第四十七話 M大 学祭二日目 いままでの自分の中で、一番好き
学祭が十時開始とはいえ、ほとんどの屋台はまだ、開店休業の状態だ。一般客はまだ少ないし、来ていても、展示会や催し物の見学に行っている。
碧が文学部のテントに着くと、佳奈や亜衣、それに十時から当番の数人が、雑談していた。
「碧先輩、昨日はお疲れ様でした」
「亜衣ちゃん、おはよ。亜衣ちゃんこそ、昨日はこっちが大変だったでしょ」
「車があると、どうしても買い出し係になっちゃうので。まあ、そういうのも初めてなんで、愉しんでます。えびせん自体は作るの簡単だし、好評でよかったですよ」
「それでさ、問題は卵なの」
佳奈が碧に心配顔を向けた。
「残ると困るよね」
「うん」
「昨日、いくつ出たの? スペシャルえびせん」
「二百くらい」
「ってことは、二十パックか。今日も同じだけ買って、三時以降に卵なくなったら売り切れでいいんじゃない?」
「そうだね。足りないくらいにしないと、だれかが持って帰らないといけないし……」
どのみち、ソースやマヨネーズ、青のりなんかは残ってしまうだろうが、卵は持って帰るのが厄介だ。できれば残したくないのが、みんなの共通した思いだった。
そのあと、買い出し組が足りない材料を買いに行った。
十一時までは、屋台の準備だけで、売り上げはまったくないのかと思っていたが、それなりに数が出ていく。食事には早いけど、おやつ代わりにちょうどいいのだ。ほかの食べ物関係の屋台がまだ準備中なので、余計に集中するのもあるのだろう。
忙しい思いをしているうちに、買い出し組が戻ってきた。
時間を見るために携帯を開くと、柚希からメールが届いていた。喧噪のなかで、音がかき消されていたらしい。
『今日、映画研究部の上映会が一時からあるんですけど、よかったら一緒に行きませんか? 上映時間は三十分くらいみたいです』
その時間は、ちょうど当番から外れている。昨日話した時間帯を、覚えてくれていたらしい。昨日、碧の方からメールをするといったのに、柚希から連絡してもらえて浮足立った。
『行く。瀬戸さん、いまどこにいるの?』
メールを送ると、レスはすぐに来た。
『文学部の屋台の近くです』
メールを見て、びっくりして辺りを見廻した。テントの後方の少し離れたところで、柚希がこっちを見て微笑んでいた。浮かれて携帯を操作していた姿を、眺められていたかと思うと、気恥ずかしい。
「こんなとこにいるなら、なんで、声かけてくんないの?」
碧が拗ねて唇を尖らせると、柚希は肩を竦めた。
「すいません。忙しそうなのに、お邪魔したらまずいと思って…」
碧は小さく息をついて、携帯を開いた。時間は十一時二十分だった。すでに交代の時間を過ぎている。当番の一年に声をかけて、碧は柚希と連れだってテントを離れた。
「碧さん、お昼まだですよね」
「うん。瀬戸さんは?」
「まだです。一緒に屋台回りしませんか?」
「いいよ。でもいいの? 亜衣ちゃんや法学部の友達と約束してないの?」
「昨日一緒に回りましたし、今日はフリーです」
「ふうん、どこで食べる?」
「実は、あちこちからチケットをもらったり交換したりして、たくさんあるんです。できれば、一緒に食べてもらって、少しでも減らしたいんですが、いいですか?」
「いいけど、ひとりで食べきれないくらい、チケット余ってるの?」
「はい。あまり知らない上級生からもいただいたので、テントに行かないと申し訳なくて……」
ああ、そういうことかと、碧は納得した。
要するに、柚希がモテて貢がれたのだ。本人がそのことに気がつかずに、親切にされたと思って恐縮しているのだろう。
「ねえ、チケットと一緒に、チラシかなにか、もらわなかった?」
「もらいました。いろいろ」
柚希が鞄の中からチラシを出して、碧に手渡した。そのチラシを見て、碧は自分の予想が間違ってなかったことを知った。催し物のチラシにクラブの勧誘もある。すでに写真部員なのに。
