きのままのドアを押し上げて、僕が置いたのを端に寄せて丁寧に置いた。
僕は母がドアを閉めるのを見る前に、スーパーへ走って戻った。一階のレジの前を駆け抜けて、二階へ続くエスカレーターを駆けあがると、ちょうどすれ違った警備員に注意された。
二階にはゲームセンターがあって、クレーンゲームやメダルゲームの騒がしい音声が遠くからでも聞こえる。
僕はアイス屋さんに向かう前にゲームセンターの景品を見て回った。大抵はぬいぐるみやフィギュアで、たまに文房具やお菓子があった。
「ゲームはやらないからね。ほら、アイス買うんでしょう?」
追いついた母の声が聞こえた。僕は好きなアニメのキャラクターがぬいぐるみの景品になっているゲームに張り付いていたが、すぐに引き剥がされてしまった。
「お母さん、あれやりたい」
「ダメ。とれないとすぐ怒るんだもん」
「怒らないから」
「嘘。いつもそう言って結局怒るじゃない」
「本当に怒らないよ。ぜったい」
しばらく駄々をこねて、結局数回だけやらせてもらえた。僕がボタンを押すと、気の抜けた音楽と共にアームがガタガタがと動く。毎回ぬいぐるみの真ん中を捉えたはずなのに、景品はびくともしなかった。
意地悪なゲームを睨みつけて、僕はアイス屋さんに向かった。お客さんは僕たちだけ。チョコレートとチョコチップのスモールダブルを頼むと、すぐに出てきた。
雪だるまやサンタさんの絵が描かれた、かわいいカップだった。
「お会計が五百九十円になります」
店員の声を聞き流して、近くの席に座った。一緒にもらったスプーンで一口すくう。ここのアイスはいつ食べても美味しい。母の会計が終わった頃には、一つめのアイスが無くなってしまった。
まもなく二つ目も食べ終わり、スプーンをゴミ箱に捨てる。カップも捨てないといけなかったが、手放したくなくてずっとゴミ箱の前で立っていた。
「どうせもう使えないんだから捨てなさい」
「うう、なんで」
「なんでじゃないの。紙のカップなんか持ち帰ってどうするの」
「とっておくの」
母がため息をついて、僕の手にあったカップを取った。そして躊躇なくゴミ箱の中に放り込まれ、僕は叫んだ。
「なんで捨てるの」
「持って帰れないから」
母の顔が少しぼやけた。僕は母に涙声で抗議し続け、手を引かれて車まで戻った。あのカップがよかったのに、と何度も言っているうちに、どんな柄だったかを忘れてしまった。
空は少し暗くなって、道路を走る車はライトをつけ始めた。空の灰色に赤が混じり、地面の白が灰色になる。歩道によけられた雪がライトを反射して、宝石のように輝いていた。
後ろに流れる景色を眺めて揺られているうちに、すっかり寝てしまっていた。起きたのは、車が坂を登り始めた時だった。
坂を登ってすぐ、道が左にカーブする。そこを抜けると、左手に目映いイルミネーションで覆われる家があった。昼間は隣の民家と同じように見えたその家は、このとき何よりも綺麗だった。
「ねえ、買ってよ」
あの光る飾りが欲しくて、母に言った。帰ってきた答えはやっぱり「ダメ」だった。僕は名残惜しくイルミネーションを眺めて、ため息をついた。捨てたカップの柄は、あんな感じだったなと考えながら。
ケーキ屋さんは坂を登った途中の傾斜が緩やかな場所にある。つい数ヶ月前にできたばかりのお店だが、その佇まいにはどこか年季があった。ドアは大木を切って作った独特な形で、開くと取付けられたベルが店主にお客さんの来店を知らせる。
「いらっしゃい」
白いコックコートを着た笑顔の男性がレジに立っていた。その手前にはガラスケースがあって、色とりどりのケーキが並ぶ。その中に、アイスのカップと似た柄のカップに入ったケーキがあった。
「僕、これがいい」
「本当に? チョコケーキもあるけど」
「これにする」
僕は迷いなくそれをえらんだ。手前に置かれたプレートには『ティラミス』と書かれていた。本当はチョコケーキのほうが食べたいけど、このカップは逃せない。
