第三十一話 学食 どうぞ、どうぞ。もう好きにして
ドイツ語が休講になったので、碧たちは学生食堂で長い昼休みを過ごしていた。
喫茶室に移動してもよかったのだが、昼食時を過ぎて、学生が減ってきたのでそのまま留まったのだ。
碧とさくらを含めて文学部のが五人、経済学部の友人が四人と法学部が三人である。学食の一角はまるで、二年の女子会のようになっていた。
お湯のようなお茶をポットからプラスチックの湯飲みにそそいだ。
「もし、どんな願いでも一つだけ叶うとしたら、なにを叶えてもらいたい?」
文学部の佳奈が、ふと、いい出した。
「宝くじ、一等前後賞、三億円」
さくらが色気もそっけもない願いを口にした。
「わかるけど、もっと夢のある願いはないの? サラリーマンと同じ願望ってどうよ」
佳奈は呆れるようなため息をついた。
「超イケメンの彼氏ほしい」
経済学部の友人の願いは凡庸な願いだが、そのあとは盛り上がった。アイドルだったら誰が理想だとか、理学部のだれとだれがつきあってるとか、テニス部のだれがカッコイイとか、話題は尽きない。
一通り話で盛り上がると、さくらが鞄から雑誌を取り出した。
「ねえねえ、この髪型、気になってるんだけど、どうやってるのかわかる?」
いまドラマで話題の女優が記事になっていた。
「ツインテールだけど、分け目は斜めみたいだね。部分的に編み込みしてる感じ。最後はどうなってるのかな?」
「着け毛じゃないの?」
集まった女の子は、複雑な髪型が苦手のようで、興味はあるがやり方がわからなかった。
味のしないお茶を喉に流し込みながら首を捻っていると、柚希と亜衣がそばを通りかかった。
「こんにちは。こんなとこで、二年の女子会ですか?」
亜衣が文学部の上級生に小さく会釈をした。
「亜衣ちゃん、この髪型、どうしたらできるかわかる?」
さくらに尋ねられて、亜衣は首を振った。
「全然わかりません。あ、柚希はこういうの得意じゃない?」
雑誌を見た柚希が、しばらく眺めたあと、ああ、と頷いた。
「左右から編み込めばできますよ。最後の毛先は内側に入れて、細いゴムなら目立ちませんし」
「訊いただけじゃ、わかんないな。やってみせて。だれの髪ならできる?」
「ある程度長さがあればできますよ。小畑さんでしましょうか?」
さくらは首を振った。
「わたしがしてもらったら見られないじゃん。碧の頭はどう」
「できますよ」
「じゃあ、これでやってみて」
「ちょっとさくら、これってなんなのよ」
碧がむくれても意に介さず、さくらは柚希の手にブラシを持たせた。
「じゃあ碧さん、髪、お借りしますね。痛かったらいってください」
「どうぞ、どうぞ。もう好きにして」
安っぽい学食の椅子から動けなくなった碧は、自分と柚希の周りをぐるりと囲まれるのを見て、見世物にでもなった気分だった。
駅前で夕食を一緒にしたときから、柚希とはなんとなく気まずかった。妊婦になってくれたらいい写真を撮る、といった内容の話が、気に入らないのだとはわかっている。好きな相手から、結婚を推奨するようなことを告げられれば、面白くないのは当然だけど、それほど意味のある発言ではなかったのだ。
あのときはただ、写真のモデルに対する軽い気持ちしかなかった。
そもそも柚希というひとは、あまり感情をおもてに出さない。端然とした涼しい態度は、端から見ていれば心地いいが、自分が原因となるとそんなことはいってられない。
腹を立てているならば、はっきりそういって欲しかった。雰囲気を察するような能力はないのだから。
こぼれそうになるため息を隠しておとなしくしていると、柚希の指が髪を撫でた。碧は一瞬、背筋にざわめきを覚えた。
ブラシで髪をとかされていく。
髪にブラシが滑っているだけなのに、変な気持ちだった。
「へー、先に後ろの髪を括っておくんだ」
さくらが熱心に覗き込んで訊く。
「あとではずしますけど、編み込むときに邪魔になるから、よけておくとやりやすいんです」
柚希はさくらからゴムを受け取って、説明通りに後ろの髪を括った。
碧の左側に柚希が立ち位置を変えた。斜めに分けた髪を編み込んでいく。
柚希の身体が碧に覆いかぶさる体制になって、碧は身体を震わせた。
「痛かったですか?」
「ううん、大丈夫……」
「痛かったら、いってくださいね」
「うん……」
地肌に指が届くだけで、胸が高鳴った。耳に柚希の腕がかすめるだけで、息が震えそうになった。
どうしてこんなに気持ちいいと思ってしまうのだろう。何度かキスだってしたこともあるのに。碧は震えそうな膝をきつく閉じ合せた。
さくらからゴムを受け取って、耳の位置で髪を括られた。すべての作業が終わったようだった。
碧はこっそり息を吐いた。
「すごい、なんか簡単そうにするから、見てたらできそうな気がしてきた。碧って、ツインテールにすると一気に幼くなるね」
さくらたちが興奮した声で、はしゃいでいる。碧はそんな歓声を、頭の遠くで訊いている気がした。
柚希に髪を触られている間、自分はもしかしたら、性的な快感を覚えていたのかもしれない。いたたまれない気持ちになった。
髪型の話から離れて、別の話で盛り上がっても、碧は訊いてる振りをするのが精一杯だった。みんなの会話の内容が、少しも頭に入ってこない。
「ねえ、碧はどうなの?」
佳奈に問いかけられて、弾かれたように視線を辺りにさまよわせた。
「なんでも一つだけ願いが叶うとしたら、だよ」
いつの間にか、話題が最初に戻っていた。
ぼんやりしていたのも、不自然な態度とは思われてないようだ。ほっとして、言葉を探した。
「え~っと、男になりたいかな」
「なんで?」
「女でしたいことは、もう残ってないから」
「ええ~、結婚したくないの?」
経済学部のひとりが不思議そうに身を乗り出した。
「碧は結婚したくないんだよね」
さくらが碧の髪の毛先をめくったり触ったりして、頷いている。やり方を見ていたのに、まだ興味があるようだ。
さくらに髪を触られても、なにも感じないのに、柚希が触るだけで意識してしまう。
恋を感じるって、こういうことかもしれない。
柚希に触れられた髪を、夜には、ほどかなければならないのが、寂しかった。
「柚希、碧先輩、男になりたいって」
亜衣は含みのある笑いを浮かべて、柚希の肩に手を置いた。
「困ったもんだの大問題だね」
「………………」
「どうすんの?」
「こっちが訊きたいよ」
「あの薬、いまは飲んでないんでしょ」
「うん……」
柚希と亜衣が顔を見合わせながら、短い言葉をぼそぼそ交わしていた。何度見ても、絵になる二人だ。なにもかもわかり合っている様子が、伝わってくる。
柚希が、亜衣となにもなかったわけではない、と正直に告白してくれたので、一時のような切実な焦燥はないけれど、二人の呼吸がぴったりと合わさっているのを目の当たりにすると、やはり胸が痛んだ。
薬ってなんだろう。風邪でも引いているのだろうか。そんな風には見えないけれど。二人の会話に入っていけなくて、碧は視線を逸らした。