蚊
今日もチンプンカンプンな5時間目・数学の時間、私は、真っ白なノートをただ見つめるだけ。
黒板の前では、先生が汗をタオルで拭き拭き問題を解いているけど、私の頭の中に入り込むことなく、ただ、通り過ぎていくだけ。
その一言一言は、私にとって、ただの意味のない音。なにものも持っていない。
そう、今、私の右耳のそばを、かすかな、そして、不快な羽音を立てて通り過ぎていった、蚊のように。
そういえば、親友のケイちゃんが『土田君が好き』って私に告げたとき、どうして私も土田が好きだって言えなかったのだろう。
4月にこのクラスになってから、ずっと好きだった土田。私の前の席で、突っ伏して居眠りしている。
私のように、先生の話なんてなんにも聴いていないのに、私と違って、テストでの成績はダントツのクラス・ナンバーワン。
数学だけでなく、英語も国語も、なんでもかんでも得意で、さらにスポーツも万能。明朗溌剌、頭脳明晰。その姿に、最初の日でノックアウトされてしまった。
その日から、夜には、必ず決まって神様に夢の中でいいから土田に会わせてって祈ってから寝るようになった。でも、その願い未だにかなっていないけど。
フッと見ると、土田の首筋に小さな黒い影が・・・・・・
私、両目の視力2.0。
両親も両方の祖父母たちも、みんな目がいいし。老眼鏡以外のメガネをかけている姿なんて見たこともない。
だから、土田の血をたっぷり吸い込んで、飛び上がったその黒い影・蚊が、フラフラと私の方へ飛んでくるのが見えていた。
そして、真っ白なノートの上にそろえられた私の手に降りてくる。
それを追い払うでなく、ボーっと見ているだけの私。私の血管を探り当て、ハリをずぶりと差し込む。一瞬、羽根をブルッと震わせ、満足そうに私の血を吸い込んだ。
やがて、体が重くなったので、鈍重に飛び上がる。
私の前の席で、土田が首筋をボリボリ掻いているのが見えた。
いずれ、私の手にも、プクッと膨らんだ痕ができて、かゆくなるのだろう。
親友と同じ人を好きになった私。
土田に好きだって、言いたい。私の前の席で居眠りしている姿を見るたびに、のどから『好き』って言葉が飛び出しそうになる。それをグッと堪えて、机の上の教科書に視線を落とす。
言いたい。私の気持ちを伝えたい。でも、そうするとケイちゃんと親友ではいられなくなる。
ケイちゃんが土田を好きだって言ったときに、私、『がんばって、応援してる!』って言ってしまった。
そして、あとで家に帰って泣いた。
土田が好き! でも、ケイちゃんをだまして、傷つけて、親友でなくなるなんて、イヤ!
私、私、どうしたらいいの・・・・・・
やっぱり、このまま、黙っているしかないの?
だれにも、ケイちゃんにも、土田にも、私の本当の気持ちを伝えるなんてこともなく、ただ黙って、静かに見ているだけ。
私の血を吸った蚊、近くのカーテンの陰へ入っていった。
蚊のお腹の中で、私の血と土田の血が、今交じり合っている。
現実の世界でも、夢の中でも、交じり合えない二人なのに・・・・・・
このまま誰にも見つかることなく、つぶされることなく、生きていてほしい。
私、手に出来たふくらみを掻きながら、心の底から、そう願っていた。