夏が終わる
学校の帰り、帰宅部の俺たちは、学校すぐ近くに住む耕太郎の家に集まって水着に着替えた。
玄関のドアをあけると、堤防の向こう、すぐ目の前にビーチが広がる絶好のロケーション。
俺たちは入学以来、夏になると、いつも耕太郎の家を利用してきた。
夏真っ盛りの7月8月には、夕方と形容してもいいような、こんな午後の遅い時間でも水着の人でごった返していたビーチは、いまはほとんどだれもおらず、地元の子供たちが何人か水辺で歓声をあげているだけ。
先週まで営業していた海の家も、しっかりと戸締りがなされており、来週には解体され、来年の出番に向けて、資材は倉庫へ納められるだろう。
でも、まだまだ残暑がつづく。
俺たちは、そんな寂しげなビーチの様子なんて気にもとめずに、水辺へかけていった。
「うほっ! つめてぇ~!」
「おおー、すげぇ~、きもちいい~!」
「やっぱ、だれもいない海って最高だな!」
「ああ、夏休みの間、混雑してたもんな」
「くそっ、あのときは、まともに泳げなかった。泳ぐぞー!」
「うおぉっ! 俺、海、独り占め!」
「俺様、シーキング!」
「え? シーチキンがなんだって?」
フハハハ
仲間のだれもが楽しげに水につかり、陽気に笑い転げる。お互いにバシャバシャと水を掛け合う。
近所の人だろうか、ビーチで犬のロープを曳いて散歩をしているのが見える。ジョギングの人もやってくる。
俺たちは、海を泳いだり、砂浜に上がって寝転んだり、思い思いのことをしながら時間をつぶした。
この夏の間中ずっとそんことをしていた俺たち。どのクラブにも属さない帰宅部だというのに、全員まっくろに日焼けしている。
たぶん、学校で俺たちよりも陽に焼けている人間なんていないかもしれない。
たしかに、野球部だとか、サッカー部だとか、毎日長時間グラウンドに出て活動している生徒たちは、顔や手足こそ真っ黒だが、ユニフォームやなにかで隠される胴だとか腰のあたりは、生っちろい。
水泳部も夏の間、ほとんど外のプールで泳ぐが、部活動の時間が限られているせいもあり、朝から晩までビーチで遊んでいた俺たちよりも黒くはない。
俺は、そんなことをあれこれと考えながら、自分の肌の黒さをすこし誇らしげに見下ろした。引き締まった腹、大きな力瘤が作れる腕、しっかりと筋肉のついたふともも。
うむ、すばらしい!
俺は大いに満足していた。
「あ、また、大石がナルってる」
不意に背後から声が。
「えっ?」
振り返る前から、その声がだれのものか、俺は気がついていた。高く澄んで通る声。同じクラスで隣の席の谷口。
たしか、バドミントン部だったか。でも、今は普段の半そでブラウスとスカートの学校の夏服ではなく、体操服とジャージを着ている。
「おすっ!」
「おす」
どこかの国の部族の酋長たちかのように、二人とも片手を挙げて挨拶を交わす。
「相変わらず、真っ黒だね」
「ああ、すごいだろ?」
「はいはい。すごいね。・・・・・・これで、満足?」
「ああ、なんなら、もっと褒めてくれてもいいんだぞ?」
「ふん、遠慮しとくわ」
「そっか。まあ、いつでもその気になったら、褒めてくれ。俺はいつでも大歓迎だから」
そう言って、胸をそらしてみせる。谷口は、呆れたようなジト眼をして、肩をすくめた。
「そっちは、ランニング?」
「うん。ロードワーク。向こうの岬の先端まで」
「相変わらず、暑いのに大変だな」
「まあね。スタミナつけて、次の大会でリベンジですわ」
「ああ、たしか4回戦負けだっけ? インターハイ予選」
「うん。さすがに団体、ダブルス、シングルスのかけもちだと、体力的にきつい」
「ああ、すごいな、それ。疲れそうだ」
「でも、全部、一日でやったわけじゃないから、まだマシだけどね」
「ああ」
「もう、最終日には、ガス欠でヘトヘトでしたわ」
両肩を大げさにすくめてため息をはく。
「ああ、分かる。大変そうだよな」
「でしょ?」
「ああ。俺には到底マネできない」
「ふふふ。帰宅部だもんね」
「そう、帰宅部だから」
あはははとお互いに笑いあった。でも、すぐに谷口は顔をひきしめて、
「けれど、あんなに、私、体力ないなんて思わなかった。最終日には、全然動けなかったんだもん」
「そっか・・・・・・」
「だから、走ってるの」
にこりと微笑む顔を眼にして、なぜか心臓が大きく脈打つ。
「そっか。うん、ガンバレ。けど、あんまり無理はするな」
「ありがとう、そうする。さて、そろそろいくね」
「ああ、車とか気をつけてな」
「ふふふ。浜には車なんて走ってないよ」
そう笑顔で言い残して、谷口は砂浜を走っていった。俺は、その姿をじっと見送っていた。ひんやりとした風が吹き抜けていった。
「お、大石、谷口といい雰囲気じゃん?」
「見てて、うらやましかったぜ。まったく!」
「見せ付けやがって、この野郎!」
仲間たちがどやどやと集まってきた。そして、俺を取り囲んで無理やり担ぎ上げる。
「おい、やめろ! おい!」
そのまま、勢いをつけて、海の中へ。
――どぼん!
