第三十三話 キャンパス 最後まではしてませんから
秋は風が気持ちいい。
碧は、珍しくひとりで、キャンパスの木陰でぼんやりと午後を過ごしていた。厳密にいえば、さくらから逃げてきたのだ。
まずいことがばれてしまった。刑事のように追及してくるのを、躱すこともごまかすことも難しいので、まとまった自由時間のある時は、さくらと二人にならないようにしていた。同じ寮で暮らしていれば、それも無駄な抵抗だけど。
相手が柚希でなければ、恋の対象が同性と知られても、こんなに隠したいと思わなかったかもしれない。ついに男に愛想を尽かせて女に走ったかといわれても、笑って頷ける程度の問題だ。
だけど、なんだか後ろめたいのだ。
柚希を汚してしまったような気分で心苦しい。
「碧先輩」
「きゃ」
急に声をかけられて、一瞬さくらかと思った。
「なんだ、亜衣ちゃんか」
「だれだと思ったんですか?」
「べつに…びっくりしただけだよ」
「隣に座ってもいいですか?」
「いいよ。そういえば、ひとりでいるの、珍しいね」
亜衣は友好的な性格なので、友人が多かった。
「それはこっちの台詞ですよ。碧先輩、人気者だからいつも囲まれてるし、近づきにくくて」
「はあ?」
亜衣におかしなことを指摘されて、碧は困惑した。確かによく友人と群れて過ごしているけど、人気があるからではない。自分は極めて平凡な女子大学生だ。
「碧先輩、柚希と喧嘩したんですか?」
「へ? なんで? 喧嘩なんかしてないよ」
「この間、学食で碧先輩、柚希のこと、見ないようにしてたみたいだから」
「あれは……」
見ないようにしていたわけではなく、髪に触れられて、ドキドキしてしかたがなかったから、視線を合わせられなかったのだ。
「……気のせいじゃない?」
「そうですか。そういえば、写真部の名画、どうなったんですか?」
「ああ、あれね、部室に色画用紙貼って、だれか来てもらえたら写せるんだけど、もう頼めるひとには声かけて写しちゃったし、頼めそうな人が見つからないんだ。学生課の先生にまで声かけたんだよ」
話題が変わったので、碧はほっとした。写真部のことなら話はしやすい。
「まだ、足りないんですか?」
「全然。半分もいってないよ。今年、四年が多いし、就活で苦戦してるし、それを見てる三年も気持ちがそっちに行っちゃってるみたい。おまけに、名画の評判がいいからって、展示場所が部室からエントラスホールになっちゃって、余計に大変なの」
まともに動いてくれている三年が松浦ひとりなので、必要以上に焦っているのもあるのだろうけれど、状況が厳しいことは事実だった。
「うわ~、大変ですね」
「でしょ」
「うちのブログでよかったら、協力しましょうか?」
「前にあたし、コメントで書かせてもらったよ」
「コメントだと読まない人もいるでしょ。もっと正式に、日時と場所と目的とか去年のダビンチの写真も載せて、協力と参加を呼びかけるんですよ。学祭の日時も明記して、自分の写真を探しに来てくださいって」
亜衣の提案は素直にありがたかった。『あいあいのあいある日常』は大学と学部を公表しているので、M大のみならず、近隣の大学生も、最近よく見ているのだ。
「うん、それだったら、来てもらえそうな気がする」
「でしょ」
「うんうん。あたし、今日寮に帰ったらすぐ、去年のダビンチの写真、メールで送るから」
「はい。あ、そうだ。碧先輩、写真撮らせてもらってブログに載せてもいいですか? 撮影スタッフが女の子だってわかる方が、安心するひとも多いと思うから」
「いいよ」
亜衣は携帯を取り出して、碧の顔写真を撮った。
「碧先輩、いつも土日はどうしてるんですか?」
「なにもなかったら、実家に帰ってるかな。二時間ちょっとで帰れるから」
「今度の土日を撮影の日に指定しても大丈夫ですか?」
「うん、もちろん」
「柚希も一緒ですよね」
「うん、瀬戸さんが大丈夫だったら」
「あ、そうだ、柚希で思い出した。碧先輩」
「なに?」
「以前、一緒に飲んだとき、わたし、SM嫌いなんですっていったじゃないですか」
さわやかな秋のそよ風の中で、突然、淫猥な話題になったので、碧はびっくりした。青空の下でするような話でもないはずだけれど、亜衣はかまわず言葉を続けた。
「あれって、自分のせいなんですよ。わたし、初めてのとき、強姦しちゃったんです」
「ええッ?」
碧はびっくりして思わず声を上げてしまった。慌てて自分の口をふさいで辺りを見廻す。幸い、辺りに会話を訊いたひとはいないようだった。
「友情をかざせば絶対断れないだろうなってわかってたから、無理やり引きずり込もうと思って。その相手が柚希なんです」
「…………………」
あんまり淡々と告げられて、碧は言葉を失った。
「でも、最後まではしてませんから。途中までですし」
女同士の性行為で、最後と途中の区別がなんなのか碧にはわからなくて、思考が混乱した。いまこのタイミングで訊いていいかどうか判断ができなくて、つい黙り込んでしまう。
「碧先輩、柚希の正体がなんであっても……たとえば、宇宙人だとしても、見捨てないであげてくださいね」
亜衣は携帯の時計を見た。そろそろ教室に向かう時間なのだ。謎のような言葉を残して、亜衣は芝生の上から立ち上がった。
「強姦って……宇宙人って………」
残された碧は呆然と呟いた。
空がやけに青い、さわやかな秋の午後だった。