第二十九話 部室 フェルメールブルー
大学は夏休みが終わり、後期が始まった。
十月にもなると、昼間はまだ暑さも残っているが、朝晩はずいぶん肌寒くなる。
写真部の部室は、日に日に、にぎわってきた。
この日は、一、二年を中心に名画の進行状態を確認するために集まっていた。名画制作のために写真部に入部する者もいるので、以前に比べると人数は増えた。被写体になっているうちに興味を覚えて……といういきさつだ。
碧や柚希たちは夏休み中も写しては佐々木のパソコンに送信していたが、まだ枚数が全然足りていない。
やはり、どう考えても二千枚は無理がある。自分の写真がどこにあるか探せなければ、撮影に協力してくれたひとにも気の毒だ、と碧を筆頭にごね倒して千枚弱で落ち着いた。それでもまだ、先は遠かった。
「いままでに集まった数は?」
松浦の問いかけに、佐々木がパソコンの画面を確認して答える。
「百八十くらいです」
「色味はどう?」
「柚希ちゃんが頑張ってくれたんで、からし色はかなり埋まってます。白もまずまず。黒もまだ足りないけどある程度来てます。ぜんぜん足りてないのが、肌色とフェルメールブルーですね。特に、フェルメールブルーは一枚もないんすよ」
「あのさあ、佐々木くん、そのフェルメールブルーって、どんなブルーなの? さっぱりわかんないんだけど」
からし色も黄土色も一緒だといい切った碧が、唇をとがらせる。メールで佐々木からフェルメールブルーで写すように要請されたが、色味がわからなければ、写しようがない。これは決して、碧ひとりが色音痴というわけではなく、一枚も佐々木の元に写真が届いてないのだから、他の部員もわかっていないのだ。
「そうそう、フェルメールブルーって普通の青色じゃ駄目なの?」
さくらもこの行事には参加するので、身を乗り出して尋ねる。
「フェルメールブルーってのは、わかりやすくいうとウルトラマリンだ」
「…ウルトラマン?」
「マリンだよ。マリンマリンマリンマリン」
佐々木ががなり立てるのを、松浦はまあまあと、肩を押さえた。
「佐々木、他にもっとわかりやすい説明できない? 美大生じゃないんだから、ウルトラマリンじゃわかりにくいって。群青色に近いんだろうけど……」
「うーん、あ、小田急六万形! あの電車の色がフェルメールブルーだ」
「……なにそれ」
碧は軽蔑するような、冷たい視線を佐々木に送った。さくらも松浦も頭を抱えている。柚希は呆気にとられていた。
「あの小田急六万は最高だよな。高速車両でもないのに未来を彷彿とさせるフォルム。流れるようなライン……」
うっとり呟き始める佐々木を松浦が制止にかかる。
「あのな佐々木、悪いが写真部が全員、鉄道マニアの撮り鉄ってわけじゃないから、お前の説明は、ますますより一層わからない。とにかく、群青色でいいな?」
佐々木は不承不承、頷いた。多少、趣味嗜好が偏っているが、これで優秀な男だから、指揮自体は安心して任せられる。この名画の軸でもある『青いターバンの少女』の青いターバンの色なのだから、こだわりたくなるのも、わからないではないのだが。
「そういえば、柚希ちゃんの写真、うまく工夫してくれてたよな。からし色の背景に、全員からし色の布かなんか被ったり巻いたりしてるみたいな?」
佐々木が思い出して柚希から届いた写真の一枚を開いた。
「背景はバイト先の壁の色なんですけど、服装を合わせるのは無理だったんで、同じような色のストールを渡して自由に着けてもらったんです」
部員が佐々木のパソコンを覗き込んで頷く。
「ほんとだ。そっか、大きめのストール用意しといたらよかったんだ。黒い服の子見つけてお願いしたり、大変だったんだよね」
さくらは感心して「瀬戸さん、賢いじゃん」としきりに褒めたたえた。
その日の写真部の活動はそれで終わりだった。松浦の解散の声に、部室からひとが少なくなっていく。
碧はこのあと、松浦に写真を渡す予定だったので残ることを、さくらに伝えていた。さくらは碧に手を振って、先に帰った。
「柚希ちゃんも見ていったら? きみがモデルした写真だし」
松浦が帰りかけている柚希を引き止めた。
「いいんですか?」
柚希は碧の方を向いて確認する。
「いいけど、がっかりしないでよ。本当に人物は苦手だから」
碧は鞄から現像した写真を出して、机の上に拡げた。写真はすべて、柚希が松浦のモデルをしたときのものだ。
「へー、陰影をつけたんだ。そういえば、ライト消してたっけ」
「はい。なんとなく……」
松浦が写した写真は、露出を上げて幻想的な雰囲気だった。壁の汚れも、ぼけ方が強いせいで、効果的に使われている。
けれど碧は柚希を自然に近い明るさで撮影した。撮影現場で、柚希のことを妖精のようだと思ったのに、松浦の方がよほど、それらしく写している。
「これ、面白いですね」
柚希が一枚の写真を拾い上げた。正面ではなく、ほとんど後ろから写した写真だ。休憩しているときだったので、気怠そうな横顔をしている。柚希が面白いといったのは、オーガンジーを留めた洗濯バサミが写っているからだった。
「舞台裏ってシチュエーション、ちょっと好きなんだ」
ライトのスタンドも入っているが、それも含めて碧は気に入っていた。けれど、こうした写真が、正式な作品にはなれないのもわかっていた。
「うん、碧ちゃんらしいな」
そのあと、カメラの話や名画の話を興じて盛り上がり、写真の整理をして帰るという松浦を残して、碧と柚希は部室をあとにした。