第四十二話 亜衣の部屋 ヘキ色のマニキュアと黄色い新幹線
時計は十一時を回っていた。ベッドの横に布団を敷かせてもらった。パジャマまでは持ってこなかったので、下着で寝ていいかと尋ねたら、風邪を引かれたら写真部に恨まれるからと、亜衣が部屋着を貸してくれた。少し大きかったので、袖と裾を折る。
布団の上で裾を折っていると、足の爪を見て亜衣がいった。
「あ、そのマニキュア、もしかして柚希の?」
「うん。昨日部屋に行ったとき、塗ってもらったの」
「笑えますよね」
「え? なんで?」
「ひと月くらい前だったかな。柚希、ヘキ色のマニキュア探してて、やっと見つけたって喜んでたんですよ」
「ヘキ色……?」
「紺碧の碧ですよ」
「あ……あたしの名前…?」
「やることが乙女でしょ? 女の子を好きになったからって、すぐ男らしくなるわけじゃないんだろうけど」
「そうだったんだ。あたし、全然気がつかなかった…」
この爪の色に、そんな秘密があったのかと、碧は胸が温かくなった。柚希にとって、足の爪にマニキュアを塗ることは、珍しくなかったのだろうけど、この青と緑のどっちつかずの色は、自分を思ってくれた色だったのだ。
足の爪がいっそう大切な宝物のように思えてきた。
電気を暗くしてそれぞれの布団にもぐりこんだ。
「碧先輩、寝てます?」
「ううん」
「碧先輩、まだ混乱してるのにこんな話すると、よくないかもしれませんけど、柚希本人から訊くよりマシだと思うんで……」
亜衣はそこで、言い淀んだように息をついた。嫌な緊張感が漂った。
「柚希は、たとえ手術しないで男の身体のままでいても、セックスできるかどうかは微妙なんです。長い期間、ホルモン剤を服用してきましたから」
「……ホルモン剤? 女性ホルモン?」
「はい。わたし、柚希を強姦したっていったでしょ。あのとき、刺激しても、反応しなかったんです。いまは薬飲んでないから違う結果になるかもしれないけど、柚希とつきあうなら覚悟してください」
「………なんか、いままであたし、瀬戸さんのなにを見てきたんだろう……」
薬という単語に、碧は学食での柚希と亜衣の会話を思い出した。あのときいっていた薬とは、ホルモン剤のことだったのか。あのときすでに、柚希は薬を飲むのを止めていたのだ。それはつまり、性転換手術の中断を決意していたということだろうか。
「碧先輩のせいじゃないですよ」
「なにも知らないから、教えてもらいたくて来たけど、余計に混乱してきちゃった」
「すいません。でも、碧先輩が望めば、柚希は手術に踏み切ると思いますよ」
「そんなの、もっと無理……」
「ですよね」
寝返りを打って目を閉じた。少しずつ、睡魔が訪れてきた。
「柚希の場合、もし身体的に問題がなくても、できない可能性が高いんですよ。気持ち悪がって、一度もエロ映像とか見たことないから」
「…………本当に、清らかなんだ…。女のあたしでも、彼氏の家とかで見たことあるのに…」
「清らかっていうか、やっぱり異常ですよ。ゆがんだ潔癖症で、男に嫌悪感のある性同一性障害ってことなんですかね……」
亜衣は溜め息をついた。
「冷静に考えれば、碧先輩は柚希に向いてないと思ってます。ウェルカムセックスレスってタイプじゃないだろうし。それでも柚希を見捨てないでほしいんです。結局、わたしは柚希の味方なんで、他の犠牲は二の次なんですよ。ひどいでしょ」
「うん、ひどいね。でも、あたしはそういうの…嫌いじゃないよ。わかり…やすいし……」
もっとちゃんと訊きたいのに、大事な話なのに、瞼が重くなって、碧はとうとう眠ってしまった。
夢の中で写真を撮っている夢を見た。シャッター音が聞こえた。
夢か現実はっきりしないまま、瞼は重く、開けられなかった。隣のベッドからひとの動く気配を感じた。さくらにしては、違和感がある。いつもと違う枕の感触。いまどこで寝ているのか、うつつの中で判断できなかった。
少し離れた場所から、大きさを絞った話声が聞こえてきた。
「……そっか、時差ないんだ。近いもんね。寝顔かわいいでしょ。大学で、あんまり深刻そうだったから、部屋に連れてきちゃった」
眠くて、話の内容がわからない。わからないなりに、これは現実かな、と思い始めた。
「しばらく無理なんじゃない? ……うん、大混乱中だよ。落ち着いたら、ちゃんと話せるって。……もー、元気出してよ。うん……あ、そうだ、マニキュア、嬉しそうだったよ…………」
声が聞こえてくるのに、意識が沈んでいく。碧は結局、途中で完全に眠ってしまった。
朝、目が覚めたら九時を過ぎていた。こんな時間まで寝たのは久しぶりだ。
昨夜、夢を見ていた気がするのに、まったく思い出せなかった。
部屋に亜衣の姿がない。日曜日なので大学は休みだが、大丈夫なのか心配になった。寝ていた自分のせいで予定が狂ってしまったのではないだろうか。そのために、出かけてしまったのだろうか。
とりあえず、布団をたたんでクローゼットに入れる。服を着替えて、洗面所を借りた。鍵もかけずに帰ることはできないので、碧は亜衣が部屋に戻るまで、待つしかない。
