プロローグ
こちらのサイトでははじめまして。ありんこと申します。普段は違うサイトで二次創作をしているのですが、一次創作してみたいなーということで、小説家になろうさんにお邪魔させていただきました。
少しでも楽しんでいただけたらと思います。
--恨んでいるからよ。
そう言って、彼女は無邪気に笑って見せた。
◇ ◇ ◇
世界を闇が覆わんとしている。魔物が跋扈する森や草原。希望は日々摩耗し、人々は次第に笑顔を強張らせていく。
しかしそれでも希望は潰えてはいない。魔導王国ウィンデルセンの国王より発布されたそれにより、人々は俄かに活気付いた。
--聖女召喚の儀式。
古より語り継がれる伝承。世界を闇が覆いし時、異世界より来たれり光の聖女が奇跡の御技を持って闇を祓う。
国王の厳命により王国各地から随一と呼ばれる魔導士を集め、その儀式は敢行された。
儀式は満月の夜に執り行われ、幾何学模様を何重にも重ねたような魔法陣を中心に十数名に及ぶ魔導士の魔力を搾り取るようにして成功を見せた。
満月の光よりもなお明るい光の柱が王城より天へと向けて走ったのを、城下町はもちろん、遠く離れた村や、果ては他国までもが目撃した。
誰もが安堵した。術式は成功した。光が収束するのと同時に魔法陣の中心を誰もが見遣った。
しかしそこに聖女の姿はなかった。
しんと静まり返る部屋に「馬鹿な」と震えた声が響く。
「馬鹿な!手応えはあった!何故聖女がいないっ!?」
その声を皮切りに魔導士達が口々に叫ぶ。
「見ろっ!!王都を覆う闇の霧が晴れている!聖女召喚は成功したはずだっ!!」
バルコニーへと駆け出した一人が縋るように空を指差す。光の柱の残光が、未だ空中をキラキラと漂っていた。
「静まれ」
決して大きくはない声に、室内は再びしん、と沈黙した。
「陛下……」
「……失敗、ではないのだな?」
深く静かな国王の問いかける声に、魔導士の一人が恭しく一礼する。
「は。魔法陣は正しく作動したものと思います。魔法に失敗していれば術者は何かしらの反発を感じるもの……、しかし私はそれを感じませんでした。感じたのは成功したという確かな手応え」
魔導士の言葉に周りから肯定の頷きが返る。国王は切りそろえられた顎鬚を一撫でし、ふむ、と思案の声を零した。
「……ならばここではないどこかへ召喚されたと見るべきか」
国王の言葉にざわりと魔導士達が騒めく。
「捜索隊を編成しろ。異世界よりお越し頂いた聖女様に何かあっては面目も立たん。まして事は国の……いや、世界の一大事。悠長に構えていては世界の存亡に関わる」
その一言に、魔導士や壁際に控えていた兵士が部屋を駆け出す。
こうして、すぐ様国中に聖女捜索のお触れが届く事となる。
そうして月日は流れ、聖女召喚より十五年。
世界は依然として闇に蝕まれつつある。十五年前に聖女召喚が成功した証のように闇の深まる兆しこそないものの、それでも空には常に薄く暗い霧が立ち込め、空の色を汚している。
未だ、聖女は見つかっていない。
十五年にも及ぶ歳月の中、国王は代替わりし、人々の記憶からも聖女召喚の儀式の事は薄れつつある昨今。それでも、細々とではあるが依然として聖女捜索は続けられていた。
さて、物語は魔導王国ウィンデルセンの東の国境沿いにあるタンニ村から始まる。
タンニ村は総人口百名ばかりの小さな集落だ。魔導に栄えたウィンデルセンには珍しく狩りを生業とする少数部族で、その起源は古い。住居は全て木の上にあり、幹を中心に板を貼り、蔦を使って補強してある。屋根は藁を編んだもので、木と木の間には吊り橋や縄をかけて住居間を行き来する。なんとも野性味溢れる集落である。
そのタンニ村で、今日十六歳の誕生日を迎える少女がいた。名を、セトと言う。
魔導王国ウィンデルセンでは成人に達するのは二十歳とされているが、タンニ村は十六歳になった若者を成人に達したと見る風習がある。国に定められた法がある以上、未成年には変わりないが、それでも古い風習を抱えた集落ではままある事だ。セトは今日の誕生日をもって、村の大人達の仲間入りを果たす。
村を一歩でも出ればまだまだ子供として扱われる事には変わりないが、それでも村では一人前として認められる。十六歳とはタンニ村の住人にとって一つの節目なのだ。
