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1stDay->唇奪って結婚するって約束したもん

 ――そこはとある神の国。


 外も中も豪華絢爛、貴族の中の貴族が住まう巨大な城のその先端は、雲を突き抜け、まるで権力を誇示するかのよう。

 ぷっくりと太ったその城の主は、心底嬉しそうにその伸びきった髭をいじり続ける。


「……5時間で頼むぞよ。ほっほ、余は楽しみにしてるぞよ」

「御意」

 “金髪の少女”は、主の前で膝をつく。少女は、この城の主に雇われているのだ。

「ゲーティアが来たら知らせるのであるぞよ? わかってるぞよ? 彼奴に消滅させられる前に奪うぞよ」

「仰せのままに」

 “金髪の少女”は、ただその命に従うのみ。何故ならば、それこそが“本当の主”から与えられた任務。

「ふぬぅ。あと10数分だぞよ? ぬかりなく、ぞよ」

 “金髪の少女”はその表情を変えずに、ゆっくりと頷いた。

 そう、少女はこれより“神の器”を生み出す――。



 ――そこはとある神の国。


 古びれた施設は誰にも知られず、追われる者はその身を養う。伏して数日首尾は上々、施設はただ隠者を覆うのみ。

 隠れ家の主は、眩いばかりの金色の髪をなびかせながら、淡々と準備を進める。そう、彼女もまた、“金髪の少女”なのであった。

「……10時間で頼むわ。いいもの作りなさいよ、ミリアル」

「お任せあれっ!」

 ミリアルと呼ばれた元気な女性は手を挙げて返事をする。“金髪の少女”よりも5歳程年上に見える女性だった。

「ゲーティアが来ても死守すること。でも、やばそうなら逃げること。わかった? あたしはしばらく戻ってこない。正念場よ」

「わかってますって!」

 口だけは達者なミリアル。“金髪の少女”は、そんなミリアルを疑わしげにじっと見つめるばかり。

「うーん、心配だわ。それにしても……あと10数分、さすがに緊張するわね」

 “金髪の少女”は、やるべきことに改めて集中する。

 そう、少女もまた、これより“神の器”を生み出す――。



 ――同刻。


 日本、関東。

 私立高校のプール程の大きさを持つ、歴史の深い市立公園。

 毎日公園を訪れる、“小さな公園の主”は、陣内朱里【じんないあかり】という名で呼ばれていた。

 まだ10歳の黒髪の女の子である陣内朱里は、髪型をツインテールにするのがお気に入り。真っ赤なリボンで、今日も2つに結んでいた陣内朱里は、鼻歌を歌いながら花で冠を作っていく。

 ――今日は、朱里にとって大切な日。

 そう、“大好きなお兄ちゃん”の誕生日なのだった。

「……あと3時間くらいしかないわ。早く、急いで作らないと」

 だからこそ、陣内朱里は花で冠を作る。“大好きなお兄ちゃん”が、いつものように犬の散歩で公園にやってくる前に。

「何をしているんだい?」

 そんな陣内朱里の周りを、突然マスクをした数名の男達が囲んだ。そのリーダーと思われる男が、下種な笑いを浮かべて陣内朱里に話しかけてくる。

「……なに? あんた達。朱里は忙しいの、ナンパならお断りよ」

「ククク、ませたお嬢さんだな。それ、あとどのくらいかかるんだい?」

 男は笑いながら、さらに尋ねる。その表情には余裕が見て取れるのだった。一方で、忙しい陣内朱里は、ただ苛立つばかり。

「なんなの? あと10分よ! いいから話しかけないで!」

 陣内朱里は、男達を無視して再び作業に戻ろうとした。10歳の少女は、その年齢の割に大人びており、度胸も据わっている。

「――さすが、いいとこの御令嬢さんだ」

 男達はにやにやと笑いながら、陣内朱里に手を伸ばす。そう、“陣内家”は、この地域では1番の大富豪――。

「――なにすんのよ!?」

 少女の叫び声は届かない。辺鄙な場所にあるこの公園。――目撃者は、ゼロだった。

 ――そうして、時は満ちた。

 陣内朱里は、この日人生の転機を迎える。


 2007年7月13日金曜日、13時28分――少女誘拐事件、発生。

 被害者は、陣内朱里。

 ――10歳。


 誘拐事件発生、同刻――。


 少年は、屋上で仰向けになっていた。

 クールな面構えで、どこか達観した雰囲気のあるその少年。大きな二重は瑞々しく透き通っている。ふわっとした黒髪は、肩にかからず、かといってツンツンしない程度のストレート。肌の色は白く、細身で小顔。女装をすればきっと似合うこと間違いなし。

 そんな少年が、そこにいた。

 しかし少年は今、不機嫌そのものなのだった。そこにいつもの笑顔もなければ、優しさもない。

 ――理由は、明白。

 有り得ない1日だったのだ。“今日という1日”が、少年にとっては思い出したくもない程に、有り得ない1日だったのである。

「いや、つか、ねーよ、マジありえねぇ!」

 少年は天高く足を伸ばし、その反動を活かして起き上がろうと試みた。

「ほっ……ってうわぁ!?」

 ……ほら、まただ。

 少年の不機嫌ポイント(FP)が3ポイントアップした。ただ起き上がろうとしただけなのに、何故か運悪く起き上がる地点にバナナの皮が放置されており、見事に滑って腰を強打。実に、見事。

「――ってなんでバナナがあんだよ! さっきなかっただろ! おい!」

 少年は、オモチャを買ってもらえなかった5歳児のように、足をバタつせる。しかし、バタつかせて喚く程に、その心は空虚。少年はもう、泣きたかった。

――そう、今日の少年は、ずっとこんな感じなのである。

 ザ・不幸。

「なんか悪いことしたっけか、俺……」

 少年は、自らの過去の悪行に思いを馳せる。しかし、そこまで思い当たることはない。授業を時々サボるとか、女の先生をちゃん付けで呼ぶ程度。

 ――実に、至極真っ当。

 普通の人生を歩んできた少年には、思い当たる悪行なんてないのだった。

 幼馴染がいて、悪友がいて……ああ、そうそう、命を狙ってくる天敵もいて。支えあい、時にぶつかりながらも、まぁなんだかんだで少年は幸せに暮らしてきた。少なくとも少年は、そう思っているのだ。

「……幸せだったからか! その反動が今、こうして!」

 なーんだ、そっかぁ、とばかりに、能天気な面構えで少年は立ち上がる。すると、ベチャっていう嫌な音が、少年の頭の上から聞こえてきたのだった。

 おそるおそる、少年はハンカチで頭を触ってみる。

 ――案の定、白かった。

「う、うわぁぁぁぁ! 今日3度目! ねぇーって! くそぉ、あの鳥! ……っと危ない」

 少年は、自分を攻撃してきたにっくき鳥類をひと目見ようと空を見上げようとしたが、寸前で思い留まった。

 さっきもこのパターンで、空を見上げた瞬間に2回目の爆撃を頂いたのだった。もちろん、顔面に。

 まさに、顔面蒼白だった。白い糞が顔面にべったり、という意味で。人生のトラウマランキングベスト3に入る勢いのS級不幸だった。

 故に、少年は空を見ない。同じ手はくわないのが、少年のモットーである。

「ふ、俺に恨みがある幽霊の仕業なのか、俺に嫉妬した誰かの呪いなのかわからんが……」

 少年はチラッと横目で、屋上の扉を確認する。――距離は15メートル程だった。

「この俺が、思い通りになると思うなよぉぉぉ!」

 言い終わらない内に、少年は扉に向かって全力ダッシュ。その動きは、実に軽快。

 ベチャベチャと後ろで嫌な音が聞こえるあたり、鳥共の糞爆撃を華麗に避けれているに違いない。少年の顔に、思わず笑みがこぼれる。そうして、その笑みがだんだん、勝利の高笑いへと変化していくのだった。

