26センチだけ空に近い場所
「ほら、朋久、教科書、花壇のところに置きっぱなしにして、忘れていったでしょ!」
叱りつけるようにして、あのサッカーバカの胸に生物の教科書を押し付ける。
「あ、わりぃわりぃ。彰たちと休み時間にサッカーしてて忘れてた。ありがとうな、持ってきてくれて」
そういいながら、私の頭に手を置いてなでた。
一瞬、ふにゃっとなりかけたけど、すぐに自重して頬をふくらます。
「もう、ちょっとやめてよ。私、子供じゃないのに!」
「ん? そうか? この小ささなら充分子供だと思うんだけどな」
朋久め! 自分がちょっと私より大きいからって!
朋久の顔を見上げながら睨みつける。
「背は関係ないでしょ! 大体、私の方が、アンタよりお姉さんなんだから! 年上をもっと敬いなさい! そもそも、他のことに夢中になって大事な教科書を置き忘れる方が、よっぽど子供じゃない!」
「って、俺より2日だけじゃん。教科書は、まあ、不可抗力ってヤツだな。うん。でも、ありがとうな。たすかった」
「もう、そうやって、ごまかそうとする」
頬を膨らませて、足を踏み鳴らすのだけど。
「ふふふ。すんげぇ~、子供っぽいよな。あかりのそのクセって」
「え? 何か言った!」
呪い殺すような眼で睨んでやる。途端に、肩をすくめて、
「いいや、なんにも。でも、あかりにはいつも感謝、感謝だ」
「フンだ!」
朋久の教科書があったのは、校庭の隅の花壇を囲うレンガの傍。立てかけるようにして置いてあった。前の授業、特別教室だったので、移動途中に見つけたのだけど、最初のうちはだれのか分からなかった。でも、近くの校庭で朋久がボールを蹴っているのが見えていたから、持ち主の見当はすぐについた。
もちろん、あのサッカーバカの朋久のこと、『これは絶対忘れるだろうな』なんて思っていたら、案の定だった。
だから、私が気を利かせて持ってきてあげたのだ。
でも、この花壇のレンガの大きさは、B5の大きさの生物の教科書よりも、ほんのちょっとだけ高い。ってことは、26センチぐらい。そして、それはちょうどアイツを見上げる距離と同じ。
校庭側の窓の近くにある私の席。それから授業中ずっと、教室から見えるその花壇を見つめていた。
見るとはナシに。ただボーっと。
放課後。
すでに部活のない生徒たちは帰宅したり、バイト先へ向かったり。でも、部活のある生徒たちは、それぞれの活動場所へ散っていた。
私は校庭を歩いている。部活はないけど、借りていた本を図書館に返してきたのだ。
やがて、あの花壇の前を通りかかった。
26センチ。
そう意識したら、自然と足が地面を蹴った。
「よっと」
レンガの上に立つ。
いつもより26センチ高い風景。すこし期待して周囲を見回す。でも、決してあたりの見え方がバラ色になってはいないし、いつもよりも見晴らしがさほどよくなったわけでもない。
いつもとほとんど変わらない風景。たった26センチぽっきりじゃ、世界の見え方に大して違いなんてないのかも。
ちょっと拍子抜けした気分。
苦笑交じりに息を吐き出し、息を吸う。アイツと同じ高さの空気。もちろん、空気の味もいつもと一緒。なにも変わらない。
「あぁ? あかりちゃん、そんなとこでなにしてるの!」
素っ頓狂な声を上げて、私を見つけた遥が校舎の方から駆けてくる。ジャージ姿。部活でランニングの途中だったのだろう。
「あ、遥。ちょっと景色を見ていたの」
「景色?」
目の前に来た。いつもより、おでこが広く見える。つむじがちょこまかと動く。
「そ、いつもとは違うのかなって」
「ふーん」
遥のポニーテールが眼下で揺れている。それが妙に可愛くて。
気がついたら、手を伸ばして、遥の頭の天辺を撫でていた。
「え?」
一瞬、驚いた顔をしたけど、すぐにふにゃっとなる。
「今気づいたのだけど、遥って、案外可愛いんだね」
唇を尖らせた。
「ちょっと、それどういう意味よ!」
なでなで・・・・・・
すぐに、不満そうな表情は消える。
「もう! かわいいんだからっ!」
思わず、ガバッと抱きしめてしまった。
26センチだけ空に近い場所。
それで何かが変わるわけでもない。
見える景色がバラ色になるわけでもないし、それだけで世界が幸福に包まれるわけでもない。
いつもとあまり違わない風景。
ただ、ここからの眺めはアイツの日常の光景。アイツのいる空間。
今、アイツはサッカー部でグラウンドを駆け回っているはず。それなのに、ここにいる私は、アイツの存在をとても身近に感じているのだ。今までになく、ずっと近くに。
今、空気を肺いっぱいに詰め込んで、私の息を混ぜ込めば、いつかアイツがそれを吸うだろう。
そんなことを考えたら、小さく笑ってしまった。
「フフフ。私って、どれだけアイツのことを・・・・・・」
呆れるやら、こそばゆいやら。
それから、いつもより26センチだけ低い雲を見上げながら、ゆっくりとゆっくりと深呼吸を一つした。