物言わぬ骸骨女神
「なんだこれ」
消灯直後、尿意を催し手探りでトイレに入ったはずだったが、気がつけば薄暗い空間に立っていた。まだ目は慣れておらず、周りの様子はよくわからない。
しかし、足の裏から感じる冷たさは明らかに石造りのものであり、自身が住むボロアパートのトイレではないということはすぐに理解できた。
寝ぼけて外に出てしまったのだろうか。まだ布団にも入っていないのに?
後ろに手を伸ばしても空を切るばかりで、入ってきたはずのドアのノブを掴むことはできなかった。
手に汗が滲む。なんだこれは。このおかしい状況を次第に理解しはじめ、焦りが胸の中を支配していた。
おしっこ行きたい。
尿意がドンドン増していく。恐る恐る周りを歩くもドアらしきものは無い。一体どこに来てしまったというのだ。次第に目が暗さに慣れていく。早くトイレに行きたい一心で周りを見渡した。
「えっ」
しかし、そこには何も無かった。長く、暗く、冷たい床が終わりもなく広がっている。右も、左も、前も、後ろも。
「なんじゃこりゃああ!!!」
尿意もぶっ飛んでしまった。マジでどこだここは。
その空間の終端を見ることは叶わず、ひたすらに暗闇が、すべてを飲み込むかのように広がっていた。
「こーこーどーこーー!?」
近所迷惑など気にしてられない。大声を出すが、それも闇に飲まれるばかりだ。反響すらしない。よほど広い空間のようだ。
ふいに後ろで音がした。ごごごご。
「ひえっ?」
恐怖ととまどいを胸中に慌てて振り向くと、それまでは無かったはずの椅子があり、そこに座っているのは
紛れもない、人間の骸骨であった。
「わあああああああああああああ!?」
なんだ!なんだ!?なんだ!!??
悲鳴を口から漏らしながら、ぺたんと尻もちをつく。後ずさりしながら、それでもその視線は骸骨の眼窩に釘付けのままで、未経験の恐怖に脳みそがパンクしてしまいそうだった。
そして、
「あああぁ~…」
ズボンに染みが広がっていく。思い出したように尿が漏れ出すのだった。
時は経ち、次第に冷静さを取り戻していた。
「…はて」
最初はてっきりこの骸骨に襲われ、殺されてしまうのだろうと身を震わせていたのだが、骸骨は沈黙を貫いて微動だにしなかった。ここにきて普通というものが通用するかはさておき、普通はこの骸骨が襲ったり、なんか言ったりするのがセオリーではないか?
「おぉーい…」
一応声をかけるも反応はなく、骸骨はただひたすらに沈黙を貫いていた。どうやら動くわけではなく、ほんとにただの骸骨のようだ。骸骨そのものの造形に対する恐怖は消えないが、ひとまず命の危機は無いということに安堵した。
しかし問題は山積みだ。さしあたっての問題はじとじとに潤うズボンとパンツか。
「うへえ、ばっちい」
とりあえずズボンとパンツを脱ぎ、乾きやすいよう広げて置いておく。ここには誰もいないから。骸骨以外。
「…にしてもどうすっかな…」
ただそこにあるだけで怖いので、骸骨を見ないようにしながら周りを見渡す。椅子と骸骨以外は特に変化が無いようだった。
とりあえず自身の危険は無いようだったが、帰れる方法がどこにもないのだ。この空間から脱出しなければ餓死もありうる。とりあえずこのだだっ広い空間を進むしか無いのかと考えていると、
「わあ!?」
いきなり湿ったパンツからぼんやりと光が漏れ出ていた。
「なんじゃこりゃ」
とうとう尿が発光し始めたかとパンツを拾い上げてみると、どうやらパンツの下の床が光っているらしかった。
《武田 命 19歳 男》
「ええ…?」
なんでこんなところに自分の名前が?
そんな疑問もよそに光文字はどんどん情報を吐き出していく。
《生年月日:西暦XXXX年 6月24日》
《出生地:日本 ☓☓県○○市》
《☓☓大学 1年生》
《身長171cm 体重75kg》
《交際経験:ナシ》
《前科:ナシ》
「なんだなんだあ?」
次々に自分自身の個人情報が投影されていく。一体いつの間に調べられたのか。
そして、
「は?」
最期に表記された情報は、あまりにも突拍子なく、そしてこの場所の存在意義をわかりやすく示すものだった。
《勇者適正:86% Bランク》
「……」
これここにきて、ようやくこの謎の空間に移動された意味が分かった。
「…なるほどなあ」
そりゃゲームやマンガで見たことはあるが、よもや自分がこうなるとは思いもしないものだ。そりゃホラーゲームの世界のほうがまだ現実味がある。
つまるところは勇者に選ばれてしまったのだ。小便は漏らしたけど。
しかし疑問はある。骸骨だ。普通あそこにいるのは綺麗なねーちゃんとかだろう。せめてしゃべるだろ。なんであんなとこにただの(ただの?)骸骨が――――――
「……え?」
とある仮定を思いつく。まさか、そんな。
最初の邂逅以来できるだけ見ないようにしていた骸骨を改めて、おそるおそる見てみる。
座っている椅子は豪華な装飾が施されているし、骸骨が身にまとっている衣装も高貴な雰囲気を漂わせている。
おそらく、女物。
つまるところは、この骸骨こそが綺麗なねーちゃんだ。多分そうだったのだろう。
「マジかよ…」
おそらくは何かあったのだ、予想もできぬアクシデントが。
そして綺麗だったねーちゃんは物言わぬ白骨遺体となり、勇者を待っていたわけだ。
「あれ?」
そうすると湧き出る新たな疑問。
なぜ死体ではなく、骸骨なのだ?
骸骨は完全に風化しきっており、腐乱臭も一切していない。どうして風化するだけの年月ここに放置されてきたのだろうか。
呼び出されるなら最遅でもアクシデントの直後、死んでホヤホヤの死体がお出迎えするはずだ。それなのにこれは――――
「わ!」
考える間もなく自身の体が発光を始め、次第に透けてきた。おそらく転送的なやつだ。光文字同様、ねーちゃんが居なくてもしばらく経てば勝手に起動するのだろう。
「まッいっか!」
仕方ない。とりあえず転送されてからこの謎を解くしかない。そして世界を救う。それしか元の世界に戻る方法は無いのだ。
「よっしゃ行くぞ!」
気合を入れる。出だしはともかく、なんだかんだで一度は憧れる「勇者」になれるときが来たのだ。昂ぶらずして男ではない。ここから、ここからだ。俺の物語はここから始まるんだ。
期待に胸を膨らませて、これからの出会いに思いを馳せ、そして、
「あ…」
下半身に何も付けていない事に気がついた。なんてこった。
「ち、ちょっと待てい!」
慌ててパンツに手を伸ばすも届かず、もはや光の渦に飲み込まれて周りの風景は見えなくなっていた。
「あーあーあー…」
――――前途多難だなあ。
そう心の中で独白しながら股間を手で覆う。
まずは人と会って、潔白を主張しながら何か着るものを貰わなければ。勇者の前に犯罪者だ。
算段を立てながら、光の渦の流れに身を任せた。
勇者、アキラ。
地獄に落ちるとは、知る由もない。