「うははははっ! はーっはははははあぶうぇぇぇ!?」

 大笑いの最中に、いきなり進んでいた方角とは逆方向に弾け飛ぶ少年。

 少年がドアに手をかけようとしたその瞬間、思いっきり反対側からドアが開け放たれたのであった。

「そんな……バカ、な」

 再び屋上に仰向けに倒れてしまった少年の顔面に。

 ベチャッ。

 などと、もはやお馴染みのソレが降ってきた。少年の顔面は、一面ホワイトプラン。これが雪合戦の雪だったらどんなに良かったことかと、少年は現実逃避する。

「おっ? ……ツカサ? えっ、お前……くっ、ははははっ!」

 扉の向こうにいた男――。

 花沢零次は、そんな面白い顔面をした少年を前にして、豪快に笑うのだった。

 ツンツンした金髪の短髪が、その長身と体格に映えている。

 こいつこそが、少年の悪友であった。その名は、花沢零次【はなざわれいじ】――。

 少年よりも細く鋭い二重の眼。長い手足。真っ赤なTシャツを着ており、ローリングストーンズのマークが入っていた。

 ……いい加減Yシャツを着ろよ、と少年は突っ込みたくなる。花沢零次は、制服を着るのがちょっとだけ得意ではない男だった。

「だはははっ! なんじゃそりゃあ! なぁんじゃそりゃ相棒――!」

 少年を指差し、零次は大声で笑う。少年からしてみれば、実に不快であり、不名誉。

「だまれ、零次……。くそっ」

 少年は顔を手のひらでで拭った。口の中に入ってはないが、なんだか嫌だったため、浄化目的でそのへんにせっせと、いや、ペッペと、ツバをはく。

 少年は、そうして立ち上がって、屋上を後にしようとした。

「おい、待てよ相棒! 一緒にサボ……」

「らない!」

 少年は、零次の手を振り払って階段を降りていく。振り払う際、少年は糞がついた手で零次にタッチを試みたが、あえなく失敗し、FPが3ポイント上昇。

 そんなわけで、顔面蒼白男、否、顔面漂白男とでもいうべき不幸な少年は、今廊下を歩いている。

 サボらないといったものの、まずは顔を洗わなくてはならない。

 少年は手身近なトイレに入り、顔と頭と手を洗うことにした。要は、白いの全部落とすぞコノヤロウなのだった。

 バッグから、朝購入したシャンプーと洗顔フォームを取り出す。

 まさか、1日で2回も使うことになるとは思わなかったなと、少年は不気味に笑いながら洗顔を始めた。

「ツーカーサっ!」

 一方零次は、トイレの外から少年の名前を叫んでいた。その度に、少年のイライラポイント(IP)が3ポイントずつ上昇していく。

 そうして、零次はそんな少年の様子を悟った。

「おいおい相棒! 怒るな怒るな、別にお前を笑いにきたんじゃねぇ」

「じゃあ何をしにきたんだ」

「聞いて驚くんじゃねぇぞ……笑いにきたんだ!」

「くたばれぇぇぇ!」

 零次は、少年をからかいにやってきただけだった。そう、零次は暇人なのである。

 FPとIPが累積100ポイントに達した少年は、零次に向かって水道水をぶちまけたが、あえなくかわされてしまう。

 零次の、その飛びぬけた運動能力を、つい疎ましく思う少年だった。

「うわっ、冗談だっつの、冗談!」

 そうして零次は少年に向けて指を差しながら、

「泣き面にハチなんぞ屁でもねぇ! 何故ならお前は絶対に泣かねぇからだ!」

 何故だか、今俺様良いこと言っちゃいましたエッヘンとばかりに、誇らしげなのだった。

 しかし零次のこのノリはいつものことなので、少年は相手にしない。

「で、どうしたんだ、朝も鳥の糞を食らってただろ、相棒よ」

 零次はトイレの外に腰掛け、そのまま少年に話しかける。

「おい、ツカサ、聞いてんのか」

「……朝から運が悪いんだ。やたら、な」

 少年は顔を洗い終わってから、テンション低めに返事をした。





 続いて、シャンプーで頭を洗い始める少年。そんな少年に向かって、零次は疑問を簡潔に投げかける。

「例えば?」

 実に簡潔だった。少年は、律儀にその質問に答える。

「目覚ましを押そうと思ったら、何故か母さん愛用のサボテンが目覚ましの位置にあったり」

「……」

「朝食をとるために2階から1階へ降りようとしたら、何故か途中にバナナの皮があったり」

「……バナナ?」

「朝食をとったらとったで、朝から俺の牛乳だけあんまりよくないものだったみたいで、腹下して遅刻する始末」

「……」

「で、遅刻してダッシュで登校したら鳥の糞をくらい、上を見上げたら、さらに顔面にもう一発頂いた」

「ま、まじかよ。さっきだけじゃなかったんだな……」

「そしてそれを、愛してやまない薬局のお姉さんに見られたんだ……!」

「それはどうでもいい」

「……。まぁ、そんなこんなで学校についたが、机がなくなっていた」

「なんだって!?」

「見てないのか?」

「いや、俺様、今来たばっかで教室はまだ入ってねぇ! なんせ――」

 零次は威張りながら、

「たとえ早起きで三文得したところで、午後の紅茶は全然おいしくならねぇからな!」

 また難解なことを言っていた。

 少年は思う。零次よ、お前はコーラしか飲まないじゃないか……と。

 花沢零次という男は、自身を反逆のカリスマだと思い込んでいるのだった。

 もっとも、諺を一生懸命覚えて、それを皮肉ろうとするあたり、カリスマなのかどうかはツカサ的には疑問。

 少年は零次の言葉をスルーしながら、

「……ま。つまりな、机がなかったんだよ。ちなみに椅子はあった。で、なんかもう面倒でさ」

 一応、話を戻すのだった。

「ほう、それで屋上にいった、と……」

 零次は何故か探偵気取りで、声を低くしながら顎に手を置いた。

「ああ、そしたらまたこのザマだ。屋上でもバナナに滑らされ、糞も落とされ、お前にドアをぶつけられ……そうだよ、お前よくも!」

 少年は、トイレの外を睨んだ。よくよく考えれば、今のこの惨状は、花沢零次のせいでもあるのだ。

「気にするな相棒! 大人の男は構えて座るものだ! しかし、それはアレだな。呪いなんじゃねぇか? もしくは、霊にとりつかれたか」

 零次は巧みに話題を変える。

「……お前も、そう思うか。だが、俺はやはりそんな非科学的なことは信じない」

 無神論者である少年は、静かで落ち着いた口調に戻した。

 シャンプーは終了。トイレットペーパーで、髪を拭き始める。

「いるんじゃねぇか、幽霊。いや、きっと幽霊の仕業だ! いた方が夢があんだろ! そう、ロマンが!」

「残念だが、俺は幽霊にロマンは感じないぞ零次」

「誕生日だっつーのに、霊からとんだプレゼントだな! 

はーっはははは!」

「笑えねぇ……」



 実に笑えない、と少年は思った。

 そういえば確かに、今日は少年の誕生日である。自分の誕生日を忘れるなんてどうかとは思うが、少年は、そんな男なのだった。

「そういや相棒、最後に心霊スポットにいったのって……去年のこの時期じゃなかったか?」

 零次はトイレに入ってきて、鏡越しに変顔で少年を見つめながらそう言った。少年は、そのタコのようなブタのような零次の顔に噴出しそうになる。

 零次はさらに、

「幽霊の呪いだぜ……それ」

 思わず、少年は振り向く。

「仮にその呪いだったとして、何故俺なんだよ! むしろお前だろ、誤って墓石倒した外道は!」

 そう、少年は忘れない。零次がつい誤って、竜巻旋風脚を放ったことを。そしてそれが、偶然にも相当脆かった墓石に命中し、大変なことになったということを。

「そんなことは関係ねぇ! 何故なら俺は!」

「いや、いい、聞きたくない」

 少年は耳を塞ぐ。どうせ、「俺様は花より団子より肉が大好きなんだピョン!」みたいな、くだらない諺モドキが並ぶに違いない。

 零次は少年に言葉を遮られ、不服そうな顔で、

「なら、あれだ。ツカサ、お前モテるだろ。だから、目立ってオカルト部の奴らに……」

「お前の方がモテるだろ! しかもモノマネしまくってオカルト部に恨まれてたのはお前だ!」

「その通りだ! 俺様はモテる!」

 ああ、わざとやってやがるな。……少年は、そう直感した。もはや、零次の暇つぶしに付き合ってはいられない。

「……わかったぞ相棒。お前、きっと、悪いことをしすぎたせいで神様が……」

「だからそれはお前だ零次! この、ハゲちゃびん!」

「ほう。ハゲちゃびん、とは私のことかね……?」

 ――その声の主は、零次ではなかった。

 そう――。いきなり、聞いたことのある、おっさんの声が聞こえたのだった。


 ――終わった。


 2人はそう直感する。作り笑顔のまま、おそるおそる声の方を振り向く少年と零次。


 ――ああ、やっぱり。


 鬼教師、瀬戸川優美【せとがわゆうび】がそこにいた。ちなみに、男である。

 まったく優美には見えない汗臭い30代のおっさんが、そこに立っていた。

「椎名ツカサ、花沢零次。お前達に……1つ言っておきたい」

「は、はい、瀬戸川先生」

「……どぅわぁぁぁれが、ハゲちゃびんじゃぁぁぁぁぁぁ!! これはなぁ!! これは!!」

 そう叫びながら、瀬戸川は2人をそれぞれ脇にはさんで持ち上げる。

「うわぁぁぁ!?」

「これはおでこじゃああああああ!!」

 2人を抱えたまま、廊下を走り出す瀬戸川。

「!?」

 ――あれっ、2人じゃ……ない!?

 少年は驚愕する。零次がいつのまにかすっぽりと脇から抜けて、視界から消えているのだった。

「くらええええええい!!」

「なんで、俺だけぇぇぇぇ!?」

 瀬戸川は少年を抱えたままヘッドスライディングを始めた。くねくねとした、無駄の多く暑苦しいその動きは、なんとも形容し難い。

 いつの間にか瀬戸川は、そのまま少年のマウントポジションをとっていた。

「花沢は逃がしたか。まぁいい、椎名よ。お前だけでも食らうがよい。今の運動により生じた……我が汗を浴びるがよい――!」

 瀬戸川は鼻息を荒くする。そしてその汗が、1滴1滴と、じっくりしっとり、なおかつ微妙に多めに少年に降り注ぐのだった。

 少年は汗をかくことが嫌いだ。無論、かけられることはもっと嫌いだった。というか、おっさんの滴る汗(とても生暖かい)なんぞ貰った日には、死にたくなるに決まっていた。

「死ぬぅぅぅぅぅ! た、助けてぇぇぇぇぇ!! 嫌ぁぁぁぁ! お嫁にいけないぃぃぃ!」

 少年が絶叫する中、廊下の端の方で、爽やかな笑顔で手を振っている男がいた。

 花沢零次である。

「相棒……。男として親友として、俺様はお前が強く生きることを望む……! そう! それはこの零次様からの、誕生日プレゼントだぜ、相棒――!」

 零次はそう言い残し、満面の笑みで、去っていった。そこに友情という言葉はあるのだろうか。少年はそんな哲学に浸る。

 目を瞑って、少年は現実逃避をする。これは夢だ。今日1日が全部夢なのだ。そうに違いない。

 そうして、少年は目を開けた。

 ……瀬戸川のおっさんが視界に広がっていた。

「お、俺が何をしたって言うんだぁぁぁぁぁ!!」

 八潮南高校名物、“優しく美しい水”――。

 ……今日の自分は不幸である。

 少年は、ハッキリと、そう自覚した――。



「散々な目にあった……」

 少年は、本日何度目か分からないため息をついた。

 ようやく学校が終わってくれたものの、なんだかこれからが本番であるような気がしてくる。

 本番とはもちろん、“不幸の本番”のことだ。

「しかし、いい加減俺も慣れたぜ……」

 空は晴れているのに、現在少年は傘を差していた。しかし、かと言ってそれは日傘でもないのだった。

 鳥の爆撃を逃れるための人間様の知恵。そう、文明の勝利である。1度不幸を自覚したからには、もう形振り構っていられない少年である。

「……今日は、いないな」

 ふと、公園の前で少年は足を止めた。

 いつもならば、この公園で小学4年生の女の子が1人で遊んでいるはずだった。なのに今日に限っては、その姿が見えない。ツカサは首を傾げる。

 実は、少年は犬の散歩で毎日のようにこの公園を訪れているのだ。バイトがあったりなかったりで時間はバラバラだったりもしたが、それでも大抵の場合はその女の子に遭遇する。――そうして出会って、かれこれ数年。いまや2人は大の仲良しと言っても相違はないのだった。

 その女の子は、少年を見かけるとすぐに、嬉しそうな顔でピョコピョコと近寄ってくる。そうして、決まって同じを言うのだ。

 “ツカサお兄ちゃん、ちょっと、朱里に付き合いなさいよ!”

 そのマセた言い方が、少年は好きだった。どうしても急用がある場合を除いて、少年はその女の子の誘いに乗ってあげていた。短い時間ながらもいつも遊んであげていたのだった。

 しかし少年は断じて、ロリコンではない。

 言い訳に聞こえるかもしれないが、いつも母の仕事が終わるのを公園で待っている女の子を、少年は不憫だと感じていたのだった。

 もちろん、それだけではないのだけれど。

「いないと寂しいもんだなぁ」

 おままごとの繰り返しにはいい加減うんざりの少年だったが、それでもないと寂しいと思う自分に、少年は少々驚いていた。

「俺って、本当はロリコンなのか?」

 断じてそんなことはない、と少年は自分に言い聞かせる。

 ――そんな時であった。

 少年の携帯電話が、ポケットの中で振動している。

『今日、秘密基地集合な!』

 それが、本文だった。送り主は、言わずもがな花沢零次である。

「はあ……こんな不幸な日には、パスしたいところだけどなぁ……」

 少年はパタンと、携帯電話を閉じる。そうして少しだけ考え、少年は再び携帯を開いた。

『了解、すぐ行く』

 どうせどこにいても不幸なのだ。それならばなるようになれ、と少年は考えた。

「あっ」

 ――突然の突風。不覚にも、少年の傘は飛ばされてしまうのだった。

「……あっ」

 ――ぽとり。なつかしの、間抜けな音。

 少年の頭上に、またしても例の物。無論、にっくき鳥類の仕業である。

 もう怒鳴り散らす気力もない。少年はもう、ただ泣きたかった。

「……なるようになれ、か」

 我ながらよくそんなことが言えたものだな、と少年は苦笑する。

 だんだんとその笑みは引きつってきていた。もはや少年はストレスでハゲる、いや、ハゲちゃびる寸前である。

「とりあえず秘密基地で頭を洗うとするか……」

 にっくき鳥類。コンビニでフライドチキンでも大量に買い込んでやろうか、と少年は邪悪な考えを巡らせながらも、まずは自身の清潔さを優先させることにした。

 ちなみに秘密基地とは、誰も使っていない古びた廃工場のことである。まだ少年が中学生だった頃、零次が発見した秘密の場所なのだった。

 零次と、少年と、加えて翠という少女。その3人は幼馴染で、小学校から高校まで、ずっと一緒だった。

 そして、廃工場はそんな3人の秘密の場所なのである。

 とは言っても、今はもっぱら零次と少年しか使っていない。翠は部活で忙しく、暇ではないのだから。

 ――ふと、突然、ポツポツと。

「げ……今度は雨かよ?」

 先程まで辛うじて晴れていたはずの空は、気付けば雨雲に覆われている。最初は小さくと、しかし次第に大降りへと変わっていく。

「おてんと様まで、俺の敵ですか――――!」

 少年は、傘を飛ばされたばかりなのだった。

 少年は廃工場まで走ることにした。距離はそこまででもないし、傘を飛ばされたことを嘆いても仕方がないからだ。

「……させない」

 ――突然。今まさに走ろうとする少年の前に、1人の少女が立ちはだかっていた。

「……げ」

 少年は物凄く嫌そうな顔。それもそのはずである。少年は、その少女のことをよ〜く知っているのだ。

 ――その名を、神埼茉莉【かんざきまつり】。

 しっとりと湿気を含んだ、サラサラで長い黒髪は、常に後ろの低い位置で結ばれている。きっちりと分けられたシチサンヘアーからおでこがちょこっと顔を出し、その黒の両眼はなんだか眠たそうな印象。背は150センチ程の小柄であり、見た目も体型も、ザ・ロリータといったところ。少年同様に制服を着たこの少女は、少年のクラスメイトであり、学級委員長だった。

 ただし、“普通”ではない。今みたいに誰もいない時に遭遇した場合、茉莉は大抵恐ろしい言葉を少年に投げかける。例えば、そう――。

「今日こそ、消えて貰う」

 そうそう、こんな言葉。

 少年は頭を掻いた。目の前の茉莉は、どう見ても“やる気”である。

 ――“天敵”。そう、少年は中学時代よりずっと、何故だか分からないが茉莉に狙われ続けている。中学卒業でようやく開放されるかと思いきや、高校まで一緒だった。茉莉はストーカーの如く、少年にしょっちゅう襲い掛かってくるのだった。

 しかし毎回、うまいことアクシデントが起こって茉莉は退散していくため、少年は狙われることに対して、特に思いつめた様子もないのだった。

 ただ、やはり面倒なことは避けたいと、少年は考える。

「今日はさすがに雨だし、つか人目につくかもだし、やめない? 茉莉」

「問答無用」

 天敵の少女――神崎茉莉は、少年の提案を拒否した。シャーペンを取り出し指の間に挟む。

 両手に構えたシャーペン。その数、8本。これも不幸の一部なのだろうか、と少年はため息をついて肩を落とした。

「攻撃開始」

 そんな少年の思いむなしく、少女は左手を大きく素早く振るう。シャーペンが高速で横に回転し、まるでドリルのように鋭く少年を襲う――!

