桜並木
満開の桜の下、その人は立っていた。
あちこちで、はらりひらりと散り始めている花びらが、路面に散らばり、まだら模様の絨毯を敷き詰めたようになっている。
ボクは、その光景を眺め続けていた。
ただ、ただ、美しいと。心を震わせながら。
ふっと、その人の視線が、ボクの方を見つめているのに気が付いた。すこしはにかんだように微笑んでいる。
思わず振り返って、ボクの背後の通学路に人が立っていないことを確認した。
ってことは、彼女はボクを見て微笑んだのだろうか?
多分、そうなんだろう。なぜなら、彼女は微笑んだままボクに近づいてきたから。
「おはよう、清水君」
「おはよう、本田さん」
彼女の制服のブレザーの肩のところに桜の花びらが付いている。
ボクの視線に気が付いたみたいで、本田さんは自分の肩を見下ろした。その首の動きに合わせて、肩までの髪が揺れる。ほんのりとシャンプー匂いがする。すこし深く息を吸って止めた。
いつの間にか、いたずらっぽい黒い大きな眼がボクの方を見上げていた。
「ねっ? さっき、私のこと見とれていたでしょ?」
「えっ?」
そのとおりなんだけど・・・・・・ 改めて指摘されると、あわててしまう。恥ずかしいのもあって。
赤面したボクをみて、本田さんはかすかに目元を緩めた気がする。
「ねっ? 桜きれいだよね。ほら、見渡す限りピンクで、かわいくて」
「えっ・・・・・・ あ、ああ・・・・・・きれいだ」
曖昧な返事をしてしまうボク。途端に、どこか、たのしそうな本田さんが、ボクの前へ回り込んできた。
顔を突き出すように腰をかがめ、その小さな顔の横で人差し指を立てる。
「ふふふ、今、別のこと考えていたでしょ?」
「え、えっ? なに?」
「ふふふ、桜なんかより、君の方がもっときれいだよって」
「ぶっ! な、なんだよ、それ。あははは」
「あー! 違ったか。残念。ふふふ」
そうして、ボクたちは学校へ並んで歩いて行った。
本田さんは、ボクと同じクラスの同級生。
普段、学校では大人しくしていて、休み時間ごとに文庫本を読んでいる。だからか、あまり友達と一緒におしゃべりをしている姿を見かけることはない。もちろん、ボクも今日まで一度も話をしたことなんてない。
それなのにボクの隣を並んで歩いている。クルクルとよく変わる表情をきらめかせながら、ボクに話しかけてくれている。不思議な出来事だ。
「ねっ? 本田さんって、ボクの名前覚えていたんだ」
「え? ああ、うん。私、わりと人の名前とか覚えるの得意な方だから。もうクラスの人の名前と顔はばっちりだよ」
「へぇ~ すごいね。ボクなんか、席が近所の子ぐらいしかまだ全然」
「ふふふ。そうなんだぁ~ あ、でも、私の名前は知っていたんだね?」
「えっ? あ、そ、それは・・・・・・」
ボクの席はクラスの奥、グラウンド側の窓の近くなのに対して、本田さんの席は、前の入り口の近く。ほとんど教室の対角線の位置。ボクの席から一番遠い同級生。
一瞬、うろたえ、眼が泳ぐボクに、また、微笑んでくれた。
「ふふふ。冗談よ」
眼はすごく楽しそう。いや、違うか。どこか上気して興奮している感じかな?
たぶん、通学路の両側に並んでいる満開の桜並木が、彼女を酔わせているのだろうか?
普段大人しい彼女をいつもよりもずっと大胆にさせているのだろうか?
「か、からかわないでよ」
「ふふふ、ごめんなさい。でも、きれいだよね」
両側の桜並木を振り仰ぐ。
そのあごのラインに瞳を奪われながら、ボクは無意識のうちにそっとつぶやいていた。
「ああ、本当にきれいだ」
「ねっ? 清水君、頭に花びら乗ってるよ」
「えっ、どこ?」
「あ、しゃがんで。とってあげる」
「ありがとう」
ボクは本田さんの前でしゃがんだ。細い指がボクの髪の毛をくすぐるように動く。
「取れた」
本田さん、手の中にとった花びらを包み込んで笑顔で立っている。
そういえば、さっきの肩の花びら。見ると、まだそこに付いたまま。
「本田さんも、肩にまだついているよ」
「えっ?」
「とってあげるよ」
ボクは腕を伸ばして、ブレザーの肩から花びらを摘み上げた。そのまま、下に捨てようとして、止めた。本田さんと同じように手の中に包み込む。
「ありがとう」
「ううん。べつにいいよ」
そうして、ボクも彼女に負けないぐらいの笑顔をしてみせた。
「そういえば、本田さんって、この近所に住んでいたんだっけ?」
ボクの疑問に、彼女は首を振る。
「ううん、違うよ。でも、この桜並木の道は小学校のころから憧れていたんだ。いつかこの道を桜が満開のころに歩いてみたいって。だから、最近はちょっと遠回り」
「へぇ~ そうなんだ」
「うん、そうなんだよ。やっと念願がかなったんだ」
お互いに笑顔を交換しあう。でも、すぐに、本田さん、なにか探るようにボクの眼の中をのぞきこんできた。
「ねっ? 今、清水君、別のこと、考えてたでしょ?」
「え? な、なにを?」
「ちぇっ! なんだ、俺に会うためにあそこにいたんじゃないのかよって」
「は、はあ?」
思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。
「あ、また、違ったか。残念」
そうして、からりと笑う。ボクは苦笑するしかない。
学校が見えてきた。周囲にだんだんと同じ方向へ歩いていく生徒たちが合流してくる。
大通りとの交差点。桜並木の終点だ。
「ああ、終わっちゃった」
心底、悲しげに、嘆きの言葉をつぶやく。
「よっぽど、好きだったんだな」
「えっ? なに?」
「いや、ここの桜並木、よっぽど好きだったんだなって」
「え? うん。そうよ」
「そうか・・・・・・」
「そう」
振り返って、桜並木の道にペコリとひとつお辞儀をした。
ボクたちの背後、交差点では、歩行者用信号が点滅を始めている。
「じゃ、私、先、行くね。今日は日直だから。一緒に歩けて楽しかった」
「ああ、ボクも」
また、なにかを探るような眼でボクを見る。でも、今度はなにも言わなかった。
そのまま、スカートをふわりと広げながらくるっとターンして、大通りの横断歩道をかけていった。
ボクが交差点にたどり着いたときには、すでに信号は赤。立ち止まる。
ふと手をさっきから握り締めたままだったことに気が付いた。そっと開く。
ピンク色の小さな花弁がかすかな風に揺れていた。
ボクはそれをじっと眺め、それからおもむろに胸ポケットから生徒手帳を取り出した。そして、そこに、その花びらを挟んだ。
多分、この花びらは、ボクにとっての何かの記念になるような気がして。一生の宝物になるような気がして。
それから、顔を上げたとき、信号は青に変わった。
足元の路面には数枚の花びらが散っている。それを踏まないように気をつけながら、ボクは次の一歩を踏み出したのだった。
多分、もう学校へ着いるであろう彼女も、手の中の花びらをそっと生徒手帳の間に挟みこんだような気がしていた。ボクと同じように。
いや、そうじゃない! 絶対に、そうしている。そうしているに違いない。ボクは確信している。だって彼女はボクの心を全部正確に読んだのだから