桜もみじ
彼女は、今日も美術室の後方、窓際のいつもの席に座り、イーゼルに載せたキャンバスに筆を入れていた。
美術室の中には、他にも美術部の部員たちがいて、楽しそうにおしゃべりに興じているが、その中のだれも彼女には話しかけない。
まるで、そこには彼女がいないかのように、部員たちは彼女の存在を無視していた。
そんな中でも、彼女は、ただ黙々と筆を動かし、窓の外に見える景色をキャンバスに写しとっていく。
ただ機械的に・・・・・・
高嶋さんが描く絵は、いつも同じ構図だ。
美術室の窓から見える学校裏の桜並木の道。学校の敷地の外周に沿うようにして、正門前から左右に伸びている道は、僕たちにとっては駅へ向かう道。それを毎日のように描いている。
今は放課後になって30分も経っていない。だから、美術室から見えるその道を何人もの生徒たちが連れ立って下校している。
みんな、冗談を飛ばし、笑い声を上げ、そして、ふざけてあっている。
だれの顔にも笑顔が見える。たぶん、彼ら彼女らは、今という時間にとても満足しているのだろう。
友達と、あるいは、恋人と連れ立って駅へ歩いていくこの時間は、彼らにとっての宝物のようなものなんだろう。
僕も帰宅時間になればその道を通るけど、いつも一人だった。
男子部員が僕しかいない美術部。女子たちはワイワイにぎやかに連れ立って帰っていくが、僕はその輪の中に入ることもできず、ただ一人で夕暮れの道をとぼとぼと家路を辿る。そして、彼女も。
高嶋さんの両親は著名な美術家だった。何度も有名な賞をもらい、各地の美術館で開かれる個展は、いつも大勢の観客でごった返した。
そんな両親の血をひいたのだろう。高嶋さんも、小さなころから何度も展覧会に入選し、賞を受けた経験をもつのだった。
だから、この美術部の中で、彼女が描くものは、僕を含めた他の部員たちとは、まったく次元の違う絵だった。
僕たちは、どんなにがんばっても、彼女の足元にすら及ばないのが明らかだった。彼女の描いたものを見るだけで、絶望すら感じさせる。そんな存在だった。
だからだろうか。彼女は美術部内では孤立していた。ただ、うますぎる絵を描くというだけで。
噂では、まだ彼女が卒業するのは1年以上先だというのに、もう全国各地の芸術大学から推薦の話が来ているという。
そんな彼女を嫉妬の眼で見ている者は、美術部の部員たちばかりではないだろう。
教室での彼女も、あまり友人と呼べる人はいないようだった。
そして、彼女は今日もただ黙々と桜並木の道の絵を描いている。
下校の生徒たちの行進は一段落して、今、並木道を走っているのは、運動部の部員たち。
さまざまな部の部員たちが、体力アップのために、学校の周囲をランニングし、汗を流している。
ある者は、軽い足取りで颯爽と駆け抜け、ある者は、苦悶の表情を浮かべ、息も絶え絶えに重い足取りで通り過ぎる。
一方で、美術室の中、美術部員たちは、笑いさざめいている。楽しげに、愉快そうに。彼女と僕を除いて。
彼女は美術室から見える桜並木の道をいつも描いている。
春には、華やかであでやかに咲き誇る満開の桜に包まれた道を。
夏には、抜けるような青空に真っ白で巨大な入道雲が立ち上がる下、強い太陽を浴びて光る道を。
そして、秋。今、彼女が描いている絵には、真っ赤に紅葉した桜の並木道が描かれている。
画面のあちこちでヒラリヒラリと落葉し、道の上を赤くいろどっている。
どの絵もため息しかでないほど美しく、どの絵も一目でだれもを魅了してしまう。
たぶん、僕たちが卒業して、何年かすれば、これらの絵はどれも、この学校の貴重な財産として、大事に保管されることになるだろう。