「く――っ!」

 ――グサリ。グサリ。グサリ。グサリ。4本のシャーペンが、刺さっていた。

 ――少年の、カバンに。

 そう、少年はその軌道にカバンを合わせ、4つのシャーペンを全て防いでいた。シャーペンが、皮のカバンに見事に突き刺さっていた。

「おい、茉莉! 殺す気かよ! 俺じゃなかったら死んでるぞ!」

 少年は思わず叫んだ。そう、少年でなければ本当に血を流していたに違いない。

 なんせ少年は、動体視力がずば抜けて良かった。少年に天賦の才能があるとすれば、それは間違いなく、この動体視力。

 人間が投げたシャーペン程度ならば、その軌道を難なく、とまではいかなくとも、何となく程度には読める。

「……やはり、今日は何も起こらない」

 茉莉は無表情で、カバンに左手を入れる。

「……言われてみれば」

 茉莉に襲われると何らかのアクシデントが必ず発生していたはずだが、今日は何も起こらない――そんな事実に、今更ながら少年は気付いた。

 今まで働いていた“何か見えない力”が、まるでその役目を終えたかのような。「椎名くん、バイチャ!」みたいな。

 ――その場合、どうなるのだろうか?

 実は少年は、茉莉と2分以上もこうして対峙したことなんてなかった。だからこそ、ここから先は未知の領域――。

 身構える少年に、茉莉は言葉を投げかける。

「椎名ツカサは今日、16の誕生日を迎えた」

「……お誕生日おめでとう、ってか?」

 少年が、シャーペン大切にするね、と皮肉ろうとすると、

「制限時間は迫っている。もはや一刻の余地もない」

 それより早く、茉莉はカバンから、何か黒いものを取り出した。

 そうして、“それ”を少年へと向ける。――拳銃、だった。

「お、おい……何、洒落にならないもん持ってんだ、茉莉!」

 少年は後ずさる。理解が出来ない。認識が出来ない。

 銃? この平和な国日本で、銃? シャーペンとは訳が違う。それは銃刀法違反じゃないのか。犯罪だ、犯罪だぞ茉莉。撃つのか。冗談じゃないのか。撃つ――のか?茉莉は本気で、自分を殺すのだろうか? はぁ? そんなわけあるか。いや待て、それで本当に撃たれたらどうする。ここは日本だぞ? 有り得ない。有り得なくない。あの無表情は異常だ。いやそもそも、あの銃は本物か? いやいや自分のカバンに刺さったシャーペンを見てみろ。アイツはガチだ。モデルガンでした、というような冗談は言わないだろう。だが、しかし。いや、しかし。……ダメだ。冷静になれない。うまく息が、出来ない――!

「はっ、はぁ……はぁ……!」

 雨は、降り続ける。その冷たい雫のおかげか、少年は冷静さを少しずつ取り戻していく。

「言い残す言葉は?」

「くっ……!」

 ――そんなもの、あるわけがなかった。それよりも、考えなくてはならない。

 何とかする方法を――!

 少年は息を整え、弾丸をかわす――!

「く……はぁっ!」

 ほぼ同時に、爆竹の10倍はありそうな轟音。――すなわち、銃声。茉莉は雨なんてお構いなしである。

 少年は、その拳銃が本物であることを理解した。

 少年は気持ちを切り替える。事実は、たった1つだ。今自分は、学級委員長に殺されかけたのだということ。震える足を、思いっきり引っぱたく。

「外した……? 雨のせい……?」

 茉莉は少年を、あくまで無表情に睨みつける。

 少年は辺りを見回す。人通りの少ない獣道。近くには木々。雨が降っているせいか周りには誰もいない。銃声の音にも、誰も気付いている様子はない。

 ――木々に隠れよう。少年は大きめの木に向かってダイブを決める。すると今度は、チュンという間抜けな音が少年の耳に届いた。

 それは、2発目の銃声。――当たりはしなかった。

 しかし、少年は気付いた。1発目の大きな音は、気のせいだったのだ。実際のところ、銃声なんてほとんど聞こえてはいない。少年だって知識くらいはある。――あれは、音を絞るサイレンサーだ。

 ――助けは、こない。

 少年は考える。このままここに留まっていても無駄である。なんせ、木は少ししかない。近付かれたら終わりだ。

 ――殺される。茉莉は銃を撃っても表情を変えないし、反動も受けていない。そこには、非現実的な怖さがあった。

 少年は思う。そう、目の前にいる少女は、まるで――。

「プロの殺し屋……!」

 ――茉莉の姿が消えた。

 少年は、次の弾丸がすぐさま死角からとんでくることを確信し、一気にその場から離れた。一瞬前に居たであろう場所に、容赦なく弾丸が突き刺さる。

 ――この場を離れて、隠れながら一気に逃げ切るしかない。例えばそう、街中へ――。

 しかし、それを見透かすかのように、茉莉は先回りのルートを進む。

 ――ダメだ。茉莉が構える。そして、撃つ。少年はそれを転がってかわしながら、ルートを変更する。

 ――廃工場。及び、その周辺の森。今の茉莉との位置関係から見て、そこへ逃げ込むのがベストだと少年は考えた。そのルートなら、今すぐにでもまともな雑木林に入れる。そして、雑木林の先にある廃工場には武器があり、隠れることにも適している。場合によっては奥の森に身を潜めてもいいだろう。

「……」

 考えている暇はなかった。高鳴る鼓動なんて気にしてはいられなかった。雑木林に逃げ込み、そのまま一直線に廃工場を目指す。

 茉莉は銃を構えながら、少年を追った。

「当たらない……何故? 時は満ちたはず――」

 少年は、茉莉に構わず、木を利用しながらとにかく走る。

「着いた……!」

 ――なんとか、距離を離すことにも成功していた。雑木林で何度か零次と遊んだ経験が、功を奏したのだと、少年は安堵する。

 ――廃工場。裏手に回り、塗れた髪を一度かきあげてから、少年は急いでバットを拾った。

 ――これが、武器。少年が零次と野球をしていた時の、金属バットだった。何故だか、これがあれば弾丸を弾けるような気がしていたが、持ってみるとそれは不可能だとわかる。バットは、重すぎるのだ。これで防ぐくらいなら、避けた方がまだ可能性があると思った。

 しかし、それでも一応バットは所持。

「中に……入るか!」

 一か八かだった。廃工場に入れば、そう易々と逃げることは不可能。しかし同時に、少年はこの中の複雑な構造を知っていた。地の利を生かし、銃弾を使い切らせるか、あるいはうまくスキをついて廃工場を先に脱出し、茉莉を中に置いてけぼりにして、森に隠れてやり過ごすか。さらにあるいは――隙をついて背後から1撃。女を殴るのは少年のポリシーに反するが、そうも言っていられない。ひるませて銃を奪うだけだ、と自分に言い聞かせて、少年は急いで裏口の割られた窓から中へと侵入した。物音を立てないように、奥に隠れる。

「……おい。どういうことだよ、これ」

 一呼吸置いて、少年は気付いた。“先客”がいるのだ。それも普通ではない――。ヘルメットをかぶった複数の男達に、小さな女の子が縛られて囲まれているのだ。

 そうして、その縛られている子が誰なのか。少年は、気付いた。

「そんな、バカな、だってあれは――」

 少年は、声を抑えながら目を見開いた。叫びたい気持ちを抑えながら、“女の子”を再度凝視する。――間違いない。あれは、少年がいつも一緒に公園で遊んであげていた女の子――。

「…………朱里……」

 黒髪で。小さくて。いつも公園で1人ぼっちで少年を待っていた、ツインテールの女の子――。

 陣内朱里が――、

 ――誘拐されていた。




「落ち着け……冷静に、俺」

 少年は状況を整理する。様子からして、私怨でのリンチとかそういう類ではないだろう。仮にも小学生の女の子である。そして、その女の子は金持ちで有名な“椎名家”の御令嬢――。

 ――と、なれば。

「……やっぱ誘拐しか有り得ない、か」

 少年の心臓が高鳴る。助けないといけない。そう思った。まずは警察に、連絡をしなければ――。

 少年は、ポケットから携帯電話を取り出そうとする。……しかし、何もない。

「んなっ、ちょ、んなアホなっ」

 少年は動揺を隠し切れず、思わず大きな声を出しそうになってしまった。――先程の逃走劇で、落としてしまったに違いない。あまりの自分のドジさに、胃がキリキリと痛む少年だった。

「くそっ……どうする?」

 その時少年は、自分が通ってきた裏口の割れた窓ガラスから、茉莉が入ってくるのを目撃した。――ああ、最悪だ。前方には幼女誘拐犯の男。後方には銃刀法違反で殺人未遂の女。まだ見つかってないとはいえ、八方塞の状況の中に少年はいる。

 ――おちおちこうしてもいられない。少年がどちらかに見つかるのは、時間の問題だった。そして、どちらに見つかっても、おそらく少年の命はない。

 少年の中で、ある3文字がぐるぐると巡っていた。「や」と「ば」と「い」である。

 ――やばい。やばいやばいやばいやばいやばいやばい。

 ――だめだ。冷静になれ――椎名ツカサ。

少年は気持ちを落ち着かせようと必死になる。

 ――落ち着け。出口は1つ。窓も合わせれば2つ。この廃工場に、手の届く窓は裏口の窓だけだった。

 ――正面出口。おそらく、内側から鍵が閉められている。そして扉の周りに誘拐犯が2人立っている。手に持っているのはナイフだろうか? 遠くて確認することが出来ない。あそこを強行突破するのなら、刺されることが前提になりそうだ。

 ――自分が入ってきた窓。正面出口からは死角になっている。しかし、神崎茉莉が銃を持っている。隠れながら近付いてくるようだ。もうこちらから覗くことは出来そうにない。下手に動けば狙い撃ちにされるような距離だった。

 ――茉莉と誘拐犯が出くわしたらどうなる? 茉莉は、誘拐犯を撃つのか? それとも無視して自分を? 朱里が誘拐犯の盾代わりにされたとして、茉莉は銃を捨てるのか?

 いや、ダメだ。茉莉はもはやプロの殺し屋という設定で考えた方がいい。そんな気がする。下手したら皆殺しにするんじゃないだろうか。そう、朱里さえも――。

 ――少年は悟った。もうこの場を無傷で何とかすることは不可能だ、と。仮に自分が幸運にも無傷で生還したとして、朱里はどうなる。小さい女の子を見捨てて自分だけ生きて。それが一体、なんだっていうのか。

 少年は、頭の中でそれだけのことを一気に考えた。もう、時間もない。茉莉の魔の手は刻々と迫っているのだ。

 少年は自分に言い聞かせる。――必要なのは、覚悟を決めること。

「そうだ。それだけのことなんだ」

 少年は自分の運命を、悟った。汗をかくことだって、少年は本当は嫌いだった。

 しかし今の少年にとって、そんなものは動かない理由には成り得ない。そうして少年は、ロープに縛られて目と口をガムテープで隠されている朱里を見つめた。

「どうせ死ぬなら、せめて救ってみせるさ」

 少年はそう口にして、目を瞑って深呼吸をする。瞼の裏に、焼きついている光景があった。


 “ツカサぁ! 遅いわよ! お嫁さんを待たせるなんてどういうこと!?”

