さくら
いよいよ日本各地から桜の開花の便りがとどくようになりました。
そこで、今回は、桜にちなんだ作品を集めてみます。
――カチャカチャ
ここ二時間ほど、俺は自分の席でパソコンに向かって仕事をしていた。
「あ、いたいた。上坂くん、探してたんだよぉ~」
「えっ?」
声をかけられた方を見上げると、そこには隣の部署のさくら先輩が。
「な、なんですか? 俺になにか用ですか?」
つい動揺してしまう。すぐそばにさくら先輩が立っていて、耳にかかる髪を掻き上げながら、俺のことを覗き込んでいた。
相変わらずチャーミングだ。女性の同僚の中で、この人よりもやさしげで、愛嬌があって、綺麗な人なんていない。ほのかに香る甘い匂い、セーターを下から押し上げる胸、細くくびれる腰、ゆったりと豊かなお尻。彼女が通路を歩いていると、その近くの男性社員たちの手が止まっているのを何度も見かけたことがある。もちろん、俺の手もその姿を見送っている間いつも止まっている。
なのに、そんな社内でも抜群の人気を誇るさくら先輩が、よりにもよって俺に声をかけてきた。一体、俺の身に何が起きたのだ?
さっとこの先の仕事のスケジュールを思い浮かべるが、さくら先輩と組む可能性がある仕事の予定なんて当分はないはず。あるとすれば、合コンの誘いぐらいだろうが、でも、俺には社内に恋人がいることは部署の内外に知られているので、ここ数年、その手の誘いを受けたことはない。それじゃあ、一体?
不審げにさくら先輩を見上げていると、腕に抱えていた書類の束から一枚の紙を俺に差し出してきた。そして、ニッコリと微笑んで、
「上坂くん、仕事しているところ悪いけど、これに署名もらえない?」
「えっ? なんですか?」
その書類のタイトルは『サクラをユネスコの無形文化遺産に!』
「これは?」
「うん、えっとね。実は、私の大学時代の知り合いが、ここの実行委員をしていてね。それで、タイトルの通りのことを日本政府に働きかけるために、百万人を目標に署名活動を始めたんだ。で、その署名集めの協力を頼まれちゃって」
さくら先輩、ぺろりと可愛くピンク色の舌を出した。か、かわいい~
思わず、見とれていたら、脛に強烈な痛みが・・・・・・
くぅ~ 菊美め、蹴るなよ。ちょっときれいな先輩に見とれていただけじゃないかよ。別に浮気してたわけじゃないんだしよ。
抗議の意味を込めて向かいの席の菊美を睨んだら、不機嫌そうに頬を膨らませてそっぽを向く。
うっ、なんか、それはそれで可愛いんですけど。
「どうかな? ダメ? 上坂くん、署名してくれない?」
「あ、いいすよ。っていうか、よろこんで」
俺は素直に署名欄に自分の住所と名前を書き込んだのだった。それから、その紙をペンを持って待機していた菊美に回して、その場にいた他の同僚にも回して、
「みんなありがとうございます」
さくら先輩、ぺこりと大きくお辞儀し、うれしそうな顔して、俺たちの部署を後にするのだった。
もちろん、そんな笑顔を見せられたんじゃ、部署の男性社員たちみんなデレデレで、
「いたっ! なにすんだよ」
「別に。ふんっ!」
さくら先輩の署名活動、順調に進み、一週間後には、ほぼ社員全員分の署名を集め終えたようだ。
それと前後するように、しだいに日本各地で行われている署名活動が各マスメディアでも取り上げられるようになり、テレビが伝える街頭での署名活動の様子も、署名待ちの長い行列ができていることを映し出していた。
まあ、俺の方は会社の行き帰りとかで、たまに駅前とかで署名集めしているのを見かけるようになったのだけど、みんな足早に通り過ぎるばかりで、実際に署名している人を見かけたことはなかった。たぶん、もっと都心に近い場所でなら、そういう署名待ちの行列なんてできてたりするのだろうな。
どの新聞も社説等を通じて、サクラの無形文化遺産への推薦を支持しているし、新聞とかの紙面で毎日のように発表される署名数は日に日に百万筆に近づいて行く。
ついには、国会で野党の質問として取り上げられ、文化庁長官の答弁で、十分な数の署名が集まるなら、日本政府としてユネスコ側に推薦してもいいと明言するまでになった。
その答弁を受けて、いつの間にか、目標の百万筆集まれば、日本政府が桜を無形文化遺産に推薦するということが既成事実化され、署名活動にさらなる拍車がかかった。
新聞紙面上、あるいは、インターネット上などに掲載されている署名数が加速度的に増加していく。百万筆までもうすぐだ。
そして、とうとう、その日が来た。
その日の朝、俺が新聞受けから朝刊を引っ張り上げると、ここ最近の習慣になっていた一面隅の数字に眼を向ける。
そこには、一から始まる七ケタの数字が記されており、昨日まであった残り署名数の記載がなくなっている。代わりに『百万達成』の文字が躍っていた。
「おお~っ!」
思わず、歓声をあげてしまう。感動に酔いしれる。
って、俺が別に署名活動をしたってわけじゃないのだけど。
慌ててスマホを取り出し、さくら先輩のアドレスにおめでとうメールを送った。
署名活動はもちろん、それで終わりでなく、その後もしばらく続き、最終的には百二十万筆まで集まったようだったが、そのころには、すでにマスメディアの関心は他に移っており、誰も話題にさえしなくなっていた。
ともあれ、目標数の署名を集めた以上、日本政府が桜を推薦するのは誰にとっても既定路線になっていた。
春、日本政府はユネスコに推薦する無形文化遺産の候補を発表した。
もともと今年推薦予定だったものに、変更はなかったが、桜は来年度の推薦枠には入っているものと、日本人のだれもが信じていた。疑ってもいなかった。
だが、そこにあったのは、全然別のもので。
・・・・・・
当然、政府に対して、激しい抗議の声が湧きあがる。あの署名活動はなんだったのか、文化庁長官の答弁はなんだったのかと批判が巻き起こる。大臣の辞任要求が声高に叫ばれる。抗議のデモ行進が与党ビルや国会を何重にも取り囲む。
そんな中、内閣から一つの声明がだされたのだった。あの署名活動では、百万筆を集められていなかったという内容の。
四十万筆を越える無効署名が紛れていたと。
「そんな・・・・・・」
人々は絶句した。そんなバカなことがあるかと、憤った。だが、それは事実だった。署名活動を率いていた人物の証言によって、そのことはのちに裏付けられることになる。
そう、その署名活動にはウソの署名が大量に紛れていた。
実在しない人物たちの署名が多くを占めていた。
まさに、そこには多くのサクラがいた。
いつか本当に桜の木が無形文化遺産に登録されないかな。
桜の木ほど、日本人に愛され、日本の文化に溶け込んでいるものって他にないだろうしね。
たとえば、花見の文化だとか、角館の樺細工、桜湯や桜餅につかう桜の花や葉の塩漬けだとか、さらにいえば、たしか浮世絵の版木は桜だったはず。万葉の時代から、桜を題材にした和歌、文芸作品は無数にあり。しかも、今でも続々と生み出され続けている。日本の文化に影響を与え続けている。
というわけで、ぜひぜひ、桜の木をユネスコの無形文化遺産に!