第四十話 テラス なにを好きになったの?
翌日碧は、午前中、大学に行った。土曜日なので講義はないが、学祭が近いので、写真部に限らず、多くの学生が大学に来ていた。
部室に入ると、松浦は碧の顔を見て息を飲んだ。
「目、真っ赤だよ」
「気のせいじゃないですか」
松浦は他の部員の視線を気にするしぐさをして、席を立った。
「ちょっと、出ようか」
来たばかりの碧を松浦は連れ出して、喫茶部のテラスに誘った。碧は促されるまま、力なく従った。
大学の喫茶部なので、それほどメニューは多くない。なにがいいかと訊かれて、なんでもいいと答えると、目の前に出されたのは紅茶だった。文句はいえないが、昨日の今日で紅茶を目の前にすると、溜め息をつきたくなる。
「あれから、柚希ちゃんに会えた?」
「会えました」
「訊いた?」
「訊くつもりはなかったんですけど、パスポート見ちゃって……」
「ああ、そうか。それで、その顔か」
松浦は事情を把握して、眉間にしわを寄せた。焚き付けた自覚があるので、碧の悲愴な様子に責任を感じているようだ。
「嫌いになった? 気持ち悪いと思った? がっかりした?」
「…そんなんじゃなくて、なんか…意味がわからないっていうか……」
碧は柚希の部屋を飛び出してからずっと、混乱したままだった。時間を戻したかった。柚希の部屋で過ごした時間は、本当に愉しかった。優しくて心地いい、幸せな時間だった。
「あたし、知らないままの方がよかった」
「それじゃ、柚希ちゃんがかわいそうだろ」
「…そっか。そうですね。じゃあ、やっぱり、どこかで知ることになったのかな」
「好きになったら、相手に触りたくならない? 触っていれば、いつかはわかるだろ」
「ある程度は触ってたんですけど、わかりませんでした。あたし、瀬戸さんが女だって思い込んでたから」
「きみは、柚希ちゃんのなにを好きになったの?」
「…それは……」
碧はすぐに答えられずに、口を噤んだ。
綺麗な容姿に興味を持った。話をしてみたら、愉しくて心地よくて妙に安心した。
冗談半分でキスしてみたら、どんどん意識して好きになっていた。
はっきり線を引くとしたら、やはり、初めてキスしたあのときだ。けれど、そのまま、なにもなければ案外、そういえばあんな馬鹿なこともしたよね、で終わっていたかもしれない。少なくても、友情の範囲で収まっていたような気がする。
けれど、だれにでも送る、とりとめのないメールのやりとりを繰り返し、柚希の言葉の中に謙虚さや優しさを見つけるたびに、小さな好意が積み重なった。結局、口づけや、柚希の綺麗な容姿だけで好きになったわけではなかったのだ。
「とりあえず、明日まで写真部は休んでいいから。その充血した目であんな作業、無理だしさ」
「すいません」
「碧ちゃんは、学祭初日のカメラマンという役目があるからね。それまでに、元気になってもらわないと困るし」
「えー? 今年ってあたしなんですか?」
「二日目はさくらちゃんだよ。毎年二年が担当だから、頑張って。資料用だから、コンパクトカメラのオートで適当に撮っても構わないし」
去年は、松浦がその役をしていた。他の部員に説明するのが面倒だから、仕事の内容を知っている、自分とさくらにその役割を回したんじゃないかと碧は疑った。大学中をくまなく歩き回らないといけないので、地味に重労働でもあるのだ。
「それから、学祭の個人写真、出品する予定で実物出してないの、碧ちゃんがラストだから、早めにね」
作品展の責任者である松浦は、しっかりくぎを刺すことも忘れなかった。
写真部の活動を免除されたので、寮に帰ろうかと思ったが、文学部の方に寄ってみることにした。今年の学祭は一、二年合同で、たこ焼きかお好み焼きの屋台を出すという話になっていた。
空き教室の809号室を、文学部が学祭まで借りているので、だれか来ていれば、そこに集まっているはずだった。