 “え……このリボンを朱里にくれるの? ……ありがとう、ツカサ、お兄ちゃん……”


 朱里の言葉を、少年は何度も味わう。それが少年に、勇気を与える。

 少年は、思うのだ。未来の明るい、この元気なチビっ子だけは、絶対に救ってあげたいと。

 はっきりいって、ガラじゃない。だけど、それでも、

「それが今の俺の――たったひとつの願いだ!」

 少年は、走った。

「うおおおおおお!」

 茉莉の存在を無視して、少年は誘拐犯一味の方へと向かう。ボールを抱えたラガーマンのように身を低くして、敵の死角から突撃する。不思議と、少年の足は震えずに動く。そう、覚悟なんてとっくに出来ている――。

 少年は1歩踏み込み、リーダー格と思われる、偉そうな男にバットの一撃をお見舞いした。

 右上から。左下へ。――射抜くように。

「ぐっ……はっ……!」

「!?」

 男は前の方へ倒れるが、少年は気にしない。驚く女の子――朱里を抱えて、少年はそのまま正面出口へと突っ走るのみだった。

 もはやそこに、作戦なんて存在していない――!

 ――突如、サイレンサーの音。

「……あっぶな……!」 

 しかし茉莉の射撃は、またしても少年の脇を反れる。

「……また、外した」

 少年は、その幸運をかみしめた。そうして、そのまま振り返らずに走り続ける。

「な、なんだコイツ!」

「銃だと!? そんなバカな!」

「くっ、ガキが二人!?」

「おっ、追え!」

 誘拐犯達が、少年を追ってくる。――背中を、捕まれた。しかし、少年は体をひねるようにして、それを振りほどく。

 ――いける。そう思った時だった。

「うわっ……っ!」

 前方入り口から走ってきた男に足をかけられ、少年は大げさに転んでしまった。ごろごろと、慣性に従って弾かれる。

 もうちょっと。あともうちょっとなのに!

「てめぇ――痛かった、ぞぉ!」 

 ……ぬちゃり。生々しい、嫌な、音。

 ――それは。

 ナイフが、少年の腰に突き刺さる音だった――。

「く、アァァアアアァ!」

 鮮烈かつ、強烈。今まで味わったことのない痛みが、少年を襲う。それが、刺されたからだと気付くのに、少年は数秒かかった。

「んーっ!? んーっ!?」

 朱里が、涙を溢しながら懸命に何かを言おうとしていた。そんなことは、知らない。少年の頭が真っ白になる。血がドクドクと。ドクドクと。ああ、そうか。よくないところを刺されちまったんだ。意識が、飛びそうになる。

 ああ、そうか。

 少年は――。自分の死を、悟った。

「……く、そ、がぁ!」

 しかし、少年は痛みをこらえる。ここで意識を絶つワケにはいかないのだった。涙が出るほど痛かったが、それでも、朱里の口元の布を懸命に引き剥がす。

「……ぷはっ! ツ、ツカサぁぁぁぁ! いやぁ! ツカサ、ツカサお兄ちゃん! 死んじゃやだよぉ!」

 朱里は、大粒の涙を流している。その目が「誰かお兄ちゃんを助けて」と、そう訴えている。一方で、茉莉は襲って来る誘拐犯を蹴りで1撃で沈め、銃身を少年に向けるのだった。

 ――茉莉に構っている暇なんて、少年にはなかった。少年は朱里に満面の笑みで微笑み、1瞬にしてそのロープを解く。手のロープも、足のロープも。固く結ばれていたのにも関わらず、通常では考えられない程の速度――本当に1瞬としか言いようのない速さで、ロープは解けた。

「いけぇぇぇぇぇ……! 朱里ぃぃぃぃ!!」

 少年は朱里に向かって、今出せる限りの声で、叫んだ。

「えっ……」

「俺の明日を……! お前に託す……! だからお前は……まっすぐ走れ!」

 ――朱里は。何故かその少年の言葉を拒む事が出来なかった。朱里の体は、残りたいという意思とは無関係に、走りだしてしまう。

「そんな、やだ、お兄ちゃん、ツカサお兄ちゃん、やだぁ……!」

 いつも優しかった、お兄ちゃん。友達のいない朱里と、いつも一緒に遊んでくれたお兄ちゃん。嫌なことがあった時は、笑って頭をなでてくれた、お兄ちゃん――。

 そんなお兄ちゃんが。自分のために、血を流して、痛くて、泣いて。それでも、笑ってる――。

 朱里は、そんなことを考える。それが辛かった。ここに残りたかった。なのに朱里のその足は。――勝手に外へと、向かってしまうのだった。

「くっ!」

 誘拐犯は手を伸ばし、何とか朱里の2つのリボンを掴む。しかし掴んだところが、失敗だった。朱里のリボンは緩く、リボンだけを残してするりと抜けていく。もはや、朱里を止められる者はいない――。

「やだ、やだやだやだやだやだぁぁぁ! お兄ちゃぁぁん……!」

 朱里は、涙が、鼻水が止まらないのだった。朱里の顔中が、ぐしゃぐしゃだった。今日はお兄ちゃんの、誕生日だから。この前貰った2つのリボンのお礼に、お花で冠を編んで、プレゼントしなきゃって思っていたのに――。

 朱里は、涙する。しかし朱里の体は止まらない。

 ――朱里は。そうして、少年の前から消えたのだった。

「貴様一体今何をした!? くっ、追え! いや……に、逃げろ!」

 男たちは、突然の状況に慌てふためいていた。その原因は、朱里を逃がしてしまったこと以上に、そこにいる無表情の殺し屋のせいであると、少年はすぐに理解した。

 なんせ、茉莉は強すぎるのだ。茉莉の持つ銃を恐れず何人かが立ち向かったが、ことごとく蹴りで1撃で沈められている。そうして少年に向け続けている銃口が、誘拐犯には自らを狙っているかのように見えたに違いないと、少年は考える。

「……女ぁ! こいつの命がどうなってもいいのか! 銃を捨てろ!」

 起き上がったリーダー格の男が、少年を掴んでナイフを首に当て付ける。男のその手には、震え。男は恐れているのだ。この無表情の女学生を――。

「殺せばいい」

 茉莉は銃を向けたまま、少年に近付く。

「う……、くぅ! た、助けてくれぇー!」

 男は茉莉に恐怖した。ナイフを捨てて、一目散に逃げ出していく。それに続くように、腰が抜けていた他の男達も逃げ出していくのだった。

「……」

 茉莉は、虫けらを見るような目で少年を見下ろし、銃を額に突きつけた。

 ――ああ、そうか、死ぬんだ。少年は、今度こそ自分の運命を理解した。

 なのに不思議と――、その心は、晴れやかだった。

「何故、笑っている」

「さぁな」

 ――たとえ、自分がここで死ぬのだとしても。

「何故、足掻かない」

「……うっせ。既にもう、動けねぇんだよ」

 ――あの子が無事なら、それで良かったって、そう思うんだ。

「……あなたのこと、嫌いではなかった」

「……奇遇だな、俺もだ」

 ――だから。

「神々が愛する者は、若くして死ぬ――」

 ――俺は、幸せだ。

 “悪いけどね、ツカサ。消えるのはまだ早いわ”

 ――死を覚悟した刹那。それは、唐突に起きた。

 エメラルドの輝きが、薄暗い廃工場を明るく照らす――。

「うおお!?」

「!?」

 閃光と共に現れたのは。例えようもなく、美しい金髪で。背を覆うほどの長髪で。燃え上がるような、真紅の瞳で。鮮烈な赤のローブに、身を包み。まるで、この世の者とは思えないような、堂々たる風格で――。

 例えるなら、そう、悪魔。悪魔のような美少女が。

 ――少年の前に、悠然と立っていた。

「ずっと会いたかったわ」

 金髪の少女は笑う。

「――椎名ツカサ」




「――あなた、誰?」

 茉莉は1歩下がって距離をとりながら、その金髪の少女に尋ねる。その言葉に反応するように、金髪の少女は茉莉の方を振り向く。

「さぁね。あんたこそ何なの? ヴォーグの侵入者。ツカサを返してもらうわよ」

 金髪の少女は少年を守るようにして茉莉の前に立ち、腕を組みながら茉莉を睨みつける。

「聞きたいのは私の方。あなたはなぜ――テレッツァ権限でここに存在している」

「あの亡霊に出来て、あたしに出来ないはずがないでしょう?」

 その2人の会話は、おおよそ、普通の人間には理解できない内容だった。

「彼女を知っているのなら、話が早い。彼女が来る前に、私は椎名ツカサの魂を消滅させる。……そこ、どいて」

 茉莉は銃を少年に向けようとする。しかしそれには金髪の少女が邪魔なのだった。

 一方で、金髪の少女は少年の前に立ったまま、そこを動こうとしない――。

「それが目的? あんた、ゲーティア? でも悪いけどそれ無理。消されては、困るもの……!」

 金髪の少女は不適に微笑む。

 ――突如。何もない空間から――“剣”が出現した。

「!?」

 夢でも見ているのだろうか、と少年は目を擦る。しかし、それは紛れもない現実なのだった。

「攻撃開始」

 茉莉は、不意をつくようにして、金髪の少女に向けて発砲する。人類最強の兵器ともいえる、その弾丸が金髪の少女を襲った。

 ――だが、しかし。少年が呆然としている間に、それは起こった。

 少女が片手で。それを止めていたのだ。そう――弾丸を。

「――ええ!?」

少年は思わず、寝転がったまま後ずさる。刺されたところが激しく痛んだが、お構いなしだった。

 ――今、何が起こったのか。

「そんなものが効くはずないでしょ? なめてんの?」

「……ヴァルムレイザ」

「とりあえず、死になさい。あたしは次の戦いを控えているの」

「……彼女と、戦うつもり?」

「そ。じゃ、そういうことだから部外者は――黙っててよね!」

 またしても、少年には理解の出来ない会話が飛び交う。――そうして、金髪の少女が剣を構えた次の瞬間。突然、眩い閃光が全員を襲った。

「――ふん、お早いご登場ね」

 金髪の少女は、やれやれといった表情で呟いた。

 ――その閃光は、何者かがやってきた証だった。

 そこに現れた“女性”は。全身蒼い甲冑に身を包み、天使の翼のようなものが生えた蒼い兜を被っていた。それはまるで、中世の騎士のような風貌。オレンジ色のさらっとした綺麗な髪が、兜の合間から顔を覗かせた。金髪の少女同様、この世の者とは思えない美貌だった。

 ――否。“この世の者”であるはずがなかった。

 少年は、気付いた。蒼い甲冑の女は、空中に浮かんでいるのだった。刺されたところは相変わらず激しく痛むため、やはり夢ではないのだと少年は結論付ける。

「……誰だか存じませんが、そこをどいて頂きます。私はその少年に用がある」

 蒼い甲冑の女は、透き通った声で告げる。その視線の先には少年――。

「……させない」

「いい加減主に迷惑かけていることに気付いたら? あんたは亡霊なんだから」

 茉莉と金髪の少女は、ほぼ同時に蒼い甲冑の女に言い返した。少年には、さっぱり状況が掴めないのだった。

「い、一体何が……どうなっている……!?」

 少年は、痛みを堪えて呟いた。――そうして、その言葉が。戦いの合図となった――。

「――」

 茉莉はバッグに空いている側の手を入れ、もう1丁の拳銃を手にした。――2丁拳銃。スライディングをしながら、物凄い速さで茉莉は銃を連射をする。高速かつ精密な射撃。バン、バンなんて甘いものじゃない。まるでマシンガンでも持っているかのような、そんなイカれた射撃である。

 そうして、その弾丸が。甲冑の女を貫く――!

「はぁっ!」

 しかし蒼い甲冑の女は、その全ての弾丸を剣で真っ2つにしてみせた。おおよそ人間業ではないその技術。人以上の存在が、そこにいた。

「どこを見てんのよ!」

 金髪の少女は、その一瞬の隙をついて飛び上がり――蒼い甲冑の少女へ斬り込む。

 ――斬撃。それは、少年の動体視力を持ってしても追うことの出来ない、超高速の刃――。

「別に、どこも?」

 しかし蒼い甲冑の女は、余裕の笑みを浮かべながら、蒼い盾でその一撃を平然といなした。剣で斬り、盾で守る。蒼い甲冑の女は、間違いなく騎士である。

「そう? ならその盾はなに?」

 金髪の少女は、にやりと不適に笑う。

「……これはっ!」

 ――両断、されていた。蒼い盾が、時間差で真っ2つに割れていたのだった。

「――!」

 茉莉は、そんな2人の様子を見ながら、ターゲットを変更する。――狙いは、金髪の少女。その2丁拳銃が、金髪の少女を狙う――!