そして、村には成人の儀式というものがある。
村の北の端に位置する御神木と言われる巨大樹に生まれの証を返す事。
生まれの証とは子供を授かった両親が十月十日かけて編む小さな帯で、その模様は個々で違う。各家によって伝統の模様があり、またそれを一世代毎に細々と変えていく。父母の両家の模様を取り入れ、そして子供の幸いを祈り両親が考えた新しい模様を織り込んで、生まれてきた赤子の手首に巻くのだ。
この帯が不思議なもので、成長と共に徐々にその大きさを変えていく。生まれてから十六歳までの間、その結び目が解ける事はなく、また締めつける事もない。狩りを生業とする部族と言えど魔導王国に生を授かったからか、ほんのりと魔力を帯びているのだ。その魔力を起因としているのかは定かではないが、十六歳の成人の儀式で御神木に登るまではどんな事があってもその手首から離れる事はない。
帯を織る糸は御神木の樹皮から作る。古く落ちたそれを水でふやかし繊維状にして叩き、乾燥させてはまた水に戻すという作業を幾度か繰り返し、徐々に糸を縒って、ある程度の束が出来たら染色をする。その工程が帯に魔力を宿すのか、それとも御神木のものなのかは誰にも分からない。もしかしたらその両方かもしれない。
タンニ村の住人は皆口々に言う。生まれてから肌身離さず、それこそ身体の一部と言っても過言ではない帯を返すのは言葉に表せない寂しさがあると。しかし、御神木の枝にそれを巻きつけた時の清々しさもまた言葉に言い表せないと。その胸に宿るのは決意かもしれない。覚悟かもしれない。それは人それぞれ違うだろうが、それでも昨日までとは世界の色が変わるのだと、手首に帯を巻いていない人達は言うのだ。
生まれの証を御神木に返し、生きる証を御神木に立てるのだ。--成人の儀式とはそういうものだ。
セトは手首に馴染んだ帯をそろりと撫でながら、北を見やった。
村のほぼ中央に位置する吊り橋に乱雑に座って朝の訪れを今か今かと待ちわびる。森の中にあるタンニ村の朝は遅い。木々に遮られ太陽がある程度昇らない事には光が差し込んでこないせいでもあるし、狩りは基本的に夜に行われるためにタンニ村は全体的に朝が遅いのだ。
例外も、もちろんある。狩りに出ない子供達やそれを世話する者達は狩りとはまた別にやる事があるため、それなりに早起きだ。しかし、その者達よりも先に起き出したセトは、静まり返った村の中心で誰かが起きだすのをひたすらに待っていた。
なぜなら今日はセトの誕生日である。今すぐにでも生まれの証を御神木に返しに行きたいところだが、それは出来ない。成人の儀式は見届け人が必要なのだ。
本来、見届け人は両親のどちらか、というのが村の習わしであるが、残念ながらセトの両親は他界している。代わりとなる見届け人が必要なのだが、それは五年前に成人した村長の息子であるアステロが引き受けてくれた。だからセトはアステロが目覚めるのをただただ待っている。
セトは北に向けていた視線を頭上へとやった。枝葉の間からはようやく陽光が差し込んできたところで、民家からも朝食の煙が換気口から登っている。そろそろアステロも起きただろうかと、座った姿勢のまま吊り橋からぴょんと飛び降りると、近くの枝から垂れ下がっている縄を掴んでするすると降りていく。そのまま眼下の板張りの通路に降り立って、螺旋状に傾斜を描くそれを登っていく。村長の住まう家は村の中でも一等高い場所にあり、そこへ続く通路は一つしかない。
魔導王国ウィンデルセンの東の地域は気候が穏やかで、その中でもタンニ村は一年を通して温暖な気候に恵まれている。家屋に壁というものはなく、幾重にも垂れ下がった布で外と内とを区切っている。また、雨が降っても大丈夫なように藁を編んだ屋根は長く取ってある。
軒下に出来た影に入り込んでセトは中の気配を探る。朝餉のいい匂いと人の動く気配に、セトは声をかけた。
「おはようございまーす!」
挨拶と同時に布をめくって中に入る。玄関用の布はどの家も朱色と決まっているので、どこから入るか迷う事はない。
「あらセトちゃん、おはよう」
村長夫人であるマーシィが囲炉裏から顔を上げて朗らかに微笑んだ。
