伝染(うつ)る
子供の頃から、可愛くないと言われることに慣れている。
小学校に入学する前から、父と母の仲が険悪となり、中学に入る前に、やっと二人は離婚した。
その間、6年間、我が家の中では、父と母との間に口げんかすらなかった。お互いがお互いのことを無視し、笑顔をかわすことも、会話を交わすこともなかったのだ。そのクセ、外へ出るとおしどり夫婦を演じて、仲むつまじい様子を取り繕ってみせる。
そんな両親の姿を6年間ずっと見続けてきたのだ。私がいつしか笑顔を忘れるのも、当然のことだった。
どんなときも笑わない私。それじゃあ、だれだって私のことを可愛いとはいわないだろう。
そんなことは私だって分かっている。
でも、それでも、笑顔を浮かべることなんてできないし、したくもなかった。
――ふぁああ~
隣で、松田が無防備に大きなあくびをする。
それを視界の隅に収めていたのだろう。次の瞬間には、私の口からも、
――ふぁああ~
ハッと気がついて、慌てて口を閉じた。けど、近くの席の別の男子があくびをしているのが目に入る。そして、そのあくび、またたくまに教室中に広まり、ついには、昼休み明けの暖かい陽だまりの中で5時間目の授業をしている古文の教師の口にまで伝染した。
「ふぁあああ~」
教室のあちこちで失笑が漏れる。そして、いびきも。
昼食の直後でおなかがいっぱいになった人間の体には、この秋のポカポカ陽気は究極の睡眠導入剤。しかも、古文なんていう催眠呪文の塊が教室に満ち満ちている。
私たちみたいに起きていて、あくびをかみ殺しているのはまだいい方で、午睡の悪魔の甘い囁きに身をゆだねてしまっているのは、だれにも非難できないことだろう。
けど、とにかく、みんなが眠ってしまったとしても、私は授業を受けたい。勉強したい。次のテストでいい点数をとりたい。私をひとりで育てるために、毎日ヘトヘトになるまで働いているママを喜ばせたい。
だから、重いまぶたを無理やり持ち上げて、黒板を睨んでいる。おきている。
それなのに、また、隣の松田が、
――ふぁああ~
眉根を寄せて、キッと睨みつける。
一瞬目があって、ニコリと微笑んできた。
フンッ
私はそっぽを向いた。
「ちょっと、松田、授業中にあくびなんかしないでよ。伝染ったじゃない!」
「え? ああ、悪い」
ちっとも申し訳なさそうではない顔で、謝罪の言葉を口にする。
今は、5時間目の授業も終わって、10分間の休み時間。
古文の先生が教室を後にした途端、文句をつけに松田に詰め寄ったのだ。
「ったく! 今日は授業に集中しようと思っていたのに、あんたのせいで、気が散って散々だったわ。あんた、さっきの時間、何回あくびしたのかわかってるの?」
「さ、さあ? オレ、何回あくびした?」
「12回よ! 12回。一度の授業に12回もあくびするなんて、信じられない。あんた、ふざけてるの?」
「へえ~ オレ、そんなにあくびしたんだ。すげぇなオレ」
「どこがすごいのよ。まったく!」
「ん? ってことは、もしかして、倉田って、オレのあくび数えてたってこと? オレのことそんなに気にしてた?」
「当然じゃない! あんたがあくびをするたびに『ふぁあああ』ってうるさいし、しっかりしていないと、私まであくびうつっちゃうんだから!」
途端に、なぜか、松田がうれしそうな顔をした。
「そっか、オレのあくび、数えてたんだ」
「そうよ、なに? 数えてたら悪いの?」
「あ、いいや、全然。でも・・・・・・」
松田、ニヤニヤして私をみる。
「ん? なによ?」
「いいや、なんにも」
「なによ? なにか言いたいことあるなら、言いなさいよ」
「いいや、全然」
「なによ?」
松田は肩をすくめるばかりだった。
「なあ? 倉田」
しばらくして、松田が話しかけてきた。
「なによ?」
見ると、松田が私の顔を見つめていた。そして、突然、顔をくしゃっとして、笑顔をつくった。
「なによ?」
ニコニコ・・・・・・
・・・・・・
ふざけているの? なんか目の前の松田の笑顔を見ているだけで、ひっぱたきたくなってきた。
「ちょっと、なに笑っているのよ。ひっぱたくわよ」
右手を上げたら、途端に笑いを納めて、
「あ、ま、待った。叩くな、なっ?」
「なに? あんた、私のことバカにしてんの?」
「あ、違う。違うって、だから、その手、下ろせよ」
ちょっと迷ったけど、しぶしぶ下ろす。
松田はホッとした表情を浮かべて、話し出した。
「なあ、あくびって伝染るっていうだろ?」
首を一つ上下に振る。ついさっき私がその被害を受けたのだ。
「な、だろ? でだ。あくびが伝染るってんなら、笑顔だって伝染ると思うんだ、オレ」
「はぁ~?」
なに言ってんだろう、こいつは?