「黙っていなさい、ヴォーグ風情が!」

 茉莉の様子を察した金髪の少女は、もう片方の手に銃のようなものを出現させた。

 ――ただの銃ではない。

「“連なる粛清の闇<スレイル・ビュレ>”――!」

 異形の銃だった。そしてその弾丸が――稲妻のような残像を伴いながら。茉莉の左腕を、貫いた。

「……っ!」

 茉莉の腕がその弾丸に貫かれた瞬間。スタンガンの数倍のショックが、茉莉を襲った。通常のスタンガンでさえ、触れれば30分は立ち上がれない。その数倍ともなれば気絶して当然。

 ――しかし、茉莉はぎりぎりでその意識を保つ。

「……大人しくそこで見てなさい」

 金髪の少女は茉莉を一瞥した後、蒼い甲冑の女に向かって突き進む。金髪の少女もまた、蒼い甲冑の女同様に、廃工場の中を縦横無尽に飛んでいた。

「くっ!」

 金髪の少女は一気に間合いを詰める。――再び、斬撃。盾を失った蒼い甲冑の女は、その手に持った大きな剣で、金髪の少女の小さく細い剣を受ける。

 ――が、しかし。

「そんな、バカな……!」

 ――金属が、砕ける音。どう考えても質量で勝るはずの蒼い甲冑の女の大剣は、あっさりと、金髪の少女の細く小さな剣に折られてしまったのだった。

「亡霊。ヌシ……いや、あんたの時代にはなかった武器よ。だから、あたしが勝つのは当然のこと」

 金髪の少女はそのまま蒼い甲冑の女の胸の上に着地する。その重さと衝撃で、蒼い甲冑の女は床へと落ちていく。

 ――そうして、落ちる寸前。金髪の少女は、剣を構えた。

「それなりに楽しかったわ。けど、早く用事を済ませたいからもうおしまい」

 大きな積荷でも落ちたかと思うような衝撃。蒼い甲冑の女は床に叩きつけられ、その上に金髪の少女が馬乗りになる。

「不覚……! この、私が……!」

 そうして、剣は振り下ろされた。その蒼い甲冑ごと、貫いた。

 少年は、見た。蒼い甲冑の女が。血を出すこともなく、どんどん、透明になっていって。

「亡霊は、亡霊らしく」

 最後に消える、その瞬間を見た――。

「――運命を呪って、消えなさい」


「――あなた、目的は何?」

 地に伏した茉莉が、左腕を押さえながら金髪の少女に尋ねた。

「ツカサを、助けてあげたいの」

「――嘘。その目は利用する者の目」

「……黙ってそこで見てなさい」

 金髪の少女は冷たく茉莉にそう言い放ち、静かに少年の方へ歩みを進める。近付いて来る金髪の少女のそんな様子を、少年はおぼろげに眺めていた。

 ――もういい加減、少年は血を流しすぎていたのだ。もはや、限界だった。

「今楽にしてあげるわ――ツカサ」

 金髪の少女は少年の前に立ち、静かに微笑む。さっきとは違う違和感を、少年は感じた。

 ――恐怖。金髪の少女の、その口元。その笑み。

 少年は思った。悪魔のようだと――。

「さぁ、思い出しなさい――!」

 ……そうか。少年は理解する。この少女は味方なんかじゃ、なかったのだ。

 少しだけ延長された自分の寿命は、今度こそ本当にその使命を終える――。

 少年の覚悟と同時に。金髪の少女は。横たえる少年の心臓に、剣を突きつける――!

「そんなことは、絶対にさせない!」

 ――それは、誰の声だったか。消えそうだった少年の意識を再び浮上させてくれたのは。先刻以上に眩い、エメラルドの輝き――。

 呆気に、とられた。同じ顔だった。同じ髪だった。先程の金髪の少女と全く同じ風貌で、双子のような少女が――。少年を抱きしめながら、空を飛んでいた。漆黒のローブの。もう1人の“金髪の少女”――!

 少年に刺さりそうだった剣の1撃から、この少女は間一髪で救ってくれたのだと、少年は気付いた。

「……お前は、」

「ふふ、相変わらずの間抜け面ね。でも無事で良かったわ、本当の、ホントに!」

 少年を抱えた少女が微笑む。まるで天使のようだと、少年は思った。

「そんな……!」

 最初にいた方の少女が、一歩後ずさった。

「遅くなって悪いわね」

 後から来た少女は、なんともなかったかのように着地し、優しく少年を降ろした。そうして、最初の少女の前に対峙する。ゴスロリのような、ひらひらした漆黒の服に身を包み、その上からマントのようなものを羽織っている。

 天使のようだと少年は一瞬思ったが、よくよくしっかりみれば、その格好は天使とは程遠いものである。なんせカラーが、ブラックなのだから。最初に来た少女が真紅のローブを纏っていたおかげで、辛うじて見分けがついた。

 殺そうとしてきた方が赤で、今救ってくれ方が黒である。

「あたしと同じ顔で、ツカサに手をかけるとか最悪。双子の妹みたいなものかと思ってたけど、中身が違いすぎ。変なイメージ植えつけないでくれる?」

 漆黒の少女は一気に早口でまくし立てた。

「な、なぜ、あんたがここに!」

「あたしみたいな喋り方しないでよ。あんたはあんたでしょ。普通にしなさい」

 真紅の少女と漆黒の少女は、同じ声で言い合っている。少年からすれば、それは不思議な光景だった。

「……よかろう。ワシもヌシのような喋り方には嫌気がさしておった」

 突然、最初にいた真紅の少女の口調が変わった。何事か、と少年は思う。しかし少年は口を開くことも出来ず、ただ見ているだけなのだった。

「そのオーラ……あなた、まさかアズヴァルド」

 茉莉は、傷ついた腕を押さえながら、その疑問を思わず口にする。漆黒の少女は、その問いに答えるように、叫んだ。

「あたしはリオナリア・ブリュンヒルデ・アルテイラ!」

 少女の名前は――やたらと、長かった。

「豊穣のアズヴァルドよ!」

「……黙るがよい!」

 ――漆黒の少女が、その名を叫んだ瞬間。真紅の少女はその隙を突くようにして、漆黒の少女目掛けて雷の弾丸を発射する。

 その名も、“連なる粛清の闇<スレイル・ビュレ>”――。茉莉を倒した、異形の銃であった。

 それは、本当に一瞬の出来事。撃たれれば確実に動けなくなるその弾丸が、残像と共に漆黒の少女を襲う――!

「……!」

 ――しかし、漆黒の少女は。

 それを“跳ね返した”。

「がはぁぁぁぁっ!?」

 一瞬の後の、一瞬。刹那の後の、刹那。撃った本人には予測不可能な事態。真紅の少女が放ったその弾丸は、真紅の少女自身を貫いていた……!

「ぐあぁぁぁっ! ヌシ……! 許さぬ! 許さぬぞ! 今すぐ殺してやろう……!」

 真紅の少女は、燃え滾るような目で漆黒の少女を睨みつける。しかし言葉とは裏腹に、膝を突いて、倒れるのだった。そしてもはや、動くことはできない――。

「あーあ、汚くなっちゃって」

 そんな真紅の少女のことを尻目に、漆黒の少女は落ちていた2つのリボンを拾った。それは朱里が落とした、ツインテール用のリボン――少年が、かつて朱里にプレゼントしたものだった。

「わー、なつかしい、久しぶり!」

 漆黒の少女は、そういってリボンを手馴れたように結んだ。

 ……そんなバカな。少年は呆然とした。身長も髪の長さも目の色も違うはずの金髪の少女が、いきなりツインテールになった。しかもそれは、ただのツインテールではない。朱里そっくりの結び方なのだ。比較的高めで、だけどちょっと左右がずれている、そんな結び方。

「似合うかしら?」

 一瞬、漆黒の少女は少年の方に振り返り、笑顔を見せた。

「な……!」

 少年はその姿に、思わず息を飲む。――朱里に、似ている。

「なんて、そんな場合じゃないわね。悪いけど逃さないわよ、あんた」

「くっ! 図に乗るでないわ!」

 真紅の少女は怒りに身を任せて叫び、根性で立ち上がる。しかし、その足取りは重い。

「……ならばこれでどうじゃ」

 真紅の少女が静かにその言葉を告げた瞬間。

 ――何かが、起こった。

 そう、真紅の少女は。少年の心臓を、その剣で貫いていた。

 ……え。

 「か、は……」

 ――否。“貫ぬかれた”なんて、甘いもんじゃない。体が、真っ2つに、いや、2つなのかも分からないが――とにかく、“切断”されている。少年は、自らの吐く大量の血と、流れ落ちて出来た赤の水溜りを認識する。少年が、全てを理解するのに、何秒かかったのかは分からない。ただ1つ。後からくる痛烈で鮮明で、形容し難い痛みと共に。あるいは、耐え難い地獄の苦しみと共に。

 ――少年は死を理解した。

 2007年7月13日金曜日。18時35分。八潮南高校1年3組、椎名ツカサ。

 ――死亡。



 ――あの子は無事かなぁ。

 少年の肉体は、死を迎えた。まもなく、その魂が“元の場所”に還る。


 ――名前はなんだっけ。そう、朱里だ。アカリ。あっけない、自分の死。残留した思念だけが、最後に走馬灯のようなものを見ていた。


 ――この俺の死に何か意味があったとするならば。

 少年の走馬灯は、幸せな家族と、幼馴染達と、そして小さな女の子との思い出ばかり。


 ――それは、朱里を生かすためだったのだろう。

 たくさんの思い出が映像となって、今はもう機能しない脳裏に焼きついては消えていく。


 ――無事に逃げて、達者で暮らすんだぞ。

 “しょ、しょうがないから、また明日も遊んであげるわよ、ツカサ……お兄ちゃん”

 少年は、ただ思うのだった。――俺の明日を、お前に託す――。

「そう、あたしは託されたわ」

 ――!?

「本来なら、あたしは“7月13日”に巻き込まれて消えていた――彼女と、同じように」

 ――朱里の声が、聞こえる気がする。

「あたしはあんたに“殺されかけた”。だけど、あんたは同時にあたしを“助けてくれた”」

 ――知っている声が、聞こえる気がする。

「だからあたしはここにいる。――あんたを、助けるために」

 ――朱里の姿が、見える気がする。

「あたしが託されたあんたの明日を、今この時より、あんたに返す……!」

 ――知っている姿が、見える気がする。

「聞こえる? 見える? わかる? あたしはね、待ってたのよ」

 ――聞こえる。見える。わかる。そう、君は――。

「あんたが一緒に公園で遊んでくれる――そんな明日を!」

 ――君の名前は――。

「ツカサ……お兄ちゃん!」

 そうして。少年は認識した。少女の声を。姿を。香りを。気付けば少年の唇に。少女の唇が、触れていた――。


 “あ、朱里ね? 大きくなったら、その……ツカサの、お、お嫁さんに……なってあげてもいいわ”


 “アホか朱里。お前はホント、朱里ちゃんだな。いいか、嫁ってのは大変なんだぞ”


 “大変って何がよ! なれるもん、朱里は!”


 “チューとか、そういうこともするんだぞ〜? ほーれほれほれ”


 “なななななにすんのよ! 気持ち悪い、近寄らないで!”


 “ほらな? お前には無理だ。大体俺は、断じて幼女趣味ではない!”


 “だから、大きくなったらって言ってるじゃないの! ツカサのバカ!”


 “ははは。そうだな、お前が大きくなったら、な!”


 “……見てなさいよ! 今に大きくなって、ツカサお兄ちゃんのく、唇を! 朱里が、奪ってやるんだから!”


 “唇を奪うとかよくそんな言葉を知ってたなぁ! 偉いぞ、朱里ちゃん!”


 “バ、バカにするなぁ――!”


 ――そう、君は。

「……やっと気付いた?」

 ――君こそが。

「そうよ、あたしはリオナリア・ブリュンヒルデ・アルテイラ。またの名を――」

 ――お前こそが――!

