春は旅立ちの季節
うちの兄貴が東京の大学に合格して、この春から一人暮らしをすることになった。
先月、お袋と二人で東京の叔父さんちを根城にして、あちこち部屋を探しまわり、結局、大学の近くの学生アパートの部屋を借りる手続きを済ませてきて、今日はそこへの出発の日。
家の隣にある公園ではようやく桜がほころび始め、華やいだ雰囲気をあたりにまき散らしている。だが、お袋も親父も朝からどこか寂しげで、家の中がすっかり湿っぽい。それでも無理してカラ元気を出して明るく振る舞おうとしているのが、なんだか見ている俺の方が切ない気分になる。
「おはようございます」
「は~い。あ、律ちゃん、いらっしゃ~い」
「おじゃまします」
だれも迎えに行かなかった玄関から勝手に家の中に上がりこんで、俺たちのいる居間に入ってきたのは、斜め向かいの家に住む俺の幼馴染みだ。俺と同い年で、俺と同じ学校に通っている女。子供のころから我が家の子供同然に入り浸ってきたずうずうしいヤツ。
「おすっ」
「おす・・・・・・」
俺の顔を見るなり、視線をそらした。
「なんだよ」
「別に・・・・・・」
不機嫌そうに顔をそむけるが、その前に俺は確かに律の目が赤くなっているのを見つけていた。
――そうか。やっぱり。
どこか納得する思いだ。
そうだよな。いくらなんでも、俺と同い年の幼馴染みだからって、よその家の女の子が家族同然に出入りするなんて、どこかのラノベでぐらいしかないよな。
そうずっと思っていたのだが、今はっきりとした。こいつ、兄貴狙いだったんだ。
正直、ショックでないなんて言ったらウソになる。もしかしたら、万が一にも、兄貴でなく・・・・・・
そんな可能性を今までに何度か夢にみないこともなかったわけで。
まあ、幼馴染みってだけで、どこかのラノベのようにツインテールだとか、ツンデレだとか、まして、美少女なんてことはなくて、ごくごく十人並みの容姿の普通の性格の女だが。それでも、なんというか・・・・・・
う~ん・・・・・・
「律ちゃん、お見送りに来てくれたんだ。ありがとうね」
「いえいえ。明宏兄さんには、いつも勉強みてもらったりとか、いろいろお世話になりっぱなしでしたので」
「そう・・・・・・」
お袋、ニコニコしてるけど、兄貴の名前を耳にした途端、狼狽した様子で、涙目。
それをみんなで見ないフリして、
「母さん、そろそろ時間じゃないのかい?」
親父にそう言われて、壁にかかった時計を見上げると、出発の予定時間寸前だ。
「あら、まあ、どうしましょう。明宏、あきひろ。時間よ」
最後のチェックをしに部屋へ戻っていた兄貴にも聞こえるように声を張り上げた。
すぐにドタドタと階段を下りてくる足音がして、兄貴が居間に入ってくる。
「明宏、忘れ物ない?」
「ああ、大丈夫だ。けど、もし、なんか忘れてるものあったら、あっちに送って」
「ええ、分かったわ」
「よし、それじゃあ、そろそろ俺行くわ。親父もお袋も倫明も律ちゃんもまたな」
「おお、行って来い」
「行ってらっしゃいね。体に気をつけなさい」
「行ってら、兄貴」
「明宏兄さん、いってらっしゃい」
「おう。倫明、親父たちのこと、しっかり頼むな」
「ああ、任せとけ」
そうして、俺たちがぞろぞろと玄関先まで見送っている前で、兄貴は鞄一つ担いで、駅の方へ歩いて行くのだった。
「親父もお袋も駅まで送らなくてよかったのかよ?」
「ん? ああ、いいんだ。来週、出張だからな」「うん。いいのよ。どうせ、明日、私も手続きとかで東京へ行くし。ホント、一人じゃなにもできないんだから」
いや、別にお袋が手伝いに行かなくても、兄貴一人で十分だと思うのだが。本当に、この親ども、兄貴にはとことん甘い。
さばさばしたもので、兄貴の姿が角を曲がって見えなくなった途端、親父たち、さっさと家の中へ引き返していった。
――クシュン。
ひとり玄関先に立って、いつまでも別れの余韻に浸っていた俺だけど、突然、隣で盛大にくしゃみをしやがる幼馴染みが一人。
続けて、
――クシュン、クシュン。ズズズ・・・・・・
「おい? 大丈夫か?」
ぐずぐずになった顔で俺のことを見上げてくる。
こんなにボロボロになるぐらい兄貴のことを・・・・・・
見ていたら、胸が・・・・・・痛い。
「だ、だいじょうび。ご、ごめん」
ぺこりと頭を下げて、ドタバタと俺の家の中へ駆けこんでいった。
「お、おい、待てよ」
慌てて後を追いかけて行くと、洗面台で一生懸命手や顔を洗って、目薬を差している。それから、おもむろにポケットの中からマスクとゴーグルを取り出すと装着。
「ふぅ~ しんどかったぁ~」
――って、えっ?
マスクのせいで分かりにくいけど、今こいつ満面の笑みでいやがる。それを見ていたら、正直、不快な気分だ。皮肉のひとつも言いたくなる。
今さっき兄貴を見送ったばかりなんだぞ。お前、兄貴のこと好きじゃなかったのかよっ! なんでそんな風に笑えるんだよ! 冷血だな、お前!
「兄貴が出発したから泣いてたんじゃねぇのかよ」
「えっ? なんで? もちろん、明宏兄さんがいなくなるの、私だって寂しいわよ」
「じゃ、なんで、笑ってられるんだよ。今さっきのことでよ」
「ん? 私が笑顔になったら悪い?」
「はぁ? 悪いに決まってんだろ。お前、兄貴のこと好きだったんだろ?」
途端にキョトンとした顔をした。
「なんで、私が明宏兄さんのことを?」
「・・・・・・お前、兄貴が出発するからってさっきボロボロ泣いてただろ?」
「泣いてないわよ」
そして、なにか気が付いたことがあるみたいで、急に笑い声を上げやがった。
「ち、違うわよ。さ、さっき私が涙流してたの、明宏兄さんと別れるのが寂しいからじゃないわよ。ただ単に、私、花粉症なの、ヒノキの」
「・・・・・・」
「この時期、つらいのよねぇ~ いつもなら、家に閉じこもってやり過ごすんだけど、今日は明宏兄さんのお見送りだから」
「・・・・・・」
それから、ゴーグルの奥の眼尻を愉快そうに下げて。
「そんなことより、ミチって、本当にブラコンなんだね。明宏兄さん大好きなんだね。そんなに顔ぐしゃぐしゃにしちゃって」
「うっ・・・・・・」
「はい、ティッシュ。ほら、鼻水ぐらい噛みなさい」
「・・・・・・」
律の後ろの鏡に顔中涙だらけの俺の顔が映ってる。かなりみっともない有様。
「大丈夫だよ。明宏兄さんがいなくても、私がずっと傍にいてあげるから。だから、そんなに泣かないの。よしよし」
やさしく背中をさすってくるのを、駄々をこねた子供のように振り払う。
「だ、だれが泣いてるんだよ。泣いてなんかいるもんか! 泣いてなんか。こ、これは・・・・・・ お、俺だって花粉症だ。花粉のせいだ。桜の花の」
そうして、洗面所の窓から見える公園の桜の木では、温かな春の日差しを浴びて、また一輪つぼみを弾けさせていた。
そう、春は花粉の季節だ。