樹上生活を基本とするタンニ村であるが、生活基盤はしっかりとしている。床を二重構造にする事でその段差を利用して囲炉裏を作り調理する事が出来る。水は流石に川まで汲みに行かなければならないが、貯水装置も各家にあるので困ると言う程でもない。
村長宅の本日の朝餉は干し肉で出汁を取った雑炊のようだ。それを人数分器に盛っている最中だったマーシィは「ごめんなさいね」と眉尻を下げた。
「まだアステロもうちの人も起きてこないのよ。まったく、朝に弱いったらありゃしないよ」
「気にしないで、マーシィおばさん。わたしが早く起きちゃっただけだから。まだ早いって分かってたんだけどさ、じっとしてるの苦手で」
ふうとため息を吐くマーシィにセトは慌てたように手を胸の前で振った。まだ村全体が起き始めたような時間だ。人の家を訪ねるのには早い。それでも夜明け前に目が覚めてしまったセトは落ち着かない気持ちのままに村長宅に来てしまったのだ。
「ふふ、アステロとは逆だねぇ。あの子は前の日にそわそわとして夜寝れなかったのさ。おかげで成人の儀式だってのに昼まで寝過ごす羽目になって、うちの人とこいつは大物になるか単なる馬鹿かって話したもんさ」
懐かしいね、と目元を和ませ笑うマーシィにセトはほっと胸を撫でおろす。
「セトちゃんもいよいよ大人の仲間入りなんだね。お誕生日おめでとう」
「あ、ありがとう」
祝いの言葉にセトはふいと顔を伏せる。マーシィはそれを恥ずかしがっていると解釈したのか気にする事もなく、朝食の準備を続けた。
「まあ、でもアステロももう起きなきゃいけない時間なんだよ。セトちゃんの見届け人になると言い出したのはあの子なんだからね。セトちゃん、起こしてきてくれるかい?」
「あ、う……うん!分かった」
弾かれたように顔を上げたセトは木の幹に沿って作られている螺旋階段を駆け上る。村長宅は二階構造で、螺旋階段の途中で分岐すると一つは村長夫妻の部屋、もう一つはアステロの部屋となっているのだ。
「アステロー?」
階段を登り切ったところで、セトは目の前に垂れ下がる藍色の布越しに声をかけた。壁のない住宅において、もちろん部屋の仕切りも布である。出入り口となる布の色は村全体で統一されているが、屋内においては個人の好みが反映されている。
控えめな声量に、中の気配は身動ぎ一つしていない様子だ。耳を澄ませばすーすーと寝息ばかりが聞こえてくる。
「アステロ?入るよ?」
しょうがないとばかりにセトは一つため息をもらすと布をひょいと上げ室内へと入った。
板を組み合わせた床部分には毛の短いラグが敷かれており、家の支柱となる木の幹から伸びた枝からは縄でぶら下がる吊り棚。床の一角は人一人が通れる程の正方形の穴が空いており、そこから縄梯子が眼下へと続いている。勝手口のようなものだ。これがタンニ村においての居住空間の基本の形である。
当のアステロと言えば、室内で一際大きい二本の枝にかけたハンモックですよすよと安らかな寝息を立てている。ハンモックもまたタンニ村の基本的な就寝スタイルだ。
薄手の掛け布を頭まですっぽりと被って、右手右足だけがぷらぷらと揺れる様子がセトの目に写っている。セトはそろりとハンモックに近づいた。
「アステロー。朝だよー、起きてー」
ほんの少しハンモックを揺らす。縄のしなる音が響くがアステロが起きる気配はない。セトはうーん、と唸り声を上げる。
成人に達した若者は狩りの主戦力である。昼夜逆転とまでは言わないが、それでも夜遅くまで働いているのだ。ましてアステロは村長の息子だ。狩りの指揮をするのも彼の役目であるし、成人から五年も経てば自分より歳下の成人成り立ての者達に教える立場でもある。先達には遠く及ばないまでも中堅所としてアステロが日々忙しくしているのをセトは知っている。見届け人に名乗り出てくれたとは言え、ここで起こすのはどうしても憚られた。と、セトの思考を読んだように階下から声が響く。
「セトちゃーん!アステロは叩き起こさないと何をしたって起きないからね!ハンモックから落としてやんなさい!!」
マーシィの言葉にセトは苦笑をこぼす。叩き起こすというか叩き落とさないと起きないのか。
「見届け人をやるってんで昨日の狩りは免除されてるんだから!遠慮しないでやっちゃいなさい!!」