「「陣内朱里……!」」

 ――刹那。少年は、自分の存在が根本から消えてなくなるような、なんとも言い難い感覚に襲われて。

 ――次の瞬間。その全てが1箇所に集まってくるような、これまた不思議な感覚に囚われるのだった。

 ――そうして見上げれば。そこは真っ暗な――。

「廃工場……」

 ……ああ、そうか。少年は、悟った。信じられないことに、少年は生き返ったのだ。そんな少年を、少女は黙って抱きしめる。少女は――そこにいた。

「……朱里」

「……残念……。今のあたしはもう昔の小さな朱里ちゃんじゃないから。……リオナリアって名前なのよ、今は」

 少女は、少しだけ、ほんの少しだけ泣いていた。

「はは……おかえり」

「……なにいってんのよ。今までどっか行ってたのは……あんたの方でしょ」

 そうして、少女は。

「……おかえり、ツカサ」

 少年の唇に、そっと唇を重ねた。

 ――そう。これが出会いだった。

 少年――椎名ツカサと。

 少女――リオナリア・ブリュンヒルデ・アルテイラの。






「……えええ!?」

 ツカサは急に、現実に引き戻された。ようやくモノを考える準備が出来たのだった。そう、明らかにおかしな状況だった。

 まず――ツカサはいきなり金髪外国人化した朱里にキスをされた。今まさに、この瞬間に。しかも唇だった。マウス・トゥ・マウスだった。

 次に――ツカサは今、よく見ると、いやよく見なくても何故か全裸である。マッパである。葉っぱの1枚さえまとっていない。葉っぱ隊にさえ入れない。

 最後に――そんなツカサの状況を、横でまじまじと見ている人間がいる。2丁拳銃の暗殺学級委員長……神崎茉莉だった。茉莉は全裸のツカサを無表情で見つめている。

 ツカサにはその視線が、このポークビッツが! とかなんとか言われているように感じられ、もはや泣きそうだった。

「ええええええ!? これ、おい! ちょっと! 服!」

 そうしてパニックに陥った。何から手をつけていいか分からないツカサは、とりあえず股間を手で隠し、芸人のように喚いた。そうして、もう1つ思い出す。赤いローブの方の少女は、どうなったのか。

「う、うるさいわね! わかったわよ! んー、作るのは面倒だから換装にするとして、位置は……ちょっと黙ってツカサ!」

「は、はい」

 リオナリアに怒られて、ぎゃーぎゃー騒いでいたツカサは、一瞬にして黙り込んだ。

「あんたんちから持ってきたわ。これ着なさい」

 リオナリアはどうやって持ってきたのか、よく知っている服とズボンを渡してきた。

「……」

「何よ?」

「これ……明らかに妹のパジャマなんだけど」

「うるさいうるさい! とにかく着なさい!」

「は、はい」

 ツカサは空気に飲まれ、やけくそ気味で着替えることにした。なんか普通にパンツがないけど、もう逆えないのだった。

 すまない、なっちゃん! なっちゃんのパジャマを汚物で汚す、この愚鈍な兄者を、どうか許しておくれ……!

 ツカサは心で泣いた。なっちゃんとは、椎名夏美のことである。すなわち、ツカサが愛してやまない、可愛い中学生の妹のことだった。ちなみに、靴と靴下はあった。パンツだけないのは何故なのだろうか。

 ツカサは、考えることを止めた。

「な、なぁ、ところで、さっきのアイツは」

「逃げられたわ。まぁでも、もう1週間くらいは戻ってこないはずよ」

「そ、そうか」

「……驚いた」

 驚いてそうには全然見えない無表情で、茉莉が小さく呟いた。

「神々が愛するものは若くして死ぬ――メナンドロスはそう言っていた」

「?」

 ツカサは首を傾げる。ハテナマークが点灯していた。

「完全に信じたわけじゃない。でも――あなたは確かに、アルヴィエラの遺言そのもの」

 難解なことを言い残し、茉莉は反転して出口へと向かっていく。

「お、おい、茉莉!」

 ツカサは何となく、茉莉を引き止めた。いろいろと――聞かなければならないことがあるような気がしたのだった。そう、例えば――。

「お前は、なんなんだ!?」

 それは今まで、ツカサが何度も投げかけては無視され続けてきた言葉。茉莉は振り向きながら答える。

「……この世界を監視しにきた存在」

 その表情は、全く揺るがない。

「何かあればあなたを消す。――今は豊穣……そこにいるアルテイラを信用するだけ」

「……監視しにきた存在……俺を、消す……?」

 ツカサは反証してみたが、茉莉は答えない。そうして、そのまま茉莉は去っていくのだった――。

「世界の監視者、か」

 茉莉が去った後、ツカサはリオナリアを強い視線で見つめた。

「……教えてくれよ、朱里。いや、リオナリアさん」

「リオナでいいわ。むしろリオナって呼びなさい」

「わかった、リオナ。お前達は――何者だ? さっきの飛んでた鎧のヤツとか」

 ――何者か。おそらくは聞いてもわからないのだろうが、聞かずにはいられないツカサである。

「正確に全てを伝えるのは無理よ。あたしはね、思っていることを伝えるのが苦手なの。だからすっごーく簡単に言うけど、いい?」

 そういえば、朱里もそんな性格だった、とツカサは思う。朱里とリオナリアが同じ“存在”だということは、さっき消えかけた際にわかった。言葉に表すことは難しいが、とにかくはっきりと、完璧なまでにはっきりとそれが伝わってきたのだ。何故だか疑う余地がないのだ。朱里はリオナリアであり、リオナリアは朱里なのだ、と。

 だがしかし、性格も完全に同じなのだろうか? なんにせよ、簡単にでも教えてくれればそれでいい。ツカサは頷いた。

「じゃあまず最初に。あたし達はみんな神様みたいなもんよ。その中でも特にあたしは」

 こう呼ばれている、とリオナリアは続けた。

「――豊穣の女神、と」

「豊穣の女神って……神話に出てくる、あの?」

「それとは違うと思うわ。まぁ、でも似たようなものかもしれないわね」

 リオナリアは、どっちでもよさそうに答える。

「……ははは。あの茉莉も、神だっていうのか?」

「そうねぇ。茉莉も多分神よ。あたしの勘だけど」

 ――学級委員長が神。

「……まぁ、いいや。鎧のヤツは?」

「神っちゃ神。亡霊っちゃ亡霊。不自然な存在よ」

 ――亡霊。

「……ふ、ふーん。……じゃあ、リオナにそっくりだったアイツは、なんだったんだ?」

「あれはあたしの双子の妹みたいなもんよ。敵だけど、やっぱり神」

 ――双子の神。

「――そいつらの目的は?」

 ツカサはいよいよ、確信に触れた。固唾を呑みながら、リオナリアの言葉を待った。

「あんたの抹殺とか、あんたの魂の回収とか、あんたにとっては不穏なこと」

 ――自分の抹殺。

「……なんで俺なんだ」

「あんたがすごいレアな魂の持ち主だから」

「……」

「あたしは簡単に言えば、そんな奴らからあんたを守りにきたのよ」

「ほお……」

 全然ピンとこないツカサだった。というか。

「って……んな話信じられるかぁぁぁ!」

 そう、ツカサはそれが言いたかった。さっきから、いつ、このツッコミを入れようかと、タイミングを見計っていたのだった。

ツカサは一気に攻める。

「大体! 俺は無神論者だ! いいか、この世に神様なんていない! 幽霊なんてものもいなければ、呪いや不幸なんてものも全部気のせいだ!」

 そうではないかもしれない。しかし、気のせいであるとツカサは信じたかったのだった。

「全て……トリックだろ!」

 指を差して、真犯人はお前だ的なポーズをとるツカサに、リオナリアは半ば呆れつつも、一応言い返す。

「じゃあ説明しなさいよ、一度確実にバラバラになったはずのあんたが、体も見事に元通りになって生き返ったトリックを」

「……」

「……」

「……きっと、俺の魂がすごかったからだ!」

 論理的に言い返せないツカサだった。

「なによそれ。トリックでもなんでもないじゃない。でも、間違ってないわ」

 リオナリアは意外なものを見たかのように、感心している。

「あんたの魂は確かに特別。そしてあたしもまた、あんたにとって特別な存在。だから、あたしとツカサは繋がることができた」

「……繋がる? なんだって?」

 なんだか不穏なエロワードを拾うツカサ。

「命が繋がってるの。魂が繋がってるの。あたしが消えれば、あんたも消えるってこと」

「……へ?」

 別にエロくはなかった。

「鈍いわね、あたしとあんたは、既に一心同体ってことなのよ。それとも、あのまま消えた方が良かったのかしら?」

「え、いや……ちが……つか言ってる意味が」

「一心同体。ほら、言ってみて」

「い、一心同体」

「そゆこと。だからあたしは今日から、その、えーっと、その、あ、あんたのお嫁さんに、なることにしたわ」

「……なんだって?」

 聞き間違いか、とツカサは耳を疑った。いや、聞き間違いに違いないだろう。

「も、もう! 何度も言わせないでよ! あたしがお嫁さんになるって言ってんのよ! 何か文句ある!?」

 聞き間違いではなかった。ツカサは口をあんぐり開ける。今のツカサなら、ミートボールを23個くらいまで口に入れられるような気がした。

「ちょ……お、大アリだろうが!」

「う、うるさい! 魂が繋がってるのよ! そんなの、け、結婚するしかないじゃない! あたしは最初からそのつもりでここに来たのよ!」

「はぁ!? 知るかそんなこと! お前、自分が一体何を言っているのか、わかってんのかよ!?」

 ツカサが怒鳴ると、リオナリアはムッとしたような表情を見せた。そうして急に潮らしく、

「キス、したもん。昔、約束したもん……」

 なんてことを、言い出すのであった。

「……えっ」

 ――ツカサは思い返す。……そういえば。走馬灯の中で、そんな風景を見たかもしれない。

「大きくなったら、唇奪って、結婚するって……約束したもん……」

「う……!」

 見事なまでに、かつての朱里らしい仕草だった。しかし目の前にいるリオナリアは、朱里とは身長が違うし、髪の色も違うし、つーか目が赤い。白目が赤いのではなく、黒目が赤い。……いや、そもそもこいつは人間じゃない。

「唇奪って結婚するって約束したもん!」

「い、1回言えばわかるわ!」

 ――確かに、リオナリアは美人である。

 ツカサは考える。リオナリアは、絶世の美女と言っても差し付けないのではないかと。まぁ、本当に絶世だし。世界を隔ててるし。

 その目、その唇――。まるで吸い込まれそうである。

 ツカサは、急にリオナリアの唇を意識し、動揺して視線を外してしまう。そうして、思い出したように、

「く……! つーかなぁ! 俺は、ファ、ファーストキスだったんだぞ!」

「あ、あたしも初めてよ! なによ、あんたが言い出したんじゃない、昔! それに、あんたの存在をこの世界に固定するためには、キスは最適な手段なんだから!」

「え……いやいや、うっさい! 俺はちっさい朱里に言ったんだ! こんなすぐに大きくなるなんて普通思わないだろう! あと、最適な手段がどうとか意味不明なことを言うな!」

 初めて、という言葉に一瞬戸惑うが、ツカサは引かない。口論は引いたら負けであるということをツカサは知っている。

「……あたし、16歳になったんだから。ツカサと一緒。もう結婚できる年齢」

「いやいやいや、俺はまだ結婚できない年齢だから! って何!? 16!? お前さん16歳なの!?」

 神様なんじゃないのか。なんで神様が、16歳なんだ。

 ツカサは再び、意味が分からなくなるのだった。

「何よ、文句ある?」

「ああ、思いっきりダウトだ! 神様が16歳のはずがない!」

「世襲制なのよ」

「世襲制!? おいおい、神は唯一無二の完璧な存在のはずだろう! なんかのアニメで見たぞ!」

「神だって、普通に寿命で死ぬわ」

「何歳」

「延命して150歳くらい」

「……微妙じゃねぇか!」

 口論のはずが、なんだか微妙に逸れてくる2人。リオナリアは疲れを感じてか、一気にまくしたてるように話す。

「はー、もう、そんなのはどうだっていいじゃない。信じたくないのなら信じなくてもいいわよ。だけど、神だろうがなんだろうが、あんたを生き返らせたのはあたし。少なくともあたしにはあんたを生き返らせる力があるの」

 以上、ひといき。

「……その節はお世話になりました」

 そういえばお礼を言っていなかったな、とツカサは反省する。

「なぁ」

「なに?」

「俺はこれからどうなるんだ? どうしたらいい?」

 神様がどうとか話が大きすぎて、何をしたらいいのかわからない。それが、ツカサの率直な感想だった。

「普通にしてなさい。敵がどれだけこようと、あたしが守りきるわ」

「……そうか。お前に守られるのか」

「なによ?」

「不服だ」

「はぁ?」

「ついさっきまで小学生だったちびっ子に守られるだなんて、不服だ!」

 ツカサは、駄々をこねるのだった。

「じゃあ、死ねば! あたしがいなければ、あんたは明日にでも神崎茉莉に消されるわよ!」

「……くっ。つかそもそも、なんで朱里が神様なんだよ。死にかけたときに、お前が朱里だってことは何故だか疑いようもない程に伝わった。けど、なんで朱里が神様なんだよ!」

