事件
前回のお話、いくつか改稿しています。
撤収の準備を皆がしていると、突如として叫び声が聞こえてきた。
助けを求めているあの声の主は、恐らくノットの長男だ。
「逃げろ!」
フォードの父君が言い、フォード家の二人と使用人たちは声とは来た道の方向に駆けていく。
「ま、待ってくれ!」
「兄さんを見捨てないで!」
ノット家の父君と次男は、涙で顔を汚しながら懇願するが、逃げる二人は聞くつもりはなさそうに見えた。
「急ぎ、我らも逃げるぞ」
俺の隣にいるお父様がそう話しかけてくる。
エヴァンズ家の長男ならば、うなずいて無言のまま去るべきだろう。
アイツは自業自得だと言い聞かせ、自身の身の安全を優先させるのが、お父様の言う“正しい生き方”なのかもしれない。
だけど。
俺は――
俺は……心のない人形なんかじゃないんだよ!
アイツを救えるかもしれない力があるのに、見て見ぬ振りなんかできない。
しかも、アイツが熊に襲われる原因を、自分の父親が作っているんだから、なおさらだ。
ぎり、と歯噛みして、銃を掛けている胸元のベルトを強く握りしめ、前を見据えた。
「お父様、申し訳……ありません」
深く頭を下げて呟くように言い、そのまま地面を蹴って駆け出す。
じりじりと肌を焦がしてくるような夏日なのに、額からは冷たい汗が止めどなく伝ってくる。
情けないことに、前に前に出していく手と足が震えている。
ずっと、部屋に閉じ込められてきたんだ。
熊なんて剥製でしか見たことがなかったし、そんな危険な生物と対峙したことなんか、一度たりともない。
震えるのだって、怖いと思うのだって、当然のことだ。
それでも、アイツを見捨てて逃げようとは思えなかった。
だって、アイツもきっと俺と同じだから。
親や家の期待に応えようと必死になって、潰れそうなほどに重い期待を両肩に載せられて。
何一つ失敗することなど許されない、親の傀儡……
それが貴族の子で、望まれるように生きていくしか、俺らに道はなかったのだから。
少し開けた場所に出て足を止めると、息があがる。
幸いなことにアイツは逃げるのが上手かったのかちゃんと生きていて、傷を負っている様子もない。
座り込んだところの地面が濡れているのは、失禁してしまったからだろう。
火事の中に飛び込むような真似をしたのに、案外頭の中は冷静だった。
出せるものを全部出して、ひどい顔をして震えるアイツを見て“ああは、なりたくないな”なんてことを考えられるほどに、だ。
視線を移すと、二メートル以上ある熊の姿が目に入る。
腹ペコなのか、歯をむき出してグルグルと嬉しそうに唸っていて。
俺とアイツとを交互に見ている熊は、どちらから食うべきかと、値踏みしてきているようにも見えた。
背負った銃を肩から外して構えながら、攻撃を警戒しつつ、状況をその場で把握していく。
ノットの長男のすぐそばには、銃が落ちている。
ロックが外されておらず、先ほど銃声がしなかったところをみると、混乱してロックをはずさないまま引き金を引いてしまい、弾が出ずにパニックになった、ってとこだろう。
耳を澄ませてみると、後ろからは足音と声がした。
足が遅いノットの親子が、追いかけてきているのだ。
技術の進歩で銃の品質は劇的に上がってきてはいるものの、未だ連続で弾を打つのは不可能で、どの銃でも毎度装弾の時間がかかる。
だが、どう考えたって次の弾を込めている時間など、ない。
俺の銃とアイツの銃。
後ろから来ている親子の二本で、撃てて最大四発。
“あの巨体相手に、四発か”と、舌打ちをする。
おまけにミスは一度も許されない。
ずいぶんと厳しい条件だが、やらなければ全員死ぬだけだ。
俺たちを値踏みをしていた熊は存外賢かったようで、ノットの長男に視線を向けた。
ひっ、と小さい悲鳴をあげて、ノットの長男はすくみあがる。
熊は、確実にランチにできるほうから狙うつもりなのだろう。
「そっちから狙うのは、正解だ!」
熊よりも先にアイツの方へと駆け出し、銃のロックを外していく。
そして、獲物を屠ろうと走り出した熊へと、引き金を引いた。
火薬のにおいと共に弾が放たれ、苦しみと怒りとで、唸る声がする。
熊は走るのを止めており、左目のすぐ上から血を流していた。
くそっ!
さすがに眼窩から脳を撃ち抜くのは無理か……
弾は頭蓋骨に引っ掛かってしまったようだ。
「おい、立て! 腑抜けてる場合じゃないだろうが!」
ノットの長男に発破をかけ、隣に落ちている銃を手に取る。
急ぎロックを外し“弾が入っていてくれ”と、祈るような気持ちで引き金を引く。
すぐに発砲音がし、衝撃が腕へと伝わってきた。
「よし、とっとと逃げるぞ!」
二発目は右目に命中し、熊は視力を完全に失った。
だが、ヤツはまだ生きていた。
悶え苦しみ、唸っているようだが、嗅覚を頼りに襲ってくる可能性もある。
腰を抜かしているノットの長男に肩を貸してやり、急ぎその場を離れていく。
「ああ、ロバート! よかった、本当によかった……! 怪我はないか?」
ノットの父君がやってきて、涙で濡れた顔で、ロバートと呼ばれた長男を力強く抱きしめた。
その様子を見つめていると、父君は俺のほうにやってきて。
右手を強く握りしめてきながら「ありがとうございます」と礼の言葉を重ねてきて、お礼の品は何がいいかと問うてきた。
その言葉に、真剣な表情を向けて口を開いた。
「礼はいらないので、いまだけその銃をお貸しいただけませんか」
「何故です? もうあの熊は視力を失いました。やがて感染症か、食べるものが無くなり、自然と死んでいくでしょう」
次男が、混乱して木にぶつかっている熊を見て言う。
自分がしたことであり、相手が殺人熊とはいえ、あの熊の姿が憐れで、見ているのが悲しかった。
光を見つけられないまま、痛みと苦しみにもがき続ける熊が、いまの自分によく似ていると、そう思った。
「だからこそ、です。光が見えないまま、苦しみながらただ生きるのは……悲しくて、辛いこと。早く、とどめをさしてやらないと」
俺の態度と言葉に何かを感じ取ったのか、次男は視線を落とし、無言のまま銃を差し出してきて。
父君にも銃を渡すように声をかけてくれた。
しっかりと狙いを定め、続けざまに放った二発の銃弾は胸に命中し、熊は巨体を揺らしながら絶命した。
「……ごめんな」
獲物にそんな想いを抱いたことはなかったが、亡骸を撫でて呟く。
あのまま生かしておくことはできたのに、殺したのは俺のエゴだ。
アイツは自分がどんな状態であれ、生を全うしたいと心の中では思っていたかもしれない。
それなのに、あの状態で生きるのは苦しいだろうと勝手に決めつけて、殺してしまった。
光を失ってもがき苦しむ熊に、いまの自分の姿を重ねていた俺。
ひょっとしたら、俺も誰かにこうやって、とどめを刺して欲しいと、心の奥では思っているのかもしれない。