ベッドの横のカーテンを開けるとベランダだったので、置いてあったクロックスを履いて出てみた。
まだ開店してない商店や、規模の小さなスーパーが見えた。道路にはそれほど車が走っていない。少し離れたところに電車の高架が見下ろせるのは、五階の部屋の高さだからだ。
握りしめた携帯を見つめた。柚希の部屋を飛び出してから、携帯を開いてなかった。柚希からのメールが来ていても来ていなくても、動揺することがわかっているので、携帯を開くのが怖かった。けれど、ずっとこのままでいられるはずもないし、柚希のアドレスを着信拒否にすることも考えたくない。
碧は携帯を開いた。メールの受信ボックス開くと、柚希からのメールは一通だけあった。
『ずっと黙っていて、すいませんでした。けれど、碧さんに対する気持ちは、偽っていません』
読めば落ち着かない気持ちになるのはわかっていたのに、やはり胸の鼓動で息が苦しくなった。けれど、少なくとも、このメールを送ってくれたとき、柚希は自分に思いを寄せてくれていたのだ。逃げ出した自分に、愛想をつかせてなかったのだ。そのことが嬉しいと思った。だから、返信することを決意して、携帯に指を動かした。
『あのときは、びっくりしてごめん。あたし、瀬戸さんのこと嫌いになったり軽蔑したりはしてない。でも、次に会ったとき、いままでと同じ気持ちでいられるか、わからない。しばらく待ってて。レスはしないでください』
動揺のままのメールは、支離滅裂な文章だ。それでも、誠実な柚希に、自分がいま出来る精一杯の誠意を込めた。
亜衣に話を訊けてよかった。柚希がこれまで歩いてきた道の一部を知ることができた。
気持ちは変わっていない。
柚希をあきらめられない以上、遅かれ早かれ、自分は柚希の性別を受け入れざるを得ない。けれど、そんなことが、本当にできるのだろうか。
柚希のすべてを受け入れるほどの力が、自分にあるのだろうか。
もし、柚希を失ったらどうなるのだろう。いつか、何年か先には、もっと好きなひとができるのだろうか。
かつて碧は、持田を好きだった。あんなに悲しかったはずなのに、愛飲していた煙草のパッケージが変わっていたことにも、気づかなかった。
時間が経てば、柚希への想いも、同じように色褪せるのだろうか。グロスを分け合うようなキスをしたことも、夏の暑さの中で肩を抱かれて告白されたことも、夕立の雨音を訊きながら抱きしめ合った抱擁も、風化してしまうのだろうか。
そして、ふとした瞬間に思い出して、そういえば……と穏やかな気分で回想するにとどまるのだろうか。
「碧先輩」
ふいに名前を呼ばれて振り返った。
「亜衣ちゃん、どっか行ってたの?」
「コンビニに。サンドウィッチ食べますか?」
「うん、食べる」
ベランダから部屋に戻ろうとしたとき、高架を新幹線が通った。
「あの高架、新幹線のだったんだ」
「結構、うるさいでしょ。窓開けると、テレビの音も聞こえないんです。だから、家賃も安いんですけどね」
「ふーん。でも学生なら、安いほうがいいな。あ、そうだ。新幹線の高架を上から見下ろすなんて、あんまりできないし、写真撮っとこ。いい?」
「もちろんいいですけど、碧先輩って、結構つまんないものでも撮るんですね」
「携帯で撮るのは、日記代わりだよ」
そういって、碧は携帯をカメラモードにして、高架にレンズを向けた。さっきとは逆方向から、新幹線の音が聞こえてきた。どうせなら、新幹線も画面に収めたい。ボタンに指をかけてタイミングを計る。碧の携帯はシャッターのタイミングが遅れ気味だ。早目を意識して、シャッターを押した。
「あれ? ねえ亜衣ちゃん、新幹線の高架って、他の電車も走るの?」
「いえ、わたしも電車とか詳しくないんで……。でもいまの、新幹線じゃなかったですよね」
碧はいま携帯で撮った写真を再生した。気を付けていたのに、先頭部分は切れてしまった。
「なんか派手な黄色…あ、幸せのドクターイエロー……?」
「なんですか、それ?」
「見たら幸せになれるっていう、黄色い新幹線があるんだって。佐々木くんがいってたの。いまのそれかな。メールで送って訊いてみよ」
サンドウィッチを食べて喋っていると、佐々木からレスが来た。
『スゲー、駅で停車してんじゃなくて、走ってるドクターイエロー撮ったって、スゲーよ。一眼持ってりゃよかったのにな。惜しかったよな。なにはともあれ、おめでとう。碧ちゃんの男運の悪さは、これで終了したぞ』
「……ったく、撮り鉄ってやつは……。まあいいけどさ」
頭を掻きながら佐々木のメールを亜衣に見せた。亜衣は文面を見て面白がった。
「碧さん、男運、悪いってことになってるんですか? でも、悪いかもしれませんね。柚希も一応、男ですし……」
「なんかそれ、いまだに抵抗ある。なんで瀬戸さんが男なわけ?」
「それを今更いわれても……」
亜衣は頭を抱えて苦笑した。碧は一緒に笑いながら、少しだけ、柚希の性別を認識しかけている自分に気がついた。