 言い返せなくなったツカサは、必殺話題すり替えを発動した。

「転生よ、転生。そういえば分かる?」

 ……分からないに、決まっている。ツカサは、もう諦めることにした。分からないことだらけで、なんだかツカサは疲れてしまった。

「……もういい、疲れた」

「疲れたのはこっちよ。とりあえず帰るわよ」

「……ああ、そうだな。俺も、すごくベッドにダイブしたい気分だ」

 険悪な空気のまま、2人は廃工場を後にした。出る際に、「固有結界解除」と言う小さな声が、聞こえた気がした。





「……なぁ、リオナリア」

 しばらく歩くと、公園が見えた。

「なによ?」

「朱里は……小さい朱里は、どうなったんだ?」

「ああ、そのこと」

 先を歩いていたリオナリアはツカサの方を振り返り、

「あの後、逃げ切れたわ。あたしが経験した過去には神崎茉莉がいなかったから、もしかしたら今回とは事実が異なるかもしれないけどね」

「……ん? なんだって?」

「んー、気にするほどのことじゃないわ。とにかくあたしは誘拐犯から逃げ切って、そのままあたしが本来住んでいた世界に戻れたの。――偶然にもね」

 最後の部分だけ、切なそうなリオナリア。

「本来の世界ねぇ……天国?」

「ま、そんなところね」

 天国が存在するということを、ツカサが初めて知った瞬間だった。

「じゃあ、この世界にはもう、あの朱里はいないんだな……」

「何いってんのよ、ここにいるじゃない」

 リオナリアは、フッと笑いながら自分を指差した。

「――何もかも、覚えているのか?」

「ええ、何もかも覚えているわ。――例えばあの公園で、」

 リオナリアは公園に向かって小走りをして、公園の前で立ち止まる。こちらを振り返り、

「あんたに出会ったわ!」

 ――大きな声で、叫んでいた。

「……ああ、そうだったな」

 ツカサから思わず、笑みが零れた。リオナリアを追うように走り、公園の前で同じように立ち止まる。

「あのベンチで体育座りをしていたな、お前は」

「犬を連れてるあんたにいきなりナンパされて、超絶うざかったわ」

「人をロリータ犯罪者予備軍に仕立て上げないでくれ」

 2人は顔を見合わせて笑い、公園の中へと足を進めた。

「――朱里、めちゃくちゃ泣きやがるんだもんなぁ。あれは困った」

「犬は嫌いだったのよ」

「そうそう、そうだった。俺が公園に来るたびにお前は泣いてたもんなぁ」

「大体、しつこいのよ」

「ぺぺろんがお前を気に入ったんだからしょうがないだろ? なつかしいなぁ、もう4年も前の話だ」

 ぺぺろんというのは、ツカサが飼っている真っ白でふわふわのチワワだ。ツカサは、妹がつけたこの名前を非常に気に入っている。

「――そうね」

 リオナリアは苦笑する。リオナリアにとっては、もっともっと昔のことだったから。

「あたし、ツカサには感謝しているんだ」

「――なんで?」

「楽しかったから。幸せだったから。いつも公園で1人ぼっちだった朱里が、笑って10歳を迎えられたのは――紛れもなく、あんたのおかげ。……ツカサ、お兄ちゃん」

「お兄ちゃん!?」

 ツカサは3歩程後ろに下がった。驚きで。

「よ、よせ! お兄ちゃんはよせ! なんだかすごく違和感がある!」

「わ、わかってるわよ。あたしだってそうよ」

 リオナリアは、そう言って近くのブランコに腰掛けた。ツカサも真似をして、隣のブランコに腰掛ける。

「……ずっと欲しかったんだ、このリボン」

「……そうか」

「10歳の誕生日にこれを貰った時、すごく嬉しかった。あんたってば、子供だってバカにして、幼稚園児用の靴とかガラガラとか、しょうもないものばっかりいつも買ってくるから」

「俺なりのユーモアだったんだが」

「乙女心をわかってないのよ、あんたは! ……でも、このリボンは別」

「まぁ……10歳って2桁だったしな。奮発してやったぜ」

「うん……あ、ありがとう」

「……」

「なによ」

「いや……気持ち悪いな、と思って」

「あ、あああ、あんたねぇーーー!」

 リオナリアは立ち上がり、ツカサの胸倉を掴んだ。ああ、朱里身長伸びたな〜、とツカサは微笑むばかりだった。

「気持ち悪いですって!? 人がせっかく、ゆ、勇気を振り絞って!」

「じょ、冗談! ユーモア!」

 冗談が通じないのはそういえば昔からだったなと、ついでに思い出すツカサ。

 “こ、子供扱いしないで! なんでプレゼントがマジレンジャーの靴下なのよ!”

 そういって泣きながら帰っていった朱里の姿を思い出した。

「……悪かったよ、朱里。……じゃなかった、リオナ」

「……じゃ、罰として、あたしを……あんたの、その」

「断る」

 嫌な予感がしたため、ツカサは断った。

「ちょ、ちょっと! 何も言ってないじゃない!」

「お嫁さん系だろどうせ! 却下だ却下、却下却下!認められない!」

「〜〜〜!」

「死んだほうが、マシだ!」

「……え」

「お前と結婚するくらいなら、死んだほうがマシだって言ったんだ!」

「――――ツカサ」

 木々が風に靡き、音を奏でる。あたりは、静寂に包まれていた。しまった、とツカサは思う。言葉のあやだった。要はすごく嫌だということが言いたかったのだ。

 それは別に、リオナリアが嫌いとか、そういう意味じゃなくて、相手がどうとか、そういう問題じゃなくて、単にそんな非現実的なことを認めたくないという、ポリシーから発せられた言葉だった。

 ――しかし、死んだほうがマシというのは言いすぎだと、ツカサは反省する。

“死んだツカサ”を救うために、リオナリアはツカサと命を共有し、それがリオナリアに結婚を決意させたというのに。死んだ方がマシだなんて、冗談でも聞きたくない言葉のはずだった。

 そう、リオナリアにとっては。

「……だったら、勝手にすればいいじゃない……!」

 リオナリアは泣きそうな顔で一言そういって、ツカサの前から、姿を消した――。

ツカサは、立ち尽くしていた。

 朱里を、リオナリアを、傷つけてしまった。ツカサの中で、リオナリアはリオナリアであり、同時に朱里でもあった。

 だから、気持ち的には10歳の少女にヒドいことをしてしまったような、それこそマジレンジャーの靴下を渡して泣きながら逃げられた時のような、そんな喪失感、罪悪感があった。

「よくない、よなぁ……」

 ツカサはあの時のように、朱里を、リオナリアを、探すことに決めた。

「っつっても、神様の居場所なんて」

 ――見当もつかない、というのが正直なところだ。そもそも、リオナリアはどこで暮らす気なのか。朱里の家だろうか? 有り得る。ツカサは朱里の家に向かった。

 ――留守、だった。電気もついていない。さすがにあれだけ姿が違うし、ここにはいないということか。

 ……まさか。まさかとは思いつつも、ツカサはいったん自宅を見てみることにした。自宅に向かって、走る。

 ――。

「ただいま!」

「あら、おかえりなさい、ツカサちゃん。……あれ、その格好は」

「母さん、誰か来なかった? 外国人みたいな女の子」

「ううん、見てないけど」

「そっか、ありがと!」

「あ、ちょっと!」

 ツカサは再び家を出た。

 ――と、その前に。ツカサはついでに、妹である夏美の自転車を拝借することにした。

「なっちゃん、鍵貸してくれ」

「……どうぞ」

 夏美の部屋に行き、ツカサは鍵を借りる。

「お兄ちゃん、それ、夏美のパジャマ」

 痛いところをつっこまれるツカサだった。

「……あ、ああ。いろいろあって、借りちゃった、あははは」

 慌ててツカサはごまかす。そういえば、そもそもノーパンである。急に夏美に対する罪悪感が芽生え、急いで私服に着替えて、今度こそ家を飛び出した。

 ――。

 リオナリアは、どこにいったのだろう? ツカサは自転車にまたがり、手当たり次第探してみることにした。

 学校。駅前。公園。デパート。家。図書館。公園。家。ありとあらゆる裏通り。

「……天国に戻ってしまった、とか」

 どこにも見当たらず、ツカサは落胆する。

 時刻は既に22時半だ。戻ってきてたりして、なんて淡い期待を抱いて、何度も戻った公園に、もう一度だけ戻ってみる。

「……誰も、いないよなぁ」

 あたりは、真っ暗だった。ツカサが大きなため息をつくと、

「本当に、しつこい」

 と声がした。

「――!」

 リオナリアが、そこにいた。

「おま、今までどこに! 心配したんだぞ!」

「ちょっと姿を隠してたの」

「おま……おまえなぁ!」

「だって」

「心配、させんなよ……!」

「えっ」

 ツカサはリオナリアの肩を掴んだ。そんなツカサを目の前にして、リオナリアは赤面する。

「……な、なによ、あたしが悪いみたいじゃない」

「あ、いや……そうだ。さっきは悪かった。本当は死んだほうがマシだなんて思っていない」

 ツカサは、正直に謝った。

「……」

「俺は生きてて良かったよ。そんで、」

 ツカサは満面の笑みを浮かべ、

「お前が見つかって良かった……!」

 リオナリアを、抱きしめていた。

 そう、ツカサは昔、同じように朱里を抱きしめたことがあった。

 一方で、あの時と同じツカサを前にして、リオナリアは動けなかった。

 ――ずるい、と思った。

 そんなことなど露知らず、ツカサは朱里を抱きしめる際と同様、お兄ちゃん感覚でリオナリアを抱きしめていた。まるで、まったくこいつったら、お兄ちゃんは心配したんだぞ! 

とでも言うような感覚で。

 そうしてしばらくして。今抱きしめているのが10歳の朱里ではなく、大人びたリオナリアであることに、ツカサは気付いた。麻痺していた認識感覚が、ようやく正常に機能するようになって、

「ご、ごごごごごごめんつい!」

 などと、情けない言葉を発しながらツカサはその手を離すのだった。

「……このあたしを抱きしめたからには、わかってるんでしょうね」

「……いっとくが、結婚っていったって、法律上は無理だし、それに俺はお前のことを、10歳の妹のように思っているフシがある」

「あたしは16よ」

「急には割り切れない」

 あくまでツカサはその姿勢を崩さないのだった。

「……そう、わかったわ」

「じゃ、じゃあ!」

 ツカサの顔が明るくなる。

「はい、誕生日プレゼント」

「……へ?」

 不意に、花の冠のようなものを頭に被せられた。

「もう花は萎んじゃったけど。朱里は、ツカサお兄ちゃんの為にこれを渡したかったの」

「……朱里が」

「そんで、これが――あたしの分」

 そういってリオナリアは。ツカサの頬に、そっと口付けをした。

「お、おおおおおお前なぁ!! ま、またやりやがったなぁ!」

「う、うるさい! 他にあげられるものなんて、なかったんだもの! ってゆーかね! あ、あんたが割り切れないってゆーなら、その、あ、あたしが、その、わ、割り切らせて、やるんだから!」

 もはや、自分でも何を言ってるのか分からないリオナリアだった。

「だ、だからって、これは」

「あたしはリオナリア! 朱里だけど朱里じゃない!10歳でもない! もう妹キャラじゃない! 16歳の、リオナリア!」

「……」

 ツカサは、呆気にとられていた。リオナリアの決意の表情は、かなりマジだった。

 ――容姿端麗。あまりにも美しい、切れ長で二重の真紅の瞳が、この世界でツカサだけを見ているのだった。整った顔立ちで、なおかつ小顔。さらっさらのブロンドの髪が、ツインテールになっていて、まるでフランス人形のよう。胸もぺったんこだった昔と比べて、比較的ふっくらしている。いや、もしかしたら気のせいかもしれないが。