アイスのカップは紙だったけど、ティラミスのカップは陶器だった。受け取った紙箱を開けて、容器を指で突くとカンカンと音がした。これなら取っておける。僕はスキップしながら車に戻った。
家で食べたティラミスは、苦くて口に合わなかった。
その日から十年がたった。あの家の装飾は年を重ねるごとに増えて、いつの間にか元の屋根や壁が見えないほどになった。だが、輝きが増すにつれて僕自身も成長し、気がつけば冬の家に興味を示すことも無くなってしまった。
煌びやかな飾り付けに再び目を向けたのは、やはりある冬の日。そのとき僕は大学一年生だった。
髪が伸びて耳が隠れるようになってしまったのでいつも利用している理容店を訪ねたのだが、そこでバリカンをかけられているとき、ふと気づいた。
「あれ、この写真」
「ああ、それですか? 何年か前に日光に行ったときに撮ったんですよ。すごいなあって」
ひと昔のアメリカを思わせる内装の空間に飾られている、英字のポスターに混じってその写真があった。僕が通学するときにいつも見かける、あの家だ。夜の闇に輝くイルミネーションは、手ブレでほんの少しだけぼやけていた。
そういえば、最後にあの家を見て目を輝かせたのはいつだったろう。煌びやかな装飾で高揚していたのが、はるか昔のことに思えた。
「これ、電気代もバカにならないでしょうねえ、ははは」
「そうですねえ」
理容師さんの言葉に愛想笑いを返す。この冗談がわかってしまうのが、少し悲しかった。
髪を切った後に、アイスを買った。レギュラーダブルで、抹茶とチョコ。スマホで動画を見ながら食べた。食べ終わったらカップは捨てて、ゲームセンターの喧騒を聞き流しながらスーパーを出た。
冬の日の入りは早い。スーパーに来たときはまだ明るかったはずが、すでに薄暗くなっている。僕は車の運転席に乗り込みエンジンをかけた。
ライトが黒いアスファルトを照らして、陽気なロックンロールが流れ出す。アクセルを踏んで、二階駐車場からスロープで一階に降りた。
雪の量は少なかった。ここ数年、地面が白く染まることがほとんどない。足首まで埋まるような積雪ともなればほぼゼロだ。一度溶けて凍ると滑って危ないから、中途半端なこの積雪は嫌いだった。
暗い街道を走る。車の数が少なくなり、上り坂まできたころには周りに一台も居なくなっていた。車のスピードを落として、カーブを曲がった。そこに、僕の知る輝きはなかった。
カーステレオのボリュームをあげた。軽快なギターとしわがれた男性ボーカルが、吸い込まれそうなほどの静寂の中で唯一の音だった。僕はしばらく停車して暗闇を眺めていたが、息を吐いてアクセルを踏んだ。
何かが抜け落ちた気がしたが、それが心地よいのか心地悪いのかはわからなかった。
ケーキ屋はまだ営業していた。僕は砂利が敷き詰められた駐車場に停めて、店内に入る。店主は顔に皺を増やしていたが、声はむしろ若くなっていた。
「おお、いらっしゃい。久しぶりだね。今日は何にする?」
ガラスケースの端から、じっくりと眺めた。昔は苦手なものが多かったが、今見てみればなんてことはない。どれも美味しそうな彩りをしていた。
最近よく食べているイチゴのショートは売り切れだったが、それ以外の定番商品は一個か二個残っていた。
最終的に、ティラミスかチョコケーキの二択になった。五分ほど悩んで、ティラミスにした。ここのチョコケーキは少し多いから、夕食のあとに食べるには重たい。
ティラミスは量で言えばぴったりだった。
「まいどあり。元気でな」
「ありがとうございます、そちらこそお元気で」
店を出て、車に乗り込む。ルームライトをつけて箱の中を覗き込んだ。ティラミスの入った器は黒い陶器で、鍵入れに使えそうだなと思った。
ザ・フーの「My Generation」がテンション高く車内に響く。僕はびくりとして、ボリュームを少し下げた。
家に着いて母の手づくりの夕食を食べた。そのあとに食べたティラミスは、ほんのりとした苦みと心地よい甘みがあった。