それにしても、いままで柚希のことは、水面下で評判にはなっていたが、それほどあからさまな行動に出てくる学生はいなかった。急にどうしたのだろう。学祭の解放感からだろうか。
碧が首を傾げていると、中学生くらいの女の子が三人、躊躇いがちに近づいてきた。
「あの、写真展で展示されてる『変化のとき』のモデルさんですよね?」
遠慮しながらも、柚希に尋ねる。
「はい……」
柚希が頷くと、中学生たちがきゃー、と飛びはねた。興奮した様子で携帯を手に押し迫ってくる。
「一緒に、写真、撮ってもらえませんか?」
「え……、でも…」
柚希が困って後ずさりしていたので、碧が声をかけた。
「いいじゃん。写真くらい。あたしが撮ってあげる」
「碧さん~」
「ありがとうございます。この携帯でお願いします」
「オッケー、並んで」
柚希は嫌そうにしていたが、結局、諦めて写真におさまった。中学生に感謝されて、碧は笑顔で手を振った。
「副部長の写真のせいだったんだね」
「なにがですか?」
「その貢物のチケット。あの写真で、一気にファンが増えたんだよ」
「ええ~、困ります。目立ちたくないのに……」
「ここまで来たら、もうしょうがないって。あんまり逃げ回っても余計に追いかけられるし、適当に相手してあげればいいんじゃない?」
「そうなんですか?」
「さあ?」
「さあって、碧さん……」
「だって、あたしファンに追いかけられたことなんかないんだもん。わかんないよ」
「碧さんらしい。すごく、適当……」
ふたりは顔を見合わせて笑った。こんなふうに、うちとけて笑い合うのも久しぶりだった。
「……写真、ありがと」
歩きながら、碧はぽそりと呟いた。
「え?」
「写真展の。瀬戸さんの写真、去年あたしが写した写真の反対側から撮ったんでしょ」
「はい。碧さんから訊いた駅を歩いてたら、偶然あの場所にたどり着けたんです」
「あのガラスの向こう側を見るなんて、思ってもみなかった」
「去年、亜衣と、この学祭に来て、いろんなものを見たはずなのに、碧さんの写真のことばかり、何度も思い出しました。どうしてこんなに気になるのか不思議でした。写真ってなんだろうって、それを知りたくて、写真部に入部して、碧さんに出会えて……」
柚希の言葉が途切れた。
「大げさかもしれないけど、孤独から解放されたみたいでした。どんなひとと、どんなに親しくなっても、こんなに近くに他人の存在を感じたことなんか、なかったから」
柚希は碧に微笑みかけた。寂しそうな笑顔だった。柚希からの告白を、碧は初めて男らしい言葉だと思った。素直な言葉が、とても潔かった。
「あたし、ほんとに瀬戸さんのこと、なにも知らなかったんだ。ごめんね。でもさ、訊かなきゃわかんないよ。あたしって、鈍いらしいし。これからはもっと、教えてくれる?」
「はい、もちろん……」
柚希の持っていたチケットで、唐揚げとたこ焼き、それからおでんを交換した。どのテントからもここで食べていってくれと懇願されたが、ちょうど昼時なので空席もなかった。お盆に乗せてもらって、キャンパスの隅のベンチで食べることにした。
屋台の食べ物はどれも、学食のプラスチックやセラミックの食器なので、お盆を運んで移動するのは面倒だったが、屋台から離れた場所で落ち着くと、喧噪から少し解放された気分になった。
本部から聞こえてくる音楽や案内の放送が、遠くなって心地よかった。
「ねえ、瀬戸さん、今日、大学に泊まる?」
こんにゃくを齧りながら、柚希に尋ねた。
「大学に泊まるひとなんて、いるんですか?」
「運動部の男子は多いかな。一晩中、屋台で飲んでるんだよ、夜は寒いのに。次の日、片付けに大学に着くと、死体みたいな学生が、あちこちに転がってて面白いよ」
「……面白いんですか、それ?」
「うん、わりと。佳奈も去年泊まったよ。そのときロマンスがあって、いまも、そのときの彼氏とつきあってるの」
「碧さんは、泊まったんですか?」
「……うん。泊まったよ」
