第四十三話 809号教室 同じ声、同じしぐさ、同じひと
学祭まであと二週間になった。
部室に行けば、柚希に会えた。けれど、大勢で作業をしているので、意識的に距離を置けば、あいさつ程度の言葉を交わすことさえ、少なくなってしまう。
学年も学部も違うので、学祭が近づけば、それぞれの持ち場の仕事も入ってくるし、その合間に写真部の作業に来ることが増えれば、顔を見る機会も減っていく。
連絡を取り合わなければ、擦れ違いばかりになる。
夏休みのときは、二週間以上会わないこともあったのに、こんなに寂しいとは思わなかった。メールのやりとりだけで、充分愉しかった。いまは寂しくてしかたがない。
ときどき見かける柚希の姿は、いままで通り美しい。本当に、男なんだろうかと不思議に思う。それでも注意深く見つめれば、脚であったり腕の筋肉であったり、女より直線的で力強いラインを感じることが多少ある。
いままでと同じ声、同じしぐさ。なにも違わないのに、碧はどうしても同じひととは思えなかった。
どうして柚希が男では駄目なんだろう。
理由はわからないけど、違和感がある。
寂しくて会いたくてしかたがないのに、会いたいのは同性の柚希だ。
ならば、自分は柚希が女だから恋愛感情を抱いたのだろうか。それもまた、おかしな話だ。同性愛者でもないのに。
柚希と出会ったとき、同性の後輩としか認識しなかった。交流を重ねて、好意が愛情になった。そのとき碧は、同性に対する恋慕をそれほど悩まずに受け入れた。
いま、好きになった柚希が男だとわかって、行き詰っている。柚希の性別をどう受け入れていいか、わからなくて戸惑っている。
「はあ~……」
「はあー…」
溜め息が、目の前の佳奈と重なった。
809号室で、授業の空き時間を、佳奈と文学部の屋台の雑用に充てていた。
水色のコピー用紙にチケットをプリントして、オリジナルのハンコを押していく作業だ。
佳奈はコピーした紙を、カッターで切り分けている。碧は彫刻刀を手に、消しゴムと格闘していた。 手先の器用さが求められるこんな作業は、あまり得意ではないが、自ら進んで引き受けた。カッターで切り分ける作業は、写真部の名画の作業と同じだったので、辟易していたのだ。
「元気ないね、佳奈」
「う~ん、まあね」
尋ねると、佳奈はカッターナイフを置いて頬を机に落とした。
「どうかしたの?」
「こないだわたし、誕生日だったの」
「おめでとう。ひとつおばさんになって落ち込んでるの?」
「違うよ。彼氏とデートしたの。遊園地行って、食事して、ホテルで一泊…ってお決まりだけど、ちょっと、ときめく演出を用意してくれてたの」
会話の内容とは裏腹に、佳奈は相変わらず浮かない表情だ。
「よかったじゃん」
「その日、生理だったんだ」
「あらら」
「気まずいでしょ」
ようやく状況が読めた。誕生日のデートで生理日だったのなら、どういいつくろっても気まずさは残る。デートのファイナルがホテルでお泊りなら、なおさら。
「でも、しょうがないじゃん」
悪気があるわけじゃないし、どうしようもないことだ。それは、相手も大人なんだから、理解してくれなければ困る。
「前もってわかってたら、遅らせる薬とか飲んどいたんだけど、彼氏もサプライズで準備してくれてたから……」
「薬で遅らせるの、NGだよ。高校のとき、修学旅行でそれした友達、それ以来、生理痛がきつくて、大変なんだから。体質にもよるみたいだけど、デートくらいで飲むもんじゃないよ」
「そうなんだ。じゃあ、どのみち駄目だったんだ」
「そう、運命だよ」
「碧はそういうの、いままでなかった?」
「あったけど、最初にいっちゃう。今日のデートで寝るつもりなら、生理中だから無理だよって」
「うわ~、すごい。彼氏にドン引きされない?」
「さあ、されたかどうかわかんないけど、そういわれると男はかっこつけて『そればっかりじゃないから、今日は映画に行こう』とか提案してくるかな」
「さすが、恋愛の達人は違うなあ~」
「ちょっと~……」
どうも最近、みんなの見解と実情がずれている気がしてならない。去年ならそんな評価をうけても甘んじて受け入れたけど…。
「なんか最近、つきあうの、しんどいなあって思っちゃう。わりとまだ好きなんだけどさ……」
大きな溜め息とともに、佳奈は縋るような目で碧を見つめてくる。
「なんで?」
「同級生でしょ、わたしのとこ。そしたら、金銭面とか、条件同じじゃない。でも彼氏はデート代出そうとするの。それに気を遣うのが面倒だなって」
「へえ、そっか」
「碧は彼氏、年上、多いもんね」
「うーん、そういえばそうかな…」
「そんだけさせといて、シメのHもさせないってのがひどいのかな、って。でも、それじゃ、まるで援助交際と一緒じゃない。普通に同級生とつきあってるだけなのに、なんでなんだろ」
「シメのHって、鍋の雑炊じゃないんだから……」
碧は呆れるように頭を抱えた。
「金銭的なことだけじゃなくて、なんか色々…。お化け屋敷でわたしより怖がってるとこ見たら、幻滅しちゃうし、重い荷物持ってくれなかったら気が利かないって思うし。あ~あ、高校のときはよかったな~。ときめきが全部だったもん。奢ってもらうにしたって、ハンバーガーとかアイスクリームくらいだったしさ」
「う~ん、そういわれれば、そうかもね」
「碧もこんな気持ち、あった?」
「年上だと、全面的には甘えちゃうかな。年の近いひととは長続きしなかったし、長くつきあったらどうなったのかな。荷物持ってほしいときは、あたしはさっさと頼んじゃうよ。お化け屋敷で怖がったら、どうだろ、がっかりするかな。ひとにもよるだろうけど、面白いとか可愛いって思うかも」
碧はふと、柚希のことを思い出した。いままで、友人とこんな風に『彼氏の話』になっても、柚希のことは、思い出さなかった。たとえ恋愛感情を抱いていても、『彼氏』の存在に位置づけるには、かけ離れていたからだ。
なのにいま、そういえば柚希は年下なんだと思い至り、柚希を思い出した自分に、ちょっと驚いた。
「碧はさばさばしてるしね」
「でも、そういう気持ち、わかるよ。女友達と一緒にいる方が気楽だし、愉しいもん」
恋愛は結構ストレスだ。
片思いのときは、ただドキドキして純粋な気持ちでいられても、いざそのひととつきあえば、ぶつかり合うことも多い。それが、些細な原因であれば、なおさらストレスは溜まる。
「だよね。とにかく、せめて金銭面だけは割り勘にして欲しい」
「彼氏も友達に恰好つけたいんじゃないかな。友達と喋ってて、デート代割り勘にしてるって、いいたくないのかも」
「面倒くさいよ、男のプライドって。女友達とつきあうみたいに、気楽で愉しくて、自然に割り勘できて、それでもって高校のときみたいに、ときめく恋愛って、できないものかな」
「………………」
碧は思わず息を飲んだ。いまの無理難題が、柚希には全部あてはまるのでびっくりした。
柚希のそばにいるのが居心地いいのは、そんな理由もあったのだろうか。
「……碧、その消しゴムハンコ、なに掘ってるんだっけ?」
「え? えびせんのチケットに押すハンコだよ。本のイラストと、文一、文二の文字。文学部一年二年の略」
「どう見ても、そうは見えないよ」
「………努力が足りないんじゃ…」
「ありません!」
佳奈は目を吊り上げて、きっぱり言い捨てた。