マリカとの別れ
「俺が、そんなことを……」
昔の自分に勇気づけられるなんて、何だかおかしくて笑えてしまう。
「私は、あの日の貴方に救われたの。だから、ここから逃がしたいって思った。あんなところに閉じ込められていたら、明るくて優しかったバドがどんどん消えていっちゃうから」
マリカ嬢は、にかっと微笑みかけてきてくれる。
造り物の笑顔でも、むすっとしたリスのような顔でもない表情は、思わず見惚れてしまうくらいにキラキラと光り輝いていた。
そっとマリカ嬢の右手を取り、両手で包み込んでいく。
突然の行動に驚いたのか、彼女はびくりと震えてうつむき、顔を赤く染めはじめた。
「俺のために、本当にありがとうございます。俺がいなくなることで、お慕いする方と上手くいくよう、願っています」
ぎゅっと握って、心から強く願いを込めたのに、マリカ嬢は勢いよく手を振り払ってきた。
「今しがた十年ぶりくらいに会えて、そのままこっぴどく振られたわよ!」
さっきまではいじらしく見えたのに、今度はいつもよりも更にむすっとした顔をしていて。
ツンとそっぽを向いた彼女は、刺々しく言葉を放ってきた。
「それは……見る目のない人だ」
こんなにも優しくて、ステキな人なのに、と思い、憤慨しながらお伝えすると、マリカ嬢は目を丸くして、噴き出すように笑いだす。
「ホント見る目なさすぎだと思う。鈍感なのを好きになっちゃった私もね」
笑いが止まらず涙を一粒浮かばせている彼女は、なぜか呆れたような晴々としたような、不思議な顔をしていた。
――・――・――・――・――・――・――
笑いの波がおさまったマリカ嬢は、ふうと小さく息を吐き、それまで笑顔だった表情を、わずかに険しくさせていった。
「そういうわけで、森は絶対ダメ。海ならエヴァンズの息がかかってない船乗りがいるかもしれないから、そっちのほうが希望はあるわ。それで、これあげる」
「これは?」
肩にかけられた、長くておかしな臭いのするボロ布に首をかしげる。
「浮浪者のフード付きマント。さっき町で売ってもらったの。その格好だと目立つでしょ」
言われてみれば、確かにこの格好では貴族だと丸わかりだ。
逃げる先のことといい、マントのことといい、マリカ嬢がいなかったら、どうなっていたかと、背筋に悪寒が走った。
「マリカ様、ありがとうございます」
「マリカ、でいいよ、敬語もいらない。私もさっきから口調砕けてるしね」
にっ、とマリカは笑う。
ツンとした顔よりもこっちのほうが可愛いのに、とそんなことを思いながら、うなずいた。
「わかった。マリカ、本当にありがとう。この恩は一生忘れないから!」
羽織ったマントのボタンを止めてフードをかぶっていく。
再び逃走の準備を進めていく途中で“そういえば”と、久々にマリカに会った日のことを思い返す。
確か、マリカも貴族をやめたいと言っていなかっただろうか。
以前、彼女がエヴァンズの屋敷に来た時“自分は自分だけのものじゃない”“貴族の子どもなんてやめられたらいいのにね”と言っていたように思う。
「なぁ……マリカも来る?」
気付いたら、そう尋ねていた。
この先の道は険しいし、二人で逃げるのは大変かもしれない。
そう思ったが、マリカも辛い思いをしているのなら、一緒に連れて行ってやりたいと思ったのだ。
だが、マリカは目を丸くして嬉しそうに微笑んだ後、そっと首を横に振ってきた。
「私にはまだ、いまの生活は捨てられないし、覚悟も決められない。それに、ここでやりたいことがあるから」
「もしかして、俺とじゃ、不安?」
「ううん……そういうことじゃないの。私は大丈夫だから、バドはバドの道を進んで。貴方が無事に逃げられたら、私の希望にもなるから」
マリカは俺の手を強く握ってきて、真っ直ぐに目を見つめてくる。
森のようなモスグリーンの瞳がどこまでも澄んでいて、吸い込まれてしまいそうだ。
「希望……って?」
視線をそらせず、そのまま疑問を尋ねると、マリカは両方の口角を柔らかく上げて、目を優しく細めてきた。
「私も苦しくなったら海へ出てみよう、って、逃げ場所があるんだって思えるでしょ? だから、絶対に捕まっちゃだめ」
「……わかった。約束するよ」
自分自身の命運だけでなく、マリカの希望も抱えたままうなずき、マリカと俺は、生垣の向こうにある階段へと出ていった。
「ねぇ、バド」
くい、と袖を引かれて、反射のように振り返る。
それとほぼ同時に一気に距離が近づき、イチゴに似た甘い香りとともに、頬に柔らかい感触を感じた。
「ちょ、いきなり何!?」
あまりにも突然過ぎる行動に、わたわたと慌ててしまう。
なぜかマリカは俺の頬に、キスをしてきたのだ。
されたのが唇ではなかったとはいえ、初めてされたキスに動揺がとまらなくて、視線が泳いでいく。
だが、一方のマリカは堂々としたもので、いたずらっぽく笑っており、楽しそうに口を開いた。
「無事に出港できるおまじない! さ、行って」
マリカは詳しく説明してこようともせず、俺の身体をぐいっと押してくる。
その勢いのまま、転ばないように階段を数段駆け降りる。
振り返ると、マリカは目に涙を貯めており、“早く行け”と手で示してきた。
“ありがとう”と口を動かして微笑むと、マリカも同じように笑顔を向けてくれる。
マリカの想いに応えなくちゃいけない。
アルバートの勇気を無駄にしちゃいけない。
自分のために生きようと決めた、あの日の俺を忘れちゃいけない。
自身に言い聞かせながら、振りかえらずに階段を駆け降りていく。
屋敷から離れていくごとに、前を向こうとする気持ちがどんどん強くなる。
見た目も何も変わってなんかいないのに、これまでの自分とは違う自分に変わりつつあるような気がした。
最初の角を曲がった途端、後ろからどこまでも聞こえるような大声が聞こえてくる。
それは、先ほどまで一緒にいたマリカの声だった。
「バド様はここから森へと駆けて行きました! 早く森へ!!」
何度も何度も、喉が枯れそうになるほどに、叫び続けている。
年頃の女の子があんな風に大声を出すのは、みっともないことだとされているのに、だ。
貴族にとっては何より大事な自分のプライドよりも、マリカは俺の未来を優先してくれたんだ。
喉元から溢れ出てくる想いを堪えようと、口元に力を入れながら、ひた走る。
マリカがいつもツンとして、俺を嫌うような態度を見せてきたのも、何かにつけて突っかかってきたのも全部、変わってしまった俺のためで、次第に自分を失くしていく俺を元に戻すため。
勝手に誤解して、勝手に苦手だって思っちゃってごめんな。
ありがとう、と、胸がいっぱいになってしまい、涙が次から次へと零れ落ちてくる。
貴族じゃなくてもいいと言ってくれる人がいる。
俺のままでいてほしいと言ってくれる人がいる。
それが心強くて、嬉しくて。
この町を出るんだという気持ちが更に強くなっていく。
「絶対に、捕まるわけにはいかない!」
視界がぼやけるほどに滲んでくる涙を必死になってぬぐいながら、まっすぐに港へと駆け続けたのだった。