佳奈の話をしなければよかった。こんなことをいえば、当然自分のことも訊かれるとわかりそうなものなのに。去年は二時間以上かかる実家から通いだった。屋台で飲んでいるうちに最終に乗り遅れて、徹夜で飲んで騒いだ。
「ロマンス、ありました?」
「……ちょっとだけ。すぐ別れちゃったけど」
事実だけど、あまり柚希に訊かせたくない話だ。気まずくて必死に咀嚼を繰り返す。
「今年は泊まるんですか?」
「瀬戸さんが泊まるなら、泊まろうかなって」
「私は帰ります。なんか碧さんに大学で泊まってほしくないし。私が帰ったら、碧さんも寮に帰ってくれるんですよね?」
「今日は帰らないって、寮長さんにいって出てきちゃった」
「碧さん……」
柚希は眉をひそめた。咎めるような視線を送ってくる。
「お願いしたいことがあるんだけど」
「……なんですか?」
柚希は訝しげな表情だった。
「今日帰るなら、瀬戸さんの部屋に行っていい? ちゃんと話したいことがあるから」
柚希が大学で泊まるなら、というか徹夜で飲むなら、それに付き合うつもりだったが、マンションに帰るなら、むしろ落ち着いてちゃんと話をしてしまいたい。いままでのことも、これからのことも。
踏み込んだ話をするなら、内容は柚希の性同一性障害にかかわる話になるので、訊かれていい会話ではなかった。松浦の写真のせいで、いままで以上に目立っているなら、なおさら、どこでだれが聞き耳を立てているかわからない場所では話せない。
本当は少しでも早く、気持ちを伝えたかった。そして、まだ知らないことを、教えてもらいたかった。
柚希とは、好きなだけではつきあえない。亜衣に、覚悟してくれといわれた意味を、碧はいま、噛みしめていた。
「……わかりました。じゃあ、一緒に帰ればいいですか?」
「うん。ごめんね、わがままいって」
柚希が、いえ、と首を振った。
食べ終わった食器を重ねてお盆に並べた。学食に持って行って、水洗いをし、返却すると、食器一枚で五円返金されるシステムだ。
学食で食器を返却し、運営委員から小銭を受け取った柚希が、少し困っていた。もともとチケットがもらい物だったので、わずかとはいえお金を受け取るのに、抵抗があるようだ。すぐ横に募金箱があったので、ほっとした様子で、そこに戻ってきた小銭を入れた。
「碧さん……、期待してもいいのか悪いのかだけ、教えてください」
歩き出して、柚希が尋ねた。辺りにひとがいなかったので、碧は話し始めた。
「…あたし、瀬戸さんのこと、好きだよ。でもこないだ、瀬戸さんと別れたら、どうなるんだろうって想像してみた。何年か経ったら記憶も薄れて、他に好きなひとができるのかなって……」
「…………」
柚希が表情をなくした。碧は柚希がよくない方に考えていることがわかったが、淡々と言葉を続けた。
「きっとそうなると思う。時間の力って偉大だから。そのときは、このひとより好きなひとなんて、絶対現れないって思っていても、たぶんそんなことない。時間が過ぎて新しいひとに出会ったら、きっと変わってしまう。でもあたしは……」
碧は柚希の手を握った。
「瀬戸さんを好きな自分が、いままでの自分の中で、一番好き。この気持ちを消したくないの。これからも、大事にしていきたいの。変わってしまいたくないの」
柚希は、弾かれたように目を瞠った。そして、碧の手を強く握り返した。
「だけど、期待していいかって訊かれたら、正直よくわかんない。瀬戸さんからしたら、別れた方がマシって思うかもしれないし……」
「…………碧さんと別れたほうがいいなんて、なにがあっても思いませんよ」
「うん……」
覚悟はある。けれど、不安もある。
どこかですべてを、吐き出さなければならない。
碧が覚悟や不安を吐き出しても、柚希は拒絶しないのか、心配でしかたがなかった。
以前どこかで、49話が最後と書いた気がするんですが、50話で最終話になります。長い話もあるし、短い話もありますが、そのままいきます。全50話の中で、一番止まって動かなかった47話。投稿できて、ほっとします。残りはまだ殴り書きのような部分が多く残ってますので、明日はお休みします。