けれど、これらの絵に一つ共通していることがある。
僕はそれに気がついていた。彼女が最初に満開の桜の絵を描いたときから、ずっと。
他の人はどうなのだろうか? 気がついているのだろうか? わからない。
彼女の絵について、話をするのは、僕たちにとってはタブーになっている。だって、そんなことをすれば、僕たち自身の絵がどんなにつたないか、見る価値すらないかを自覚することなってしまうのだから。
彼女は僕たちと同じ世代、同じ学校の生徒だ。僕たちと同じ美術部員だ。
なのに、その描くものときたら・・・・・・
ともあれ、僕は、描きかけの自分の静物の絵から離れて、そっと美術室の後方へ移動していく。壁にもたれかかるようにして、彼女のキャンバスを盗み見る。
やっぱりそうだ。
この描いている絵にも人の姿がない。
そう、あの満開の桜の絵にも、太陽を反射して光る道の絵にも、そして、この桜もみじの絵にも。
今も、外に見える並木道には何人もの生徒たちが行き来している。
なのに、彼女の絵には、一人もいない・・・・・・
並木道をカップルが歩いているのが見える。手をつなぎ、暖かそうなマフラーに埋もれた顔を、ほころばせあいながら、ゆっくりと歩いていく。
お互いのぬくもりを確かめあうように、ふたりの幸せを味わうように。
高嶋さんは、しばらくそんなカップルの様子をじっと見ていた。
そっと筆をおろし、スカートの上で両手をこする。
それから、頭を下げ、視界をさえぎった。
やがて、昂然と頭をあげ、キャンバスへ向き直る。もう窓の外を見ない。ただ黙々とキャンバスへ筆を入れていく。
僕の視線は、そのカップルたちを追っていった。
どこにでもいる幸せそうな恋人たち。うらやましくはあるけど、なにも目立つ特徴はない。
やがて、並木道のカップルは、去っていった。もう、美術室の中からは、その姿は見えない。
ふと視線を彼女へもどすと、筆が止まっていて、彼女もそのカップルの消えていった方向へ視線を向けていた。
そして、無感動に頭をキャンバスへもどした。
無意識のうちに僕は彼女の元へ大股に近寄っていった。
すぐに、彼女の脇に立つ。
突然、人の気配が自分の傍に現れたので驚いたのだろう。彼女が眼を丸くしながら、僕を見上げた。視線があう。けれど、僕は何も口にせず、そんな彼女の腕に手を伸ばした。そして、彼女の細いけど、筋肉のついた腕を強引に引っ張った。
彼女は全然抵抗しなかった。そのまま、出口へ。
美術室の中では、他の部員たちが口をぽかんと開けて、僕たちの様子を眺めている。
高嶋さんは、ただ驚いた表情のまま、僕に腕をとられて、ついてくる。
美術室をで、近くの階段を転がるようにして下り、廊下を駆け抜け、上履きのまま玄関を走り抜ける。
それから、彼女を腕を引いたまま、正門まで全力で走り、道を折れ、しばらく走って、僕たちは立ち止まった。
息を切らせながら、頭を上げる。
目の前に真っ赤な景色が広がる。
秋の高い空を赤いものが彩っている。赤く、赤く、どこまでも、赤く。
――はっ、はっ、はっ
すぐ隣で、彼女が息を弾ませているのが聞こえた。
高嶋さんは僕の隣に並んで立っている。たぶん、僕と同じようにして、赤く空を染める桜を見上げているだろう。
彼女はずっと黙ったままだった。そして、僕も。
いつのまにか、僕たちは固く手を握り合っていた。
彼女の描く絵に、変化が現れたのは、その後すぐのことだった。
もう、そこは空白の世界ではない。
僕が次にその絵を眼にしたとき、画面の隅、これから桜もみじの並木道へ一歩を踏み出そうとするカップルの姿が描き加えられていた。
そう、あのときの二人のように、しっかりと手をつないで。