でも、すくなくとも、松田の眼は真剣。からかっている様子はみられない。
「でもさ、良く考えたら、オレ、倉田が笑っているところってみたことないよなって思ってさ」
「ふんっ!」
「ほら、その顔。いつも、そうやって無愛想だし、可愛げがないし」
睨みつけてやる。松田はニヤけた顔をしている。またまた強烈にその顔をひっぱたきたくなった。
手がぴくっと動く。
私の手の動きに気がついたのか、松田は慌てて、両手を上げて、害意はないことを示すかのように、私に手のひらを見せる。
「だからさ、オレが笑って見せたら、伝染って、倉田も笑顔になるんじゃないかなって」
「はあ? なによ、それ? そんなので、笑えるはずないじゃない」
「ああ、みたいだな」
松田、すこし残念そうな顔をして、私を見返していた。
「ふんっ!」
鼻であしらう私に苦笑を浮かべて。
次の日からも、松田の挑戦は続く。
顔を合わすたびに、笑顔を作って、私の顔を覗き込んでくる。
そのたびに、私の手がムズムズする。すごくひっぱたきたくなる。
それを必死に抑えていたら、妙に力が入って、ますます仏頂面になる。
そのたびに、松田が失望の表情を浮かべた。
ったく! なんなのよ! あいつは!
そして、その朝も、松田は笑顔で私の前に現れた。
「倉田、おはよう」
「お、おはよう・・・・・・」
手がプルプル。
「ほら、これ、こないだ言ってたCD」
「え? あ、ありがとう」
松田は私の目の前でCDケースをブラブラさせる。何日か前に、私が大好きなアーティストを松田のお姉さんも大好きで、私が持っていないデビューしてすぐのまだ有名になる前のアルバムのCDを借りてきてくれると約束したのだ。
そのCDを受け取ろうと手を伸ばすと、ひょいっとCDをのける。
また、私の目の前でブラブラさせる。それに手をのばそうとすると、またのける。
それを何度か繰り返した。
「ちょっと、なによ!」
「ふふふ。ほら、CD」
「もう!」
手を伸ばす。ひょい。
そもそも松田の笑顔のせいで不機嫌だったのに、さらにこんな子供じみたいたずら。
しだいに頭に血が上る。カチンとくる。
手を伸ばす。ひょい。
次の瞬間だった。意識しないうちに私の右手が上がっていた。たぶん、松田はまた私の手が上がってきたので、CDをつかまれないようにその手をよけるつもりだったのだろう。
だけど、私の右手が次にむかった先はCDではなく・・・・・・
――パチンッ!
スナップの利いた平手打ちが松田の顔を綺麗に張っていた。
「あっ・・・・・・」
一瞬、自分でもなにをしたのか分からなかった。すべては無意識の行動だった。
だけど、すぐに理解する。
「ご、ごめん!」
慌てて、頭を下げる。
私に顔を張られた松田は呆然としていた。なにが起こったのか、まだ理解していない様子。
け、けど、このところ、毎日、ずっと溜めに溜めていたストレスを、思わぬ形で発散することができたのだ。
私の上半身から一気に力が抜けてしまっている感覚がある。
すごく、ほっとしている。すごく、リラックスしている。
安心している。
ふと見ると、松田が呆けた顔をして、私の顔を見つめていた。
そして、松田の表情がくしゃっとつぶれようとした。途端に、
「いって・・・・・・」
顔をゆがめて、自分の頬を手で押さえる。
「あ、ご、ゴメン」
「ああ、いいよ。別に。悪いのは、最初にからかったオレの方だし」
「で、でも・・・・・・」
まだ、すこし痛みがあるようだけど、松田、表情を明るくさせて、私を見つめた。
「うん、やっぱ、仏頂面より、倉田は、そっちの顔の方がいいよな。すごく似あってる」
「えっ・・・・・・?」
私、松田がなにを言っているのか気がついていた。そして、目の前にある笑顔をもうひっぱたきたくなくなっていることにも。
だって、これって伝染るのだから。
それから、また目が合った私たちは、照れて、顔を背けるのだった。