 ――ツカサは思う。こんな子にいきなり告白されて、ノーという男はいないだろう、と。少なくとも、ツカサが通う八潮南高校には、そんな男はいないに違いない。

 ……朱里は本当に、綺麗になったのだった。

「そのうち嫌でも分からせてやるんだから、覚悟しなさい」

「は、ははは……」

 なんだか本当にそうなりそうな自分がいて、ツカサは自嘲する。なんせ、朱里だったということを抜かせば、そもそもリオナリアは自分にはもったいないほどの美人なのだから。

「というわけで」

「?」

「夫婦ごっこ、から始めましょうか」

「夫婦ごっこって……おい、それはもしや、むかーしむかしに遊んだ、意味不明のごっこ遊びのことか」

「嫌?」

「……仕方ない、それで手をうとう」

 どんな遊びだったかはあまり覚えていなかったが、ツカサは、承諾した。ごっこなら、大したことはないと思う、という判断だった。

「……じゃ、じゃあ。帰りましょうか。……あ、あなた」

「……」

「……」

「あなたって、俺か! そういう意味かオイ! くぅ、やっぱなしだなしなし、違和感が半端ない、こんなの現実じゃない日本じゃない地球じゃない、ぎゃ――――!」

 混乱して最後には奇声を発するツカサとは裏腹に。

 まるでサンタさんにでも会えたかのように嬉しそうに笑う、そんなリオナリアの姿があった。

 人間と女神の夫婦(仮)がここに、誕生する――。












 ――。

「と、いうわけです」

 リオナリアは、笑顔で説明する。

「いや、ちょっと待アイタタタタタ!」

 ツカサは手を上げて発言しようとしたが、太ももをつねられてあえなく撃沈。ツカサとリオナリアの前には、ツカサの父に母、妹の夏美、そして何故かお隣に住んでいる幼馴染の翠が座っていた。

 時刻は、もう23時30分である。良い子は寝る時間だった。

 ――で、なんでこんなことになっているかというと。

 1.帰宅する。

 2.なんだかんだでリオナリアが着いてくる。

 3.この外国人は誰、という話になる。

 4.2階から何故か翠と夏美が降りてくる。

 5.てんやわんや。

 6.リオナリアが説明すると言い出す。

 ――とまぁ、そんな感じである。

 そして、リオナリアの説明を要約するとこうだ。

 “今日からツカサの嫁として精一杯頑張ります”

「って何だい、それは――っ!」

 立ち上がって1番に叫んだのは、お隣さんだった。

 名を、中野翠【なかのみどり】と言う。翠は、そのFカップの大きな胸をたぷんたぷんと揺らしている。これはいいスイカだ、とツカサは思った。

 翠とは、零次と共に幼馴染であり、長いことずっと一緒だった。茶髪のショートカットで、テニス部の元気娘。クセのないパッチリ二重でいつも笑顔だからか、ファンクラブも存在している。ツカサ自身も、幼馴染でなければ、ファンクラブに入っていた可能性が高い。翠はいわゆる、学園のアイドルだった。

「ツカサちゃん! どこで出会ったの、こんなマブっ子!」

 翠は、少し旧式の言葉でリオナリアを形容した。

「え? その……公園で、犬の散歩中に」

「そっち系か――――!」

 翠は崩れ落ちた。そっち系がどっち系なのかツカサには分からない。ちなみに翠は小さい朱里とは面識があるはずなのだが、まぁさすがにわかるまい、とツカサは思う。いくら似ているとはいえ、朱里とリオナリアは身長も目の色も髪の色も違うのだから。

「我が息子よ――――! ついに、ついに我が家にも金髪の娘が! パツキン革命が起きつつあるということで、間違いないのだなぁぁぁ!」

 ツカサの父は、見事に発狂している。またか、とツカサは嘆く。ツカサの父親は、大体いつもこんな感じなのだ。ツカサにツッコミ体質が身についてしまったのはこの父のせいであろう。

 そうして、

「うっさいわ親父! 和室でテレビでも見てろ!」

 と、これまたいつものようにツカサは罵声を飛ばした。

「断るぞツカサ! 父は今機嫌がすこぶるグッドだ! ところで孫はまだかい?」

「ん、んなもん知るかアホ!」

「リオナリアちゃん? ツカサちゃんは不束者ですが、どうぞ、よろしくお願いしますね」

「ええ、お母様」

「ちょっと待ってよ母さん、いいの!? 俺16だよ! 親父や母さんが認めても国が、ジャパンが認めないよこんなこと!」

「見苦しいわよツカサ。あんなことやこんなことをあたしにしておいて……」

「誤解を招くような言い方をするなぁ!」

「お兄ちゃん」

 と、夏美が口を開けた。無論、ツカサの妹である。

「なんだい、なっちゃん、お兄ちゃんと結婚するのは夏美だもん、だって!? そうだよね、わかるよなっちゃん、こんな茶番はやっぱり阻止すべきだよね、共に立ち上がろう、なっちゃんんん!」

 ツカサはシスコンなのだった。

「夏美、お姉ちゃん欲しかったから、嬉しい」

 夏見は何か口にもごもごさせながら言った。

 ――ツカサは、気付いた。

 ば、ば、買収されている……!

 夏美が食べているのはどう見ても夏美の大好物のプリンだ。椎名夏美の座右の銘は、“食べ物をくれる人に悪い人はいない”である。そう、もはや手遅れだった。

「リオナリア、お姉ちゃん」

「リオナお姉ちゃんでいいわよ、夏美ちゃん」

「んなっちゃぁぁぁん!」

 実の妹をリオナリアに取られてしまったツカサは、とりあえず駄々っ子のように泣き叫ぶのだった。

「あ、そうだ、お赤飯たかなくちゃ」

「なんで!? 母さんなんで!? それ意味違くない!?」

「椎名家、モーニング計画開始〜〜〜!」

「くっそ親父が! 変な計画を勝手に始めるんじゃねぇ! あー、くそ、なんなんだ一体」

「五穀米もたかなくちゃ」

「母さん! 五穀米はただの健康食だから! もうなに、わざと!? ねぇ、わざと!?」

「孫の名前は、ランランがいいなぁ、パンダみたいで可愛いぞ」

「黙れ親父! 和室でテレビ見てろ!」

「〜〜〜〜!」

「〜〜〜〜!」

 ――。

 こうして、晴れてリオナリアは家族の一員となった。突っ込めば突っ込むほど盛り上がるという、ツカサにとっては最悪なパターンだった。リオナリアが、2階の亡くなった祖父の部屋を代わりに使うことになって整頓をしている間、ツカサは1人、ベランダから屋根の上に登って寝転んでいた。

 椎名家の屋根は簡単に登れる。ここはツカサにとって、心安らぐ秘密の場所だった。

「――ツカサちゃん」

 隣の家のベランダから、いつの間にか帰った顔が、ひょっこりと顔を出した。

 幼馴染――中野翠だった。

「よぉ。なんだかさっきは急に大人しくなってたな。いつのまに帰ったんだ?」

 ツカサは不思議そうに、翠に尋ねる。

「うーん、なんでだろ、自分でもわかんないかも」

 翠もまた、不思議そうに頭を掻いた。

「……ツカサちゃんは、もうあの子の旦那さんなの?」

「ぶっ」

 真顔で意味不明なことを言い出す翠に、ツカサは思わず噴き出す。

「いやいや、法律上無理だってば! いいか翠、俺とあいつは夫婦ごっこをしているだけであって、そもそも付き合ってさえもいないんだ。わかるか?」

 そう、こんなのは結局、ただの自己満足に過ぎないのだ。ツカサは必死に弁解する。――とはいっても、まんざらではなかったりもするのだが。

 しかし、夫婦ごっこというものが一体なんなのか、翠はよく理解ができていないのだった。それもそのはずである。当のツカサでさえ、理解できていないのだから。

「ツカサちゃんは、あの子のことが好きなの?」

 迷った末、翠はそんな質問を投げかける。

「美人だとは思うよ。けどな、某10歳の女の子の影がチラついて、滅茶苦茶違和感があるんだ。妹のような、自分がロリコンで、あと変態で、まるで犯罪者になったかのような」

 なんて言ったらいいかわからなくて、つい日本語がおかしくなるツカサ。

「要は、ラブ! っていうワケじゃないんだ」

「ああ、それはそうだろう」

 それだけは、間違いないと思う。誓って、そう言える。

「……そっか。ならこれ、受け取ってよ」

 包装された袋を、翠は投げてきた。それをツカサは、起き上がって片手で難なくキャッチする。

「なんだ? これは」

「まーた、忘れちゃってる。今日は、ツカサちゃんの誕生日だよ?」

「あー……、そうだったな。サンキュ、開けていいか?」

「うんっ」

 気を使えない男の代表であるツカサは、ちょっと強引に袋を破ってみるのだった。目をキラキラさせながら、翠が上目遣いでツカサを見ている。そう、翠は中身に自信を持っているのだ。

 ――ツカサは、中の物を取り出してみる。ゲームソフトだった。

「おお!」

 ツカサはゲームが好きだ。特にPSPなんかはしょっちゅう使っている。そしてこれは、PSPのゲームソフトだった。

 ――さすが翠、というべきか。ツカサは思う。ツカサの趣味趣向を、よく心得て、

「翠……俺、これ既に持ってるぞ」

 心得ていなかった。翠はまったくといっていいほど心得ていなかった。なんせこれは、今まさにツカサがハマっているゲームなのだ。翠の前で明らかに何度もプレイしたはずのゲームなのだ。

 そうして、ツカサも気の利いたウソをつく技術などは持ち合わせていなかった。

「え、なんで!? 好きなもの聞いたら、モンハンって言ってたじゃんツカサちゃん!」

「好きなものと欲しいものは違うっちゅーねん!」

「そ、そんなぁ!」

 翠は再び崩れ落ちた。

「……何やってんのよ」

 うるさかったからか、リオナリアが様子を見にきていた。まるで1度登ったことがあるかのように、慣れた手つきで簡単に屋根に登る。そうして、リオナリアはツカサの近くに腰掛けた。

「大切にしなさいよ、それ。中野翠が、ようやく渡すことが出来たプレゼントなんだから」

 リオナリアは、ツカサにとって意外な台詞を吐いた。

「へ? てっきり、何やってんのよあんた達っつって、殴られるかと思ったぞ」

「あら、殴っていいのなら殴るけど」

「遠慮させてもらおう!」

「そう? ……と、まぁ冗談はおいといて」

 リオナリアは真剣な面持ちで翠を見つめた。

「中野翠。あんたの境遇には、正直同情する。けどだからといって、譲る気もないわ」

 リオナリアはゆっくりと立ち上がり、

「けど“あたしだけがここにいる”のは、やっぱりフェアじゃないし、それはもうどうしようもないことなんだけど、それでもあたしは、正々堂々と決着をつけたいと思う。夫婦宣言しておいてなんだけど」

 などと、ツカサにはさっぱり意味の分からないことを言うのであった。そうして、翠も同じくクエスチョンマークを浮かばせていた。

「……?」

 ツカサがなんのことだかよくわからない、という顔でリオナリアをじっと眺めていると、

「……ツカサ、悪いけどもう寝てて」

 急に、ツカサだけ追い出されてしまうのだった。

「……俺の屋根なのに……」

 ツカサは渋々、自分の部屋に戻り、電気を消した。


 ――。


「……そんなことって」

「本当のことよ」

 外は静かだった。

 中野翠は。リオナリアの言葉が、信じられなかった。けれど、それでも信じざるを得なかった。

 “女神”を名乗る、目の前のリオナリアが――。

 ――空に、浮かんでいたから。

「10日以内に、ツカサちゃんが……消える……?」

 ゆっくりと消化するように、翠はリオナリアの言葉を反証した。

「そうよ。女神であるあたしが言うのだから、間違いないわ」

「なんでそれを、私に……?」

「急に好きな人がいなくなったら、悲しいでしょう」

「……」

「あたしは、多分ツカサが好き。もしかしたらただの尊敬とか憧れかもしれないけど、でも、きっと、好きなんだと思う。だけど翠。あんたもツカサが好き。あたしは女神だから、あんたの気持ちくらい知っているわ」

「……別に私、ツカサちゃんのことなんて」

「そう、それならいいけど。あんたの人生なんだから、後悔したってあたしは知らない」

「……」

「もしあたしがツカサを守ることに失敗したら、」

 リオナリアはふわりと屋根に着地し、

「早ければ3日以内に消えてしまう場合だってある」

「……嫌だよ」

「あたしは後悔しないように生きる。だからあんたも、後悔だけは――しないで」

「……嫌だよ……」

「……。他の誰にも、言っちゃダメよ。もちろん――本人にも」

「……」

「おやすみなさい、翠」

 塞ぎこむ翠を残して、リオナリアは室内へと消えていった。

「そんなのって……ないよ……なんで……」

 翠は、泣いていた。

「なんで……ツカサちゃんが……」

 1人で。ずっと。翠は、泣いていた。

「そうか私……好きだったんだ……ツカサちゃんが……」

 その日の月は、満月で。

「なんで……今頃……」

 夜だというのに、ずっと明るいままだった――。


 ――リオナリア曰く。


 ツカサ消滅まで、あと、10日――。



 

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