第六話 暗室 グロスって、キスしても取れないの?
暗室はレトロな空間だった。
赤い電球は頼りない明るさで、初めての柚希は戸惑うばかりだ。
「瀬戸さん、現像液、取って。棚の右上の白いポリ容器」
白いものが白くは見えない明かりの中で、なんとか指示される通りに動けた。洗ったり捨てたり容器に移したり、フィルムの数が多いので、それなりに大変だった。
「定着できたみたい。あとは水、流して十五分待つだけ。あ、乾かさなきゃいけないけど。手伝ってもらえて、助かった。ありがと。あとは、一人でも大丈夫だし、帰ってくれてもいいよ」
「せっかくだから付き合います。最後の工程まで見ておきたいし」
「そう? じゃあ、お願いしよーかな」
碧は嬉しそうに顔をほころばせた。
「大学、慣れた?」
水を流している暗室から外に出て、二人は缶コーヒーを飲みながら時間を潰していた。
「だいぶ。でも講義はちょっと難しいです」
「法学部だもんね」
「必修のほうが難しいのありますよ」
「なに?」
「図学」
「あー、図学。あれ、五人に一人は単位落とすんだよ」
ただでさえ難しい内容なのに、図学の教諭は生徒に理解させようという気持ちがないのではないかと、柚希は疑っていた。だらだらと本を読みあげる口調はまるで子守唄だし、黒板に図式を書くスピードが、やたら速い。
「でも、あたしは図学、結構、好きだったな」
「えー、すごい。どこが好きなんですが?」
「教授の声が」
「声?」
「あの先生、低くて甘い声じゃない? ああいう声、結構好み」
「はあ……」
図学の教諭は定年間近の老人の印象しかない。それほど美声だっただろうかと、首をかしげた。
「でもイチオシは史学の小野寺先生だな。めちゃくちゃ、甘いの」
どうやら碧は声フェチらしい。そう指摘すると「そういえばそうかも」と苦笑した。
明るい電球の下で碧を見つめれば、時折、年齢にふさわしい落ち着いた表情を見つけられる。そしてすぐに、屈託のない笑顔に変わるのだ。
幼いひと、というのが第一印象だったが、子どもっぽいのではなく、無邪気だったり素直だったり、そんな性格が前面に出ているのかもしれない。
このひとを、もっと知りたいと思った。
双子と妊婦にしか撮影意欲がわかなくて、恋人に対して素っ気ないこと。声フェチなこと。
もっと、もっと知りたかった。
「ね、グロス、塗ってる?」
碧が柚希の唇を見つめていた。
「ええ」
「缶コーヒー飲んでるのに、あんまり取れないね」
「そうですか? 朝、塗っただけなんですけど」
「グロスって、キスしても取れないの?」
「さあ、どうなんでしょう。ためしたことないから」
碧はいま、恋人のことを考えているのだろうか。胸を絞られるような思いがした。
新歓コンパの日、碧に恋人がいると訊いたとき、冷静でいられた。それからも碧のことは気になっていたけど、穏やかな好意だったと思う。
けれどいま、碧が恋人とのキスを想像しているのかと考えるだけで、悲痛な気持ちになった。
「ためしてみていい?」
「え?」
ふいに碧は椅子から立ち上がった。柚希の前で立ち止まり、腰をかがめた。
唇が触れ合うのを感じた。
流しっぱなしの水音が、やけに大きく聞こえた。唇から伝わる柔らかさを感じる前に、それは離れた。
「びっくりしたんですけど」
ひどく動揺しているのに、落ち着いた声だったので、自分でも驚いた。
「ごめんごめん」
反省している様子もなく、口元を覗き込んでくる。
「くっつくだけのキスじゃ、取れないみたいだね」
実験結果を確認するような口調に、柚希は腹が立ってきた。一人で動揺していることも悔しくて、恥ずかしかった。
「ちゃんとしたキスだったら、取れるかもしれませんよ」
挑発的なことをいってみた。
「……してみていい?」
返事をする代わりに、手のひらを後頭部に差し込んで引き寄せた。
一瞬、抗うように身体をかたくさせた碧だったが、すぐ合わせた唇を柚希にあずけた。
抵抗される気配がないのをいいことに、角度を変えて、口づけを深くした。舌をのばすと、碧も舌を絡めてきた。
あまりにも官能的なキスに、柚希は我を忘れた。
気になっているだけだと思っていた。
亜衣に、恋愛感情かと訊かれたときも、わからないと答えた。本当にわからなかったからだ。
なのに、碧がほかの男のことに気持ちを向けていると想像しただけで、辛くなった。
実際に触れてみて、好意の意味が明確になってしまった。
恋を感じた瞬間だった。
キスしながら、柚希は下腹部に血液が集まっていくような感覚を覚えた。異様な感覚に戸惑ったが、もっと碧に触れ合っていたくて、気持ちを集中した。
突然、携帯のタイマーがけたたましい音を発した。水で洗い流す作業が、終了したのだ。
碧は弾かれたように身体を離して、暗室に飛び込んだ。
夢を見ているような気分でのろのろと立ち上がった。キスをしていた時に、一瞬感じた下腹部の違和感を思い出す。経験のない不快感だった。
視線を自分の下半身に移した。レギンスとフリルのショートパンツに包まれた脚は、いつもと変わらない。身体の中心部分に触れてみる勇気は、どうしてもなかった。