さらにマーシィの言葉は続く。まあ、母親がそう言うのならそうなのだろう、とセトはハンモックを両手で握りしめた。
さすがに成人男性が寝ているハンモックをひっくり返すのは骨が折れる。しかし、そこはハンモックだからこそ、セトでも充分に可能だった。振り子の要領で何度かゆっさゆっさと揺らす。その間にもアステロが起きる様子はないのだから、ここまでくるといっそ清々しい。セトはふん、と気合を入れると思いっきりハンモックを引っ張り上げた。
バタン、とアステロが転げ落ちると、ほんの一瞬村長宅を支える木の幹が揺れた。はらりと部屋に一枚二枚と葉が落ちる。セトは一仕事終えたとばかりに手をパンパンと叩いてふうと、額の汗を拭う仕草をした。
「お……?」
「アステロ、おはよう」
未だ揺れるハンモックの下で掛け布を体に巻きつかせたまま大の字で転がるアステロの顔をセトは覗き込む。寝起きだからか、ハンモックから落ちた事を脳みそが処理しきれていないのか、アステロは目を点にしてセトを見上げた。
「あ?……なんでセトがいるんだ?」
寝起き特有の掠れた声ではあるが、それでも言葉自体はしゃっきりとしたもので、むくりと上体を起こすとアステロはきょろりと辺りを見回す。俺の部屋だよな、と首を傾げているアステロにセトは腰に手を当ててもう一度おはよう、と言った。
「ん?ああ、おはよ。で?なんでお前、俺の部屋にいるんだよ?」
「なんでも何もないよ。約束したでしょう?」
ふんす、と鼻を鳴らすセトにアステロは首を傾げてから目を右へ左へ動かす。そうして幾許かの間をおいて、ああと合点がいったように頷いた。
「にしたって早いな」
「う……それはごめん。反省してます」
にやりと笑ったアステロに、気まずげに目を逸らしつつセトはこほんと態とらしい咳払いをした。
「でもおばさんが起こしていいって言ったし。朝ごはんもう出来るみたいだし」
うろ、と彷徨った視線のままにセトはじりじりと部屋の入り口に後ずさると、そのまま踵を返そうとする。充分すぎる程、他人の家に訪ねるには早い時間だと自覚している。
「セト」
そのまま階下まで逃げを打とうとするセトに、アステロは欠伸交じりに声をかけた。
「な、何……?」
「誕生日、おめでと」
藍色の布に手をかけて頭を中途半端に室外に出した状態でセトはぴたりと止まった。恐る恐る振り返って、言われた言葉を反芻する。
「あ、……ありがと」
「朝飯食ったら行くか。どうせおふくろの事だからお前の飯も用意してるだろ」
言うだけ言って、アステロはしっしっとセトを追い払う仕草をする。着替えるから出て行けという事なのだろう。事実、アステロはセトがいるのもお構いなしに上着に手をかけている。
今度こそ藍色の布をくぐると、セトはふう、とため息をこぼした。何もアステロの半裸に焦った訳ではない。五年という歳の差こそあるが、幼馴染のようなものだから今更感がある。幼い頃に両親を亡くしたセトはある程度の年齢までこの村長宅で養ってもらっていたので、それこそ幼馴染というよりは兄弟という間柄に近い。兄貴分の半裸なんて数年前まで毎日のように見ていたのだから。
セトのため息は、他に理由があるのだ。
(……おめでとう、かぁ)
セトは自分の誕生日がただただ、嫌いなのだ。
「しっかし、随分と黒くなったよなぁ」
朝食はアステロが言ったようにセトの分も用意されていた。それを恐縮しつつありがたく頂き、食べ終わるとセトとアステロは御神木を目指して村長宅を後にした。
御神木はタンニ村の集落からは少し距離があるため、二人は今地面を歩いている。動物の皮を編んだサンダル越しに湿った土の感触を感じていると、アステロがおもむろに口を開いた。
「……ああ、髪?」
セトは顔の横にかかる髪を一房ひょいと取って、アステロの突然の言葉に首を傾げた。短く切り揃えられた髪は自分では確認しづらいが、それでも視界の端に映る髪は確かに黒い。
