第八話 キャンパス わたしの最初は、柚希だし
それからしばらく、柚希は部室に顔を出さなかった。
碧に会って、うまく対応できるか自信がなかったし、もともと、高校の部活でもないから、毎日部室に日参する必要がないのだ。夏季休暇を過ぎれば学祭の準備も入ってくるが、それまでは、部室での作業はない。
この日の昼休み、柚希は亜衣とキャンパスの木陰で、学生生協で購入したサンドイッチをかじっていた。午後一番の必修が休講になったので、たまには気分転換しようとメールで待ち合わせたのだ。
昼食を終え、それぞれの学部の友人や、昨日のドラマの話に盛り上がった。
話をしながら、柚希はこのところ持ち歩いているカメラをいじる。
「なんかいいの撮れた?」
「全然。まだ、使い方を探ってる状態だし」
そういいながら、木の根元に照準を合わせてシャッターを押してみる。
「うーん、暗いなあ。この木陰だと、露出をあげるのがいいのかな。フラッシュ出したくないし、シャッター速度を遅くしたほうがいいのかなあ。三脚ないからブレちゃうか。難しいなー」
カメラの液晶を睨みながら、柚希は考え込んだ。やがて、ペットボトルに口をつける亜衣にレンズを向けた。
「もー、また練習台?」
「いいじゃん、減るもんじゃないし、動くものも撮らないと練習にならないもん」
「モデル料ほしいよ」
「友情出演ってことにして」
最初こそ、おもしろがってモデルを務めてくれた亜衣だったが、ピントも合わない、暗すぎる明るすぎるのひどいデキに辟易して、微笑んでみせることも、カメラに視線を合わせることもしなくなった。
綺麗に撮ってくれればいくらでも協力するのに、と不満顔の写真すらある。
今どきのデジカメはオート機能も充実しているので、いくらでも綺麗に撮れる。にもかかわらず、マニュアルで探りながらの撮影は、失敗続きだ。
カメラは奥が深い。
「柚希の短い爪も、見慣れてきたな」
「そう?」
カメラのシャッターを押しながら、言葉を返す。
「自分ではどうなの? 長い髪と長い爪じゃないと落ち着かないって、いってたじゃない」
「慣れたよ。髪も洗いやすいし」
苦笑しながら、カメラのダイヤルをいじる。少しずつ露出をあげてためしていく。
「ねえ、亜衣」
「なに?」
「ちょっと、変なこと訊いていい?」
「どうぞ」
「好きなひととエッチしてるのに、感じないことってあった?」
「って、ちょっと、なにそれ。法学部の学生がセクハラ発言だし」
亜衣は顔を赤らめて怒って見せた。その間も柚希はシャッターを押しているので、怒った表情もカメラに収められている。
亜衣はげんなりした気分になった。
「親友が悩みを相談してるだけでしょ」
「もー、なんなのよ。ないよ、そんなの…、あ、一回あったかな」
「どんなだった?」
「具体的に訊きますか?」
「だって、私、そういうこと経験できないし、こんなこと訊けるの、亜衣だけだし」
一瞬、亜衣ははっと目を見開いた。そして、諦めたように息を吐いた。
「感じないっていうか、嫌だった、だけど?」
「うん、よかったら、教えて」
「前に付き合ってたひとが、縛ってしてみたい、っていったの。嫌だったけど、多少興味もあったし、その人のこと、好きだったから、結局してみたんだけど、全然よくなかった」
「ふー……ん?」
まともな性行為の経験も欲求もない柚希は、曖昧な頷き方をした。愛情があれば、多少の遊び心はあっても普通のような気がした。縛るくらいの行為は、遊び心の範囲内ではないのだろうか。
「とにかく、だんだん腕が痛くなるし、痛いのが気になって気持ちが覚めていくし、散々だった」
「へー…」
「とにかく、あたしはSMのケはないんだって思い知ったの。あーいうのが好きな人もいるんだろうけど」
「優しくされて、嫌だったことは?」
「そんなの、あるわけないよ。なんで?」
「なんでって訊かれても困るけど、好きな人に優しくされて嫌なのは、どんな理由が考えられるのかなって」
「さあ、わからないなあ。本当は好きじゃないとか、他に好きな人がいるとか、なんとなく相性が悪いとか?」
「うーん、相性か」
写した写真を液晶に表示させて、確認する。何枚かは意図した場所にピントが合っている。暗さも数を打つ度、徐々に解消してきている。
「そういえば、この前、碧先輩と飲んだとき」
急に碧の名前が出てきたので、胸が波打った。不自然な態度にならないように液晶の表示に視線を落としたまま、ダイヤルを送ったり戻したりしてごまかした。
「碧先輩、結構、酔っぱらって、コイバナ訊かせてくれたの。最初に付き合ったひとが最悪なひとだったんだって。浮気されたり殴られたりもしたって。それでも、好きだったから、別れられなくて、辛くてしかたなかったみたい。いまは、そのひとのこと思い出すのも嫌で、吹っ切れてるみたいだけど」
ペットボトルのお茶を飲みほして、亜衣はため息をつく。
「最初のひとって、女はいつまでも引きずっちゃうかもね。引きずらなくても、エッチの基準にはなるのかも」
「……亜衣もそうだった?」
「わたしの最初は、柚希だし」
ひとの悪い顔で舌を出されて、思わずカメラから顔を離す。
「あんなのカウントしちゃう?」
「突っ込むだけがエロじゃない」
「下品すぎる」
「そうかな」
「お嫁に行けなくなっても知らないよ」
「大丈夫。いざとなったら、柚希にもらってもらうから」
「来年には戸籍も女になっちゃうから、無理でーす」
こんな冗談を笑いながら交わせる親友の存在が、柚希にはありがたくて仕方がなかった。
ほんの少し、苦い思い出に触れてしまうことも、自分たちにはきっと必要なことなのだ。