第四十五話 M大 学祭初日 タイカレー
夕方の軽音ライブまで時間が空いたので、お化け屋敷を撮影した。そして、学部やクラブの屋台を撮影しておこうと場所を移動する。
どこにいても、碧は視線の端で柚希を探した。他の友人や顔見知りにはいくらでも会えるのに、柚希には、なかなか会えない。昨年つきあっていた元彼の二人と出くわしてしまったのが、いっそう虚しかった。
法学部の屋台まで来たとき、碧は撮影を言い訳にして、立ち止まった。レンズ越しに探してみても、柚希の姿は見つからなかった。
「碧さん」
がっかりしていると、探していたひとの声が、背中から届いた。
「瀬戸さん……いま、屋台担当?」
振り返って見た柚希の表情は、いままで見たことがないような複雑な表情だった。ぎこちなさと、戸惑いを隠しきれないまま、無理に笑おうとしていた。碧は、自分も似たような顔をしているのだろうな、と思った。
そして、そんな顔をさせていることが、そんな顔をしているのに声をかけてもらえたことが、嬉しかった。自分はまだ、見捨てられてないと信じられた。
「あの、…お昼、食べました?」
いまは二時近い時刻だ。柚希にしては間の抜けた発言である。
「えびせん、食べたよ」
「じゃあまだ、入りますよね。カレー、食べていきませんか?」
柚希の震えそうな声からは、緊張感が伝わってくる。
「……うん、食べる」
柚希がほっとして笑みを浮かべたのが、胸についた。まともに口を効いたのは、柚希の部屋を飛び出して以来だ。
鞄から財布を取り出そうとしたら、柚希がそれを制した。
「チケットがあるので、これ、使ってください」
「いいの? お金出すよ」
「いえ、一年は五枚購入がノルマだったんです。二日で五食カレーを食べるのは、さすがに無理なんで、手伝ってもらえると助かります」
「じゃあ、奢ってもらう。ありがと」
柚希はぎこちなく頷いた。
テントの中に設けられた席に座って、柚希の後姿を眺めた。ふと、この間、佳奈と交わした会話を思い出した。終始、デート割り勘説を唱え続けていた。援助交際みたいだ、と嘆いていたけれど、結局佳奈は、恋人と長くつきあっていきたいから、あんな考えになるのだ。
大切な相手だから、デート代のために無理してバイトして欲しくないし、嫌われたくないから、デートの最後まで生理だと打ち明けられなかったのだ。
碧はいままで、そんな風に恋人に心を砕いたことがなかった。あとから不満を訴えられるのが嫌だから、体調のことはさっさと告白した。それで嫌がるなら別れてもいいと思っていた。
柚希とのつきあいは、特殊だった。
後輩の女の子だと思っていたから、奢ってあげるべきは自分の方だと思っていた。一緒に出掛けることはほとんどなかったけど、一度だけ、一緒に外食したときは、柚希が譲らなかったので割り勘にした。
柚希が最初から男だとわかっていて、それでもつきあっていたとしたら、確かに金銭面で、なにかしらの躓きはあったかもしれない。いままで同性だと思っていたから、うまくやってこられたところも、多かったのだ。
柚希がお皿に載せたカレーを運んできた。目の前の料理を見て、碧は小首を傾げた。
「これ、カレーなの?」
確かに、ご飯の上に、カレーのような汁がかかっているが、その色は碧がよく知るものではなく、白っぽくて、緑がかっていたのだ。
「タイカレーです」
よく見れば、屋台の看板に大きく『タイカレー』と大きく書いてある。柚希を探すことに夢中になっていて、気づかなかったらしい。いままで撮ってきた写真が、心配になってきた。
えびせん同様、マクロモードで食べる前のカレーを写真に収めた。すべての屋台の食べ物を撮ることはできないが、自分が食べたものくらいは撮影しておきたい。
小さめの深さがある皿に盛られたカレーは、あちこちの屋台で食べ歩くことを考慮して、量は半分くらいだ。中途半端な時間に食べるには、ありがたかった。
「いただきます」