タンニ村--延いてはウィンデルセンでは珍しく黒髪黒目という容姿をセトは持つ。さらに言えば、タンニ村の住人は褐色とまではいかずとも健康的に日焼けした浅黒い肌の色をしているが、セトはあまり日焼けしない性質なのか色白で、配色こそ地味だが村の中では目立っていた。アステロなどはタンニ村の住人らしく日焼けした肌に赤毛に瞳の色は藍色と、実に派手な見た目をしている。他にも銀髪やら碧眼やらやたらと見た目が派手な人種が多いのがウィンデルセンの特徴の一つだ。黒髪がいない訳でも黒目がいない訳でもないが、髪と目の色が同じ者は、少なくともタンニ村にはセト以外にいない。
そしてセトは随分と小柄で同世代の同性の中でも頭一つ分は小さい。見た目だけならセトがもう成人するなどと誰も思わないだろう。また、襟足で切り揃えられた髪と前髪で隠そうともしないキリッとした眉毛のせいか、女の子というよりは少年のように見える。そのせいで小さい頃は女の子達には可愛がられたり、男の子達にはからかわれたりと、忙しい毎日を過ごしてきた。
「昔は今程黒くなかったよな?」
「確かにね。ここまでじゃなかった気がする」
セトの髪は何も完璧な真っ黒という訳でもない。旋毛の辺りの髪なんかはよくよく見ると茶褐色である。成長するにつれて髪がどんどんと黒くなっていっているのだ。
「ま、別に髪の色なんてなんでもいいよ」
じわじわと髪の色が変わっていっているというのに、セトはそれを歯牙にもかけない様子で言い切った。
「ま、それもお前が『特別』だからなんだろうな」
興味なさげにアステロが呟く。それに憂鬱そうにセトはため息を吐いた。誕生日が嫌いなように、セトは自分が『特別』である事が嫌いだ。ふと、手元に視線を落とす。左手首には生まれの証。そして、その手に持たれているのは手首に巻かれたものとは模様の違う、解れて引き千切れたもう一つの生まれの証だった。この引き千切れた生まれの証こそが、セトの両親がセトのためにと織った帯なのだ。
「特別、ねぇ」
ぽつりとセトが呟く。地面を踏みしめながら、思い出すのは出発前の村長の言葉だ。
--お前はきっと『特別』なんだよ。セト。
優しい、慈愛に満ちた声だった。それでも、その言葉を受け入れるつもりはセトにはない。
セトは一度、死んだのだという。いや、こうして生きているのだから生死の境を彷徨ったと言った方がいいのかもしれない。そう村長は口火を切った。
タンニ村で産まれた赤子は満一歳の誕生日に洗礼を受ける仕来たりがある。松明を燃やして夜の森を練り歩き、御神木へと挨拶に向かうのだ。
夜の森は本来狩りの場だ。獣を寄せ付けないために、狩りに出る若衆と村長、赤子を抱えた夫婦が行列を作って暗い森を行く様は幻想的であるが、それ以上に危険を伴う。
行進は警戒しながら進むためにその歩みは遅い。それでも獣は本能的に火を恐れる性質があるため、この行進に獣が襲いかかってくる事など早々ない。その割合は数年に一度という塩梅だ。
なぜ生後一年の赤子をこのような危険な行進に参加させるのかと言えば、狩りを生業とするタンニ村ならではと言えよう。タンニ村の狩りは夜行われる。即ち、タンニ村の住人は夜の住人。夜の森こそが彼らを生かしている。だからこそ、この洗礼をもって正式にタンニ村の住人となるのだ。
セトの洗礼も慣例通りに行われた。狩人の若衆を前後に据え、村長夫妻の後ろをセトの両親が続いた。行進は粛々と進み、御神木を目の端に捉えた刹那、空を光が覆ったのだという。
その光は、ほんの一瞬だった。だが、闇の深い森の暗さに慣れた者達の視界を悉く焼いた。皆、息を飲み、目を抑え、行進の隊列は乱れた。
一瞬の、しかし決定的な油断だった。
--視界が白一色に焼かれる中、獣の足音、そして悲鳴が聞こえた。
視界が戻って最初に見たのは、地獄の光景だったと村長は言った。
五匹の群れをなしたシルウァウルフによって、若衆の幾人かが手傷を負わされ、そうしてセトの両親は致命傷を負わされたいた。そして母親の腕の中、硬く閉ざされたそこから伸びる幼い腕を今しも噛み千切ろうとするシルウァウルフを斬り伏せたのが村長だった。
その時にはすでに遅く、母親は息絶えていたという。胸に抱え込まれた赤子もまた、深く穿たれた小さな腕からとくとくと赤い血を流していた。助からないと、もう手遅れなのだと村長は思った。
--奇跡だと思った。
村長はそう、ぽつりと呟いた。
助からないと、もう息絶えたと思った赤子の小さな指が微かにぴくりと、だが確実に動いた。
