陸
土人形が表へ浮かんでこないことを繰り返し繰り返し確かめた。そして早鐘を打つ心臓をなだめて店に帰ってくれば、大店の構えが男を出迎えた。
男に気付いた番頭が挨拶をしながら駆け寄ってきて、今日の商売についての指示を仰いでくる。やがて、すっかり馴染の客が通りかかって「おや、玖肆屋の旦那、今日も繁盛していますなぁ」と笑いかけてくる。
いつもの生活が続いていることに安心して、奥に入ったところ、頭上から視線を感じて、ふと神棚を見上げた。男はあっと叫んだ。
今朝方川に捨ててきたはずの土人形が腰かけ、足をぶらつかせている。男は人目もはばからず人形をひっつかむと、唖然としている使用人や客の間を走り抜けて表へ出た。
ひと気の無い小路に入ると男は土人形を固い地面にたたきつけ、石を打ち下ろし、足で踏みしだいて粉々にした。
店に戻り、何より先に恐る恐る神棚を見上げた。
土人形はいない。
男はほぅっとゆっくり息を吐き出した。
次の日も、その次の日も土人形は帰ってこなかった。
しかし、使用人の間では「旦那様は最近お一人で怒鳴り散らしたり、急に走り出したりと少しおかしいのではないか。まるで何かに憑かれたようだ」という噂がたった。気味悪がった使用人が少しずつ辞めていく。
そんな中、出かけた先から帰ってくると店奥の家のほうが騒がしかった。
かかりつけの医者が男の横をすり抜けて家へ駆け込んでいく。男が戸を開けると妻が飛びついてきた。
「おい、何があったというんだ」
「は・・・・・・初太郎が急に倒れて・・・・・・」
震える妻をそのままに、男は離れに急いだ。そこでは跡継ぎが寝込んでいた。素人目に見ても大分具合が悪いのが分かる。
男は焦った。子は初太郎一人。もし死んだりしたらこの店を継ぐものはいなくなってしまう。
おろおろとする男を尻目に、妻は近くの神社へお百度を踏み始めた。「初太郎をお救いください。私の命と引きかえに初太郎の命をお救いください」と。
母の必死の願いが聞き届けられたのか初太郎は一命をとりとめた。
しかし元気になっていく初太郎とは裏腹に、今度は妻が病に倒れた。
高熱を出してはうなされ「初太郎、初太郎」とうわごとを言う。
男は、病が跡継ぎにうつるのを恐れて初太郎を妻のそばによせず、自分も商いに没頭して妻を顧みなかった。
女は一人寂しく苦しみ続けていた。
男と初太郎が女に会ったのは、もう死に際と知らされたときになってからだった。
「おっかさん!」
初太郎はやっと会えた母に泣きついた。
「初……」
弱々しい声と共に布団から伸ばされた母の手は、初太郎へ届くことなく、ぽとりと落ちた。