オン霊
同僚の智久との不倫の末、私たちは崖から飛び降りることにした。
智久の奥さんは宗教の関係とかで、すでに夫婦仲が冷え切っているというのに離婚が出来ないし、私たちの関係は、会社にしられる寸前。
にっちもさっちも行かない手詰まり状態だった。
もうこの世で添い遂げられないなら、あの世で・・・・・・
私たちは思いつめていた。
『ふたりで幸せになろうね』
なんて、誓い合って、だれもいない夕闇の中、手に手を取り合って、崖の端に立った。
足元のはるか下で波がくだけ、轟音があたりにこだまする。
いざとなると、足が震え、腰がくだけそうになるのだけど、次の世での二人の幸せを夢見るだけで、不思議と勇気が湧いてくる。
やがて、いよいよ飛び降りようと二人の決心がついた。
さあ、いよいよ。最後の瞬間には、私の笑顔を見ていてほしくて、智久の方に顔を向けようとした。その途端、私、後ろから押された。
――えっ?
私を後ろから押したのは、智久だった。
智久が、私の手を振りほどき、背後から私を突き飛ばした。
私の手が智久の手を求めて、空中を掻くけど、空をつかむばかり。
そのまま、頭からまっさかさまに、海面へ落ちていったのが、生前の最後の記憶だった。
結局、智久と私、一緒に死ななかった。
その後、しばらくして交通事故で死んだ友人からの情報では、智久、私が死んだ翌日には、何食わぬ顔で会社に出勤していたし、私たちが死のうと決めたときには、すでに奥さんのお腹に智久の赤ん坊がいたらしい。
そう、私は智久にだまされていたのだ。
奥さんとの夫婦関係がうまくいっていないというのは、最初から真っ赤な嘘だし、宗教の関係で離婚できないってのも嘘。ただ、私を誘惑し、もてあそび、飽きたら捨てるつもりだったのが、うまくいかずに、私を殺したのだ
憎っくき、智久! うらめしや! この怨みはらさでおくべきか!
私は、怨みのために、成仏できず、怨霊と化してしまった。
いま、私の遺体は、潮の流れにのって、崖下から移動して、シーズンには人出が多い海水浴場近くの海の底にある。
普段は体中に海草が巻き付き、海面へ浮上することはない。
でも日の光がなくなると、怨霊としての力が目覚め、比較的自由に移動できるようになる。
だから、海の底から顔を出し、血走ったまなこをカッと見開いて、近くの海岸線を監視し続ける。もし海岸線沿いを男の人影が通りかかれば、智久でないか確かめに海岸へ上がっていくのだ!
でも、海草をまとわりつかせ、体中を血まみれにした私の姿を見て、恐怖におののき逃げていく男たちの中に、智久はいなかった。
その日も、私は海岸の方を監視していた。
この海岸は夜になると出るという噂が広まったようで、最近では夜中に海岸近くまでやってくる人間なんて、ほとんどいない。
でも、その日は、海岸沿いのキャンプ場にテントの薄ぼんやりした灯りがひとつだけ見えていた。
やがて、そのテントの中から人影が現れ、水道のある方へ歩いていく。
どう見ても、その人影は男だ!
智久! 智久にちがいない!
スラリとした体型が似ている。だから、わけもなく、智久だと思い込んだ。
そして、海の中を急ぎ、海岸から上がると、海水を滴らせながら、水を汲んでいるその人影へ一歩一歩近づき・・・・・・
「う・ら・め・し・や~~~!!」
その男、振り返った。
「え? なにか言った?」
耳からイヤホンを外しながら、驚いた表情で私を見た。
振り返った顔。全然違った。智久じゃなかった。
「君、どうしたの、その格好! 血だらけでドロドロだし、キズだらけじゃん!」
そういったかと思うと、私の腕を取り、ぐいぐいキャンプ場の方へ引っ張っていった。
「海でおぼれたの? 手、冷たいね。冷え性? とにかく、このままじゃいけない。いそいで手当てしないと。テントに応急処置用の医薬品とかあるから。大丈夫。私、本職は医者なんだ。ツーリングの途中で道に迷って、たまたまココでキャンプすることなったけど、君、運がいいね。大丈夫、私が手当てしてあげるから、心配いらない!」
私の抗議の声を無視して、一方的にまくし立てながら、とうとうテントのところまで連れられてきた。
そして、懐中電灯の明かりを頼りに、私の体中の傷口を消毒し、薬を塗って、手馴れた様子で包帯を巻いた。
「ま、こんなもんでしょう? 結構、深い傷とかありそうだけど、血とか止まっているみたいだし、大丈夫だね? あと、そんなドロドロの格好じゃね・・・・・・ そうだ、私の着替えあるから、それ着るといいよ」
そういって、大きなカバンをゴソゴソと探って、派手な柄のTシャツを取り出した。
原色の赤と黄色が入り混じった背景に、明るい水色で『Happy Lovers』
・・・・・・
「ちょっとダサダサで悪いけど」
結局、私、その男が気を利かせてテントの外へ出て行った後、そのTシャツに着替えた。
洗い立てで、ガサガサした感触の布地。
それになんだか、男くさい。でも、妙に心地いい・・・・・・
私が普段いるのは冷たい水の中。冷え冷えと薄暗い。
でも、唯一動ける夜に、陸に上がった私の姿を見かけると人は逃げていく。
だれも私に近寄ろうとはしない。
私が死んで、初めて触れたあたたかいもの。気持ちの良い気遣い・・・・・・
たちまち、私の目には温かいものが溢れてきた。
それがしずくとなって、床に向かって落ちていく。
ひと滴、ひと滴。ポトッ。ポトッ。
私の涙、テントの床ではじけるたびに、少しずつ少しずつ心が軽くなっていくような気がした。
「で、彰?」
夜勤明けで目の下にクマを作った白衣の女が、テーブルを挟んで向かい合いコーヒーをすすっている男に話しかけていた。
「その女の人、気づいたらいなくなっていたの?」
「ああ、俺、ずっとテントの入り口の前で着替え終わって出てくるの待ってたから、絶対、いなくなるなんて、ありえなかったんだけどな」
「で、その女の人は幽霊だったと?」
「ああ、朝になって、犬の散歩中の地元の人に聞いたら、その海岸、出るんだと」
「・・・・・・」
二人して、コーヒーをすする。
「で、彰の後ろに立っている女の人はナニ? さっきから、私をすごい形相でにらんでいるのだけど?」
女はあごで『Happy Lovers』のTシャツを着て、彰の後ろにじっと立っている半透明のモノを指した。
「ああ、あのときの手当てのお礼しなくちゃ、成仏できないらしい・・・・・・」
そのとき、派手なTシャツの恩霊のおどろおどろしい声が二人の耳に聞こえてきた。
『ありがたや~ このご恩、返さでおくべきかぁ~~~!!!』