バドとマリカ
「静かに! ねぇ、アンタ一体何したの!?」
ひそひそと尋ねてきたのは、聞き覚えのある声だった。
起き上がって座り込み、身体についている葉を払いながら視線を送ると、そこには黒髪の娘、マリカ嬢がしゃがみこんでいた。
「どうしてここに?」
「それ、私が聞きたいわ。てっきりずっと閉じ込められてる、って思ってたんだけど。エヴァンズ家に行く途中で“長男が消えた”って騒ぎになってて。もう、わけがわかんない」
マリカ嬢は呆れた様子で、眉をひそめながら聞いてくる。
「閉じ込められ続けていたので、逃げだしたんです。広い世界に憧れて」
満面の笑みで微笑みかけると、マリカ嬢は“馬鹿じゃないの”と言わんばかりに頭を抱えていて。
そんな彼女は、ちら、とこちらに視線を送って来て、そのあとに何故か両ひざを抱えながらはにかむように笑っていた。
「ま、それもいいんじゃない? ようやく帰ってきてくれて嬉しいしね」
その言葉の意味はよくわからなかったけれど、ここで雑談をしている暇などあるはずもなく、生垣の向こう側に向かおうと、彼女を残して地面を這おうとしていく。
すると、首根っこを掴まれ、引き戻されてしまった。
「アンタって、ほんっと馬鹿なんだから! 山なんかに逃げてごらんなさい。どこもかしこもエヴァンズ領。鷹を使った手紙で一斉に包囲網敷かれるわよ!」
人差し指を顔に突き付けてくるマリカ嬢に、たじたじとしてしまうが、彼女の意見はもっともなことだった。
家から逃げることとその手段ばかり考えていたせいで、そこから先の計画はお粗末なものだったのだ。
「そうしたら、海に行くしかない……か」
あごに手をあてて考えている途中で、はたと思い、口に出す。
「マリカ嬢は、どうして俺の逃走を手伝おうとしてくれるんですか?」
――・――・――・――・――・――・――
「それは……」
マリカ嬢は口元を曲げながら、もじもじとしている。
ひょっとしたら、俺にあまり聞かれたくない話なのだろうか。
「あ、わかりました! そういえば、慕う方がいるっておっしゃってましたよね。婚約解消になるのはマリカ嬢にとって、望ましい事でしょうし」
きっとそうだ。そうに違いない。
「マリカ様の恋のためにも、頑張って逃げます」と微笑みかけると、彼女はまたむすっとした顔をして睨みつけてきて。
よかれと思って言ったことなのにイラつかれるなんて、俺にはもうどうしようもない。
うんざりだといった様子でため息をついたマリカ嬢は、俺のことを横目で睨みつけてきて、口を開いた。
「いまは私のことは、どうでもいいでしょ。手伝いたいと思うのは、昔、貴方に助けてもらったことがあったから。ただ、それだけよ」
俺がマリカ嬢を助けたと彼女は言うが、全くと言っていいほどに記憶にない。
彼女の存在すら忘れてしまっていたというのに、どうやって思い出せばいいのだろう。
もしや人違いなんじゃないだろうか……
そんなことを思っていると、マリカ嬢は微かに笑う。
「ねぇ。ガリガリマリーって覚えてない?」
マリカ嬢の言葉に、前で両腕を組み、唸りながら必死に記憶の糸をたどっていく。
そして、ようやく思い出した。
「ガリガリマリーって、やせっぽっちのモンスターって言われてた、あの子!? え、嘘ですよね、まさか……」
「そう、あれが昔の私。幼い頃は食が細くて、体質からか太れなくて。細すぎて気持ち悪いって、仲間外れにされてた。今とは別人でしょ?」
過去のことはもう振りきれているのか、マリカ嬢は楽しそうにくすくすと笑っている。
ガリガリマリーのことなら、よく覚えている。
皆で遊んでいた時、“ガリガリで不気味”とか“モンスターはあっちへ行け”とか、しょっちゅういじめられていた子だ。
何度“そういうのは止めようよ”と言っても皆が変わる気配もなく、お父様に相談しても、聞く耳を持ってくれなくて。
どうしようもなかった俺は、せめてマリーを仲間外れにさせないように、と、いつも彼女の隣にいたんだ。
「かくれんぼで、ここにも一緒に隠れたのを、今もちゃんと覚えてるよ。バドがいたから、いじめられても、仲間外れにされても平気だった。ねぇ。貴方、ここで“私なんかダメだ”って泣く私に、何て言ったか覚えてる?」
うわ、まずいな……
一緒に逃げたり隠れたりした記憶はあれど、何を言ったかなんて全然思い出せない。
苦笑いを浮かべていると、マリカ嬢は「覚えてないわね」と笑い、口を開いた。
「あの日の貴方は、“周りがどう言ってこようと、自分だけは『自分なんか』って思っちゃダメだ”って、そう言ってくれたの。だから、腑抜けちゃったバドを見てるのが、本当に悔しかったんだからね!」