大掃除
秋の始め、俺たち一家はこの町に引っ越してきた。
前に住んでいた家は、ちょうどこの県の反対側で、学校に通うのがしんどい距離だったのだが、こっちに来てからは近くなり随分楽になった。だから、俺的には満足している。
今のこの家の向かい、杉田さんちには俺より一つ年下の女の子がいる。そして、その子の部屋はちょうど二階の俺の部屋の真向かいにある。向かいの窓からは、ぬいぐるみが並べられた部屋の中の様子が見える。
といっても、別にしょっちゅう彼女の部屋を俺は覗いているわけじゃない。変態じゃないんだし。たまたま偶然眼がいくだけだ。
朝も、ときどき時間帯が一致して、彼女と前後して駅へむかうこともあるが、彼女が着ているのは二つほど隣の駅の女子高の制服。俺とは違う方向だし、これまで全然話すことなんてなかった。
別に彼女は多くの人目を惹きつけるほど華やかな容姿ってわけでもないし、制服の着こなしも崩れたところもなくきっちりとしているし、とても地味な印象の子。偶然、道端で見かけても、とくに胸が高鳴るってわけでもない。
だけど、気になる。
なおさら、あのぬいぐるみとのキスシーンを目撃してからは。
強い寒波が南下してきたとかで、急に寒くなったあの日、俺の家では鍋をした。
たらふく食べ、お腹いっぱいになり、歯を磨いて部屋に引き返してくると、向かいの部屋の窓に明かりがともるのが眼に入った。
鍋からの湯気のせいで、曇っている俺の部屋の窓。換気がてら、気にせずガラス窓を開けようと窓辺に近づいたのだが。
向かいの明かりの中で、人影が揺れているのに気が付いた。杉田さんちの女の子だ。
その子は部屋の隅に飾られている大きなテディベアを両手で持ち上げると、ギュッと胸に抱いた。それから、顔の前に持ち上げると、チュッ。そして、頬ずりした。
くしゃくしゃの笑顔。しあわせそうに眼を細め。
それから、もう一回、チュッ。
と、不意にすべての動きが止まって、ハッとした様子でこちらを振り向く。眼が合った。
たちまち、顔が赤く染まっていく。
次の瞬間には、カーテンが勢いよくひかれていた。
けど、可愛かったなぁ~ なんていうか、胸の中がほっこりするっていうか。
今、思い出しても、顔がにまにま笑ってしまう。
って、そんなことより、今日は家族みんなで大掃除。きびきび働かなくっちゃ。
俺は窓を開け、部屋の中の荷物を整理して、棚にはたきをかけ、床に掃除機をかけた。
頭にはホコリよけのタオルを巻き、腕まくりしている。体を動かし続けているので、じんわりと汗ばんでいて、後で風呂に入ろうと決心をした。
手をかければかけるほど、部屋の中はきれいになり、居心地がよくなる。調子にのって、思わず鼻歌のひとつでもハミングしそうになるのだが、なんとか自重し、最後に残った窓拭きに取り掛かる。
なにげなく視線をやると、お向かいさんもどうやら大掃除の真っ最中のようだ。窓を開けて、中腰になって掃除機をかけている小さな背中が見える。
そういえば、彼女、下の名前、なんていうのだろう?
今まで一度も話したことがない。彼女のことで知っていることといったら、この窓からのぞき見えるような情報だけ。あとは、通っている学校と学年ぐらいか。
あの時の笑顔、すごくかわいかったなぁ~
俺に見られていたと気が付いて、急激に赤くなっていった表情もすごくチャーミングだったし。次の日、家の前の道でばったり顔を合わせたときも、恥ずかしそうにしていた顔が印象に残っている。
あれ以来、何度彼女に声をかけようかと思ったことか。
けど、なんて声をかければいいか分からなかった。
なにしろ、接点なんてほとんどないも同然の相手なのだから。
おっと、そんなことばっかり考えていたら、彼女の方は掃除機をかけ終えて、出ていった。
一瞬だけチラリとこちらに眼を向けていった気がするけど、俺の方は窓に洗剤の泡スプレーを噴きつけているところだったから、素知らぬフリ。うまくできたかな?
俺の目の前で白い泡がガラス窓いっぱいに広がっている。
それを手にした古タオルで丁寧に拭き取り、最後に雑巾で水拭きする。それを裏表2枚ずつ。計4回くりかえすのだ。
最初の一枚分が終わり、二枚目の外側。窓を開けて桟から外へ身を乗り出していると冷たい風が吹きつけてきて、身震いしてしまうが、さっきからずっと体を動かし続けているので、案外耐えられる。
泡スプレーを噴きつけて、しばらく待ってからいっぱいに腕を伸ばして、拭き取って。
ふと妙な感覚がして視線を上げた。
あっ、見られてる。
思わず、びくっとなってしまったが、ことさらに冷静さを装って、気が付かないフリ。だって、彼女も窓拭きを始めようとしているところみたいだし。
なんとか、窓の外側を終え、窓を閉めて、最後に残った内側にスプレーを噴きつける。
真っ白い泡がガラス窓一面を覆い尽くし、汚れを浮かせる。
さっき綺麗にした方の窓からは、向かいの彼女の部屋の様子が見える。
大きく広げた雑巾をガラス窓に押し付け、ちょこまかとした動きで円を描くように拭いている。
ハァ~と息を吹きかけ、少し寄り目にして、そして、どこか楽しげで・・・・・・
たぶん、もしかしたら、俺が見ていることに気がついているのかもしれない。顔が赤いような気もするし。
・・・・・・
俺はスプレー缶を持ち上げた。そして、最初に綺麗にした窓ガラスにも噴きつける。
――シュウゥゥゥ~~~~
プチプチと弾ける泡。あっという間にガラス窓を覆い、部屋の中が薄暗くなる。
それから、俺は古タオルを人差し指に巻き付けて・・・・・・
「もしもし・・・・・・」
『あ、あの・・・・・・ わ、私、杉田です。杉田真帆』
そっか、真帆ちゃんっていうのか。すごく彼女に似合ってる。それに、声も想像していた以上に可愛い。
俺は、歓声を上げそうになるのを必死に抑えながら、ガラス窓を覆う白い泡を拭きとるように古タオルを動かした。
鏡文字になった俺の携帯番号の一部が消え、そして、その向こうに、ケータイを耳に押し当てて、俺の部屋の方をじっと見ている真帆ちゃんが見えていた。見事に真っ赤に頬を染めて。