809号室はゼミで使用されるような小さな教室で、机や椅子はすべて移動できる。高校の頃を思い出すので、どこか懐かしくなる。
ノックして扉を開くと、教室には亜衣と佳奈がふたりだけいた。ふたりとも、妙に難しい顔をしている。
「碧先輩、おはようございます。写真部はいいんですか?」
「おはよ、亜衣ちゃん。今日と明日は個人的に休み」
「写真部、大変ですね」
「でも、今年は亜衣ちゃんのブログのおかげで、かなり助かったよ」
「ならいいんですけど……。寝不足ですか?」
「ちょっとね」
亜衣は碧の目の充血を、写真部の作業によるものだと思ったようだ。一晩中、泣いていたと思われなかったのは幸いだった。寝不足の方が、聞こえは、はるかにいい。どうやら、柚希から昨日の話が伝わっているわけではなさそうだ。
「結局、たこ焼きとお好み焼き、どっちになったの?」
「それなんですけど、どっちも難しいんじゃないかって……」
「え? なんで?」
「ほら、学祭も今年はエコがテーマでしょ」
佳奈が頬杖を突いて、沈んだ表情をしていた。
「エコがテーマだと、なんかまずいの?」
「使い捨てのトレーや紙皿が、今年使えないんだよ。学食の食器を借りるんだけど、たこ焼きもお好み焼きも、結構食器を汚すでしょ。水や洗剤も抑えたいし、洗い物も大変だから、もうちょっと他にないかなって、話してたの」
佳奈はこの屋台の責任者だった。亜衣が副責任者だ。部屋に入ったときから、ふたりとも、どこが元気のない様子だったが、理由がわかった。
「エコがテーマって、難しいね。粉もんいいのにね」
「そうなんだ。なんかいいアイデアない?」
「うーん……、焼きそばやもんじゃも洗い物は似たような感じだよね。そうだ、えびせんは?」
「えびせん? なにそれ?」
「えびせんってあるでしょ。駄菓子の。エビ色の大きな楕円のせんべい。あれにお好み焼きのソースを塗って、青のりと鰹節の粉とマヨネーズかけて食べるの。半熟の卵焼いて乗せたりもするし、天かすとかネギとか色々。あれだと、ほとんど火も使わないし、食器もあんまり汚さないんじゃない?」
「すごい、それいいじゃん。亜衣ちゃんどう? 食べたことある?」
「食べたことはないけど、おいしそうだし、やってみたいです。トッピングのアレンジもできそうですね」
「うんうん。じゃあ、他とかぶってないか、わたし、いまから実行委員のとこ行って訊いてくる。ちょっと待ってて」
佳奈は慌ただしく扉から出て行った。
思いがけず、一番会いたいと思っていた人物と二人になれた。どっちにしても、メールで連絡を取るつもりだったから、碧はさっさと切り出すことにした。
「ねえ、亜衣ちゃん、今日ひま?」
「これが終わったら、ひまですよ」
「一緒に飲まない?」
「いいですね。佳奈さんやさくらさんも誘いましょうか? 柚希は…今日いないんだっけ」
「ううん、ふたりがいいの。瀬戸さんのこと訊きたいから」
「……………」
亜衣は、さっと笑みを引っ込めた。
「碧先輩、もしかして……?」
「昨日、知ったの。瀬戸さんちでパスポート見ちゃって。亜衣ちゃんに、教えて欲しいことがいっぱいあるんだ」
「……わかりました。じゃあ、いっそのこと、うちで飲んで泊まっていきません? 寮って宿泊許可、出るんですか?」
亜衣も、マンションで一人暮らしであることは、以前一緒に飲みに行ったときに訊いていた。話す内容が内容だけに、部屋を提供してもらえるのは有難かった。
「うん、それは大丈夫」
「夕方、寮に迎えに行きますから」
「ありがと、亜衣ちゃん。ごめんね、無理いって」
「いえ、全然」
そのあと、佳奈が息を弾ませながら戻ってきた。えびせんが、他の学部やクラブとかぶってなかったので、その場で申請してきたといった。
「一度、試食会しないと駄目だよね」
さくらや亜衣の話に頷いていたが、昨日ほとんど寝てなかったので頭がぼんやりしてきた。
買い出しや学祭二日目は店番にも参加するからと言い残して、碧は先に寮に帰った。