そこからは必死で、実はあまり覚えていないそうだ。
--赤ん坊だったお前の止血をして、私と妻は村へと駆け戻った。お前の両親の亡骸は若衆に任せて。
そう言いながら、村長は卓の上に破れてほつれた帯を置いた。所々に赤黒いシミがついているが、それが生まれの証だと、一目で分かった。
--お前の生まれの証はシルウァウルフの噛みつかれた時に千切れてしまった。例えどんな事があろうとも外れないこの帯が千切れてその腕から取れたという事は、本来ならお前の死を意味する。
そう。生まれの証は柔らかくしなやかな素材であるが、魔力を帯びているからか、成人の儀式で生まれの証を御神木に返すまでは不思議とどんな事があってもはずれる事はない。それは魔物に外傷を与えられたとしてもだ。例外があるとすれば、持ち主の死。それだけだ。
赤子の手首を彩っていたそれが手首と共に食い破られたとしても、赤子が生きてさえいれば生まれの証がその身から離れる事はない。だからこそ、セトは一度死んだのだと言われた。
--今お前の手首に巻かれているのはただの止血帯なのだよ。
それは、襲われたその場で急拵えの止血をした後、村で適切な処置のために巻いたものだという。これがまた特殊なもので、生まれの証と同様に御神木の落ちた樹皮から作られる。
生まれの証と違うところと言えば、模様がない事。そして、染色ではなく薬を染み込ませている事だ。天然の薬草から成る薬を染み込ませたそれは白色で、陽の光の下だと淡く薄い青に見える。
だがセトのそれは薄い青とは言い難い色をしている。
--お前の血が滲み、染み込み、止血帯はお前の生まれの証となった。
どう染み込めばそうなるのか、セトの生まれの証は赤紫をベースに花が幾重にも連なったような模様を描いている。その模様を型どる線が言われてみれば薄い青、と言えなくもない。
自分の手首に巻かれたそれの色が、己の血と薬とが混ざった色と知ってセトの顔には青筋が浮かんだ。嫌悪、と言うよりは知らされた事実があまりにもあんまりだったので、げんなりしていると言った方が正しい。
--お前はあの日、生まれ直したのだよ。きっとね。
成人の儀式を済ませるか死を迎えるか以外では決してはずれる事のない生まれの証は、人生に一度しか結べないし、人生に一度しか解けない。しかし、セトの生まれの証は一度なくなり、止血帯がその血を吸って新たな生まれの証となった。一度死んだという言い回しも、生まれ直したという表現にも、セトは頷いた。
試しにと、セトは己の手首から止血帯だった生まれの証を取ろうとして、しかしそれが叶わない事を知る。確かに、止血帯は生まれの証と成っているようだ。
後から知った事実だが、と村長の話は続いた。
洗礼のための行進の、その視界を焼いた光は聖女を召喚するための光だったらしい。そう言って、村長は複雑な表情を見せた。世界を救うために聖女を呼び寄せる光が若い夫婦の命を散らし、幼い赤子に致命傷を負わせたのだからそれも当然だ。さらに言えば、聖女は確かに召喚されたらしいが、その行方が分からず十五年経って尚捜索を続けているというのだからその思いに拍車をかけているのだろう。
眉尻を下げた村長の顔は一気に老け込んだように見えた。はふ、と吐き出された息はこの十五年間胸にしまい続けた痼りをようやく手放せると、如実に語っている。事実、村長は肩の荷が下りたと言った。そうして、セトには申し訳なさそうに「お前には気の重い話だったね」と謝罪を口にした。
――さあ、生まれの証を返しておいで。
そうして今、セトは手首に巻かれたそれと、手に持った引き千切れたそれを御神木に返すために、森の中を歩いている。
(でもね、村長)
視界に御神木を捉えて、セトは心の中でそっと言葉をこぼす。
(そんな事……とっくに知っていたよ)
それこそ、十五年前から。
不定期連載、鈍足更新となりますが暇つぶしになれば幸いです。
ほんの少しの人だけでも続き気になるな、と思ってもらえたら嬉しいです。
順調に進めばその内恋愛絡めたいなーと思いつつ、のんびりやって行きます。
不慣れなのでタグとかよく分かってないので、ここ違うよーというのがありましたらご指摘お願いします。
ここまでお読み頂きありがとうございました。