盛大に水柱が立つ。一旦、海水の中に沈んだが、すぐに海面から顔をだし、首を振って、髪についた海水を弾き飛ばす。
アハハハハ、アハハ
仲間たちも、そして、被害を受けた俺自身も、お互いを指差しあって、自然と笑いあっていた。
それからも、俺たちは、ビーチで過ごし、泳ぎ、駆け回り、砂浜で寝転ぶ。
そんな俺たちのそばを、何人もの人間や何匹もの犬が通り抜け、それぞれの速度で去っていった。
やがて、陽は急速に水平線に向かって降下していく。あたりの景色が赤く染まってくる。涼しい風が吹き始める。
「さて、帰るか」
耕太郎の一言で俺たちは、引き上げることにした。
と、岬の方から誰かがかけてくる小さな姿が目に入った。谷口だ。
その場に立ち止まり、ジッとその人影が大きくなってくるのを見ている。
仲間たちは、俺がビーチの途中で立ち止まっているのに気がつかなかったのか、そのまま耕太郎の家の方へ歩いていった。
「やあ」
「やあ」
またしても、酋長の挨拶。
「もしかして、待っててくれたの? 私が戻ってくるの」
「あ、いや、そういうわけじゃ。たまたま、引き返そうとしたら、走ってくるの見えたからな」
「そう・・・・・・」
すこし探るような眼をしてから、ふふっと笑った。
「じゃあ、もう帰るんだ」
「ああ」
「ふーん」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
沈黙したまま、水平線の方に視線を向ける。瞳の中に赤い光が宿り、まつげの濃い影がその周囲を縁取る。風がそよと吹いて、ランニングで汗の滲んだ髪をいじる。
「もう、夏も終わりね」
寂しげな声。はかなげで、簡単に風に引きちぎられ、とばされていくようなかすかな声で。
「ああ」
俺は同意して、その視線を谷口から外した。谷口の眼に滲むものが見えた気がした。見てはいけないものを見た気がした。
それを目にしたら、今まで気がついていないフリをしていた何かを認めなくてはいけないような気がしていた。
なにかを・・・・・・
水平線に向こうに、太陽がいよいよ沈もうとしている。
赤い光が周囲を包み込み、濃く長い影がすべてのものから伸びている。けれど、それらはお互いに交わることを知らず、決して重なり合うことはない。お互いを理解しあって寄り添い合うことも。
いや、違うか。
現に、今、俺の背後に伸びる影はその手の部分を隣の影の手の部分と隣り合い、くっつきあっているのだから。
「ね? 綺麗ね」
「ああ」
「でも、私の方が綺麗だとかなんて、言い出さないでよ」
「はぁ? だれがそんなこと言うかよ、バカ」
「ふふふ。嘘つき。待ってたくせに」
俺は聞こえないフリをして、夕日を見つめ続ける。その背後では、俺の手の影がそっと隣の手の影を包み込んでいた。
「もう、夏もおわりだな」
「うん・・・・・・」