手を合わせて、碧はスプーンを手にした。柚希は、向かいの席に座った。この時間になると、テントの中の席も空いている。
「あれ? そういえば、法学部って、インドカレーじゃなかった?」
「そうなんです。でも、インドカレーだと煮込む必要があるらしいので、途中で変更したんです。タイカレーの方が調理時間は短いので」
エコがテーマの学祭の影響は、文学部のみならず、法学部にも及んでいたらしい。
「エコでお国替えって感じだね」
「そ…うですね、たぶん…?」
碧はひと口食べて驚いた。
「あ、おいしい。こんなの初めて食べた」
いままで食べてきたカレーとは、全然違う。他のなにに似ているとも形容しがたい味だった。好き嫌いは別れるかもしれないが、碧は好きな味だった。
「よかった。辛くないですか?」
「辛いけど、なんかちょっと甘い感じもしておいしいよ」
「ココナッツミルクが入ってるんです」
「ねえ、この黄色くて細いの、これ、なに?」
「たけのこです」
「へー、カレーにたけのこ入れるんだ。本場タイ流?」
「いえ、かなりアレンジしてますよ。しめじが入ってるでしょ。本当はフクロダケってキノコを入れるらしいんです」
「そうなんだ。でも、おいしければどっちでもいいよね」
こんな風に会話を交わすのも久しぶりだ。ぎこちなさが、だんだんほぐれていく。柚希の心地よさを、思い出してきた。なんでもない時間が、大切なものだったと再認識した。
少し風が強くなった。碧は髪を押さえながら食べようとしたが、食べにくかった。撮影することを考えて、手首にシュシュを付けてきている。けれど、柚希の目の前で髪を束ねることに、躊躇した。この期に及んで未練がましくも、子どもっぽく見られることを心配している。
「碧さん、よかったら、髪、くくりましょうか?」
「…うん、じゃあ、お願い……」
戸惑っている碧を見てどう思ったのか、柚希の方から申し出てくれたので、シュシュを手渡した。
「ポニーテールでいいですか?」
「うん」
「いま、ブラシがないんで手櫛になりますけど」
「いいよ」
柚希が背後に立って髪に手をかけた。久しぶりに触れられて、碧はやはり柚希が好きなんだと実感した。
顔を見られないのが、残念だった。少し会話をして、柚希の存在が大切なものだと確信できるいまなら、たとえ混乱していても、その混乱した気持ちを伝えられそうな気がした。
「……碧さん、私、碧さんのこと、諦めてませんから」
碧の髪を指で何度も梳き上げながら、柚希は告白した。
振り返ることも、俯くこともできない体制で、碧は唇が震えた。
「…………あたしも、あきらめてないよ。まだ、前の瀬戸さんといまの瀬戸さんを、繋ぎ合せられないだけだから……」
「…この間、小畑さんと話をしたんです」
「さくらと?」
そんな話は、さくらから訊いてなかったので意外だった。
「碧さんは嘘が嫌いなんだって、教えられました。だから自分も、嘘をつくのが下手なんだって。私は結果的に、ずっと碧さんに嘘をついてきたんで、嫌われてもしかたないと思ってました」
「…それは……」
そうなんだろうか。柚希は嘘をついていたのだろうか。
確かに、碧が柚希を女だと思っているのを知っていて黙っていたのだから、嘘をついていたことになるかもしれない。けれど、そんな短絡的な言葉で片付けられない複雑さが、柚希にはある。
いままで経験してきた、たとえば、持田が浮気をしてごまかしてきたような嘘とは、性質が全く違う。
何度も柚希が送ってきたシグナルに気づかなかった自分も、非は同じだ。むしろ、ずっと悩み苦しんだ柚希より、碧の方が無神経だった。
最初に柚希は、隠していることを伝えたら、軽蔑されるか嫌われる、と心配していた。その行為は嘘をついてきたとはいえないはずだ。
髪から柚希の指の存在がなくなった。束ね終わった気配に、触れられていた時間を惜しむ気持ちになった。もっと、時間のかかる髪型を願えばよかった。
