苔の一念
宇宙歴で10万年を超えている。
人々の暮らしは、多様化していた。
その前半生は、ほぼ両親とその教育方法で
決まる。本人にどれだけ才能があっても、
ものごとの判断がつくまでは、自分で道を
選ぶことが難しい、という意味だ。
ディサ・フレッドマンも、そういう意味では
英才教育を受けてきた、と言っていいだろう。
両親は、自分たちの経験を踏まえたうえで、
なるべく安いコンテンツを組み合わせて、
生まれてすぐから教育を始める。
多数の言語を早期に学ぶことで、語学に
関しては、はじめのうちは他の子どもよりも
遅れていた。他の科目も、自分が納得する
までゆっくり学ばせる。
10歳を過ぎたあたりから、学力が加速
し始めた。18歳までの一般過程を一気に終え、
大学の教養課程も終えて、研究室への所属を
開始。
地上監視員の資格も得て、研究を続けながら、
16歳で職も得ることができた。比較的早い
ほうではあるが、最年少地上監視員という
わけでもない。
人の一生は長くなっていた。それは、寿命が
単純に伸びた、というのも少しあるが、
体力が最高の状態、というのを長期間維持
できるようになったからだ。
それもあって、大人に成長するまでが多少
いい加減な生き方であっても、そのあとで
取り返せる。幼少期にそれほど教育を重視し
ない親が多数占めるのも、そのへんに理由
がある。
最も効率の良いやり方が、ある程度見つかって
いるにも関わらず、選ばないのだ。それは、
政治や経済、健康や医療の場でもそうだ。
太陽系のすべての国々で、政治も経済も、
人々の生活スタイルも、効率よく優れたものに
収束していく、という予測があったが、
ことごとく外れた。
人々の中には、情報があるにも関わらず、健康
にいいものが安価に手に入るにも関わらず、
不健康なものを選ぶ。優れているかどうか
に関わらず、自分が気に入ったものを選ぶ。
投票する。
多様化というのは人類の体力面でも同様で、
義務教育前は比較的すべての幼児に運動を
させる傾向にあるが、それ以降は選択性だ。
すべての人は、一人乗りの移動ホバーに乗り、
まったく体を動かさなくなる、という予想も、
すべての人が健康になって運動能力の
平均値が格段にあがる、という予想も外れた。
体を動かさないひとはとことん動かさないし、
動かすひとはとことん動かす、そして、その
中間も多くいる。
生涯の中で体を動かす時期、そうでない時期も
まちまちで、40歳から運動を始めて
世界トップクラスのアスリートになる人間も
珍しくない。
ディサ・フレッドマンは、学問も運動も
仕事もやる今の生き方が、それほど嫌いでは
なかった。
かと言って、この暮らしを一生続けるかと
いうと、その約束もできなかった。
楽しいうちは続けるのだと思う。
今はとにかく、苔の研究なのだ。いや、
裸眼、あるいは顕微鏡で苔を眺めている時間
がとても好きだ。
地上監視員の仕事は、今のところ、その地域の
苔類と高山植物の生態をチェックする、という
ものだ。
まだ、なり立てなので、今後チェックする
種類を増やすかどうかは検討中だ。担当者が
欠けている種類の中で、自分が好きそうなのが
あれば立候補するつもりだ。
同時に、大学の研究室にも所属して苔の
研究を行う。苔類はだいたいすべて好きなの
だが、一番好きなのはホンモンジゴケだ。
その品種改良で生まれた金属鎧苔の、さらに
品種改良で生まれたのが、移動住居ラウニでも
テストしている硬化苔だ。
自分の研究やアイデアが実用に移されるかも
しれないというのは、とても楽しい。
それも、自分が一番好きな苔の進化系を
用いてなので、なおさらだ。
研究の作業は、それほど難しいものではない。
対象の苔の生息範囲のマップを作製する。
地域のことではなく、温度や湿度、気圧、
だけでなく、通電や振動、栄養環境を変化させ
ながら、枯れ始める限界地図を作製する。
平行して、品種改良も行う。既存の品種や、
新しく生まれてきたものについて実験を行い、
気になるものは精度を上げてやり直したりする。
そういった基礎研究は、やり方さえ掴んで
しまえばあとはひたすら積み上げていくだけ
なのだが、実用化の話は簡単ではない。
たいてい研究者自身は研究を積み上げるだけで、
何に使えるかは、学会などで結果を発表して、
たくさんの人からアイデアを出してもらう
しかない。
ディサのように、色々なところに出かけて
いろいろな世界に触れる機会の多い人間は、
まだ比較的実用化のアイデアも出やすいかも
しれないが。
バンコクという街に寄り、食料や水等の
補給を行う。ここのマウントポイントは、
都市フレームという機能がついており、
電気、上水や下水はそれに接続して自動で
補給または処理する。
ここから、コケ類などの調査対象を探査しな
がら、南へ向かう。