話したいことはまだたくさんあるが、いまこの場所で、なにかと注目されやすい柚希と、これ以上込み入った話はしにくかった。
「瀬戸さん、今日はもうあちこち回ったの?」
「写真部とエントラスは行きました」
「エントラス、どうだった?」
「みんな立ち止まって見てましたよ。自分の写真を見つけて、指差して記念写真、撮ってる人の行列ができてました」
「ほんとに? うわ~、早く見に行きたいな~。去年はほとんど一般のひとは参加しなかったから、作品展のついでに学生が見てるだけだったし」
「碧さんまだ、行ってないんですか?」
「うん。エントラスも、写真展も行けてない。時間が決まってるのを撮ってから、ゆっくり行こうと思って」
「写真、撮ってるんですよね。なにを撮ったんですか?」
「開催のあいさつでしょ。お笑いライブでしょ。ペットボトルハウスに、あと、お化け屋敷も行ったよ」
「お化け屋敷にカメラ持って、ひとりで入ったんですか?」
「ううん、出入り口だけ。写真はそれでいいんだって。悲鳴が聞こえてきたよ。出てくるひとの中には、泣きそうになってたひともいたし」
「理学部のお化け屋敷、評判ですよね」
「瀬戸さん、お化け屋敷、得意?」
「う~ん、どっちかというと、苦手かも…」
「そうなの? 明日、一緒に行ってみる?」
からかうような視線を送ってみる。柚希は苦笑した。
「碧さん、愉しそうですね」
「怖がってる瀬戸さんを見てみたくて」
「趣味、悪くないですか?」
「そう?」
「はい。でも、誘ってもらったのは嬉しいです。明日、碧さんはいつ頃、自由時間なんですか?」
「明日はえびせんの当番が午前十時から十一時までと、午後は三時から四時まで。それ以外は空いてるよ。えびせんに問題が起きなければ」
「問題、起きそうなんですか?」
「思ったより数が出てるみたいで、さっき、亜衣ちゃんが買い出しに行ってたんだ。明日もそんなことになったら、どうなるかわかんないし。卵がいくつ出るか計算できないんだよね」
「ああ、なるほど……」
「ごちそうさま」
食べ終わって、ずいぶん経ってから碧は手を合わせた。この言葉をいうと、立ち去らなければならない気がして、なかなか、いえなかった。けれど、そろそろ撮影に戻らなければならない。
「ね、明日はっきり空いてる時間わかったら、メールしていい?」
柚希は驚いたように、目を見開いた。しばらくして、ゆっくり頷いた。
「…はい。…お願いします……」
碧も柚希も、お互いに相手をあきらめていなかった。けれど、気持ちに踏み込んだ行為には、まだ行き着けそうにない。
もしかしたら、このまま友人の関係になっていくのかもしれない。そしてそれが、案外、居心地のいい、正しい関係なのかもしれない。
碧は柚希との距離を、まだ掴みきれずにいた。
結局その日、部室の作品展まで見には行けなかったが、エントラスの名画、青いターバンの少女を見ることはできた。
碧が行ったのは、すでに陽が傾いていた夕方だったが、多くのひとが名画を囲っていた。
名画の写真は、昨日設置したときに、佐々木がちゃんと撮っている。部員全員の集合写真もこの名画の前で撮った。碧が今日撮っておくべきものは、名画を見学するひとの様子だ。場所を変えて、何枚か撮影した。
「おかあさん、あたしの写真、この中にあるの?」
小さな女の子が、母親の腕にしがみついていた。
「ないわよ」
「ええ~、なんでないの?」
「この写真はきっと、ここの大学生のお兄さんやお姉さんたちなのよ」
「だって、赤ちゃんの写真あるよ。おばあちゃんの写真もあるよ。なんであたしのはないの?」
母親が困っていたので、碧は近づいて行って説明した。来年もあるので、よかったら参加してください、とお願いしたら、親子は喜んで帰って行った。
来年までの一年を、柚希と一緒に過ごしたかった。
この企画をまた共有して、喜んだり困ったりしながら、時間を刻んでいきたい、そう思った。