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第二十六話   スタジオ 水着も持ってませんし


 指定されたスタジオは、大学からそれほど遠くない場所にあった。古ぼけた小さなコンクリートの建物だ。

 以前は美大の卒業生が制作に使っていたアトリエだったそうで、壁のそこかしこに油絵の具の汚れが残っている。スタジオといわれたが、実際は、水道、電気が通っているだけの、空家のような状態だ。

 碧は、スタジオに入ればライトの配置や光量の測定を手伝うのかと思っていたのだが、すでに準備は整っていて、手伝うことがなかった。

 いわれた時間より早めに着いたのに、すでに柚希と松浦が到着していて、柚希はオーガンジーの白いドレスのようなものを身に着けていた。

「碧ちゃん、待ってたよ」

 松浦はレンズにエアーをかけながら、暑かったかい、と気遣う言葉をかけてきた。

「なにを手伝うんですか? なんかもう、手伝うことないみたいなんですけど」

「ライトの配置なんかは亜衣ちゃんに手伝ってもらったからね」

 いわれて室内を見廻してみたが、亜衣の姿は見当たらない。

「そういえば、亜衣ちゃんは?」

「さっき、終わって帰ったよ」

 事情がさっぱりわからなかった。自分はなんのために呼ばれたのだろう。亜衣と二人で手伝うのかと思っていたが、どうやら、時間をずらして来るように、それぞれに連絡していたらしい。

「碧ちゃんは左側のライトの外側から、柚希ちゃんと喋っててくれればいいよ。適当にリラックスしてるところを、勝手に撮るから」

「そうですか? じゃあ、手伝うことがあったらいってください」

 説明されてもなんだか腑に落ちないが、撮影そのものには興味があるし、いわれるまま柚希に近づいた。

「昨日はごちそうさまでした、って、お母さんに会ったら伝えといて」

 床に座り込んで話しかける。柚希は椅子に腰かけているので、見あげる状態になった。

「はい。あの碧さん、昨日も思ったんですけど、肌、焼けましたね」

「うん。日焼け止め塗ったんだけど、途中で塗り直さなかったから、取れちゃったみたい。ほら、水着の跡がくっきり」

 碧がTシャツの襟ぐりをはだけて肩を見せると、柚希は顔を赤らめて怒り出した。

「碧さん!」

「え?」

 不思議そうに首を傾げると、松浦がクスクスと笑いを堪えていた。

「大変だな。同情するよ」

 松浦はレンズを変えて、三脚にカメラを固定していた。まだしばらく、カメラの準備をするようだ。

「なんのことですか?」

「いや、独り言」

 松浦に尋ねてみても、はぐらかされてしまった。柚希はどこかわざとらしく咳ばらいをした。

「海ですか?」

「ううん、プール。お盆に実家、帰ってたんだけど、お墓参り以外に行くとこなくて、暇だったから近所の友達と」

 遠目で見ていたときはドレスかと思ったが、近くで見ると布を巻きつかせていた。カメラから死角になるところは洗濯バサミがついている。背景の壁も白いので、写真になったときはかなりいい雰囲気になりそうだ。壁の汚れが心配だが、松浦のことだから、それもなにかしら計算済みなのだろう。

「瀬戸さんは焼けてないね。泳ぎに行ったりしないの?」

「全然。水着も持ってませんし」

「ええ? なんで? すっごく似合いそうなのにもったいない」

「かなづちなんです」

「ふーん。でもさ、あたしもプール行ってそんなに泳がないよ。泳げない子も一緒に行ってるし」

 中学の水泳教室でもあるまいし、海に行こうがプールに行こうが、泳げなくても関係ないのではないだろうか。おしゃれ番長のような柚希が、水着すら持ってないのは不可解だ。

「身体が弱くて…」

「高校のとき、皇居の周囲をよくジョギングしたっていってなかった?」

「…………」

 松浦は身体を震わせて笑いを堪えていた。

「だめだ。きみらの漫才訊いてたら集中できない。音楽でもかけるよ」

 部屋の片隅にあるコンポのスイッチをいれて、松浦は曲を流した。よく知っているポップスだ。

 いまの会話のどこが漫才なのか、意味がわからなかったが、碧は流れてくる懐かしいラブソングに意識を傾けた。二年くらい前に流行った曲だった。

 昨日、柚希と一緒に歩いた夜の歩道を思い出した。あのあと、なにを話したかよくわからないほど、胸が高鳴った。

 柚希のことを碧は最初、憧れていた。自分もこんな風になりたいと思っていた。容姿が綺麗なだけでなく、冷静で、だれに対しても、なにに対しても淡白な態度がうらやましかった。くだらない感情に振り回されて自分を見失ってしまうことが、いつも嫌だったからだ。

 柚希は理想そのものだった。

 けれど柚希と接触するたび、切なさが募った。なんでもない会話にも、心が揺れた。

 考えれば、碧はこんなときめきを経験したことがない。好きだと自覚するときは、セックスの直前だったり最中だったり。男に求められれば応えたいと思う自分の気持ちが愛情だと考えていたし、相手が自分の身体に欲情すれば、それがそのひとの愛情だと思っていた。

 けれど、セックスは苦痛だった。早く終わってほしくて感じてる演技をするのも面倒だった。

 優しく抱かれて、相手を傷つけないように気を遣いながらの行為に、内心うんざりしていた。

 我を忘れるようなセックスをしたのは、最初の恋人だけだった。けれどそのひとは、セックスより先に、フェラチオを教え込むような、人でなしだった。

 好きなひとからは優しさをもらえない。優しいひとからは快楽をもらえない。なにが悪かったのだろう。だれが悪かったのだろう。それともみんな、こんなちぐはぐな思いをしているのだろうか。

 男とつきあうことはわだちの上を歩くようなものだ。自分の経験も友人の経験もテレビのドラマも小説も、全部教科書みたいに導いてくれるので、先が見えている。けれど同性に気持ちを動かされたときは、まっくらな夜の砂漠を手探りで進むように心もとない。

「副部長、いま付けてるレンズ、単焦点ですか?」

 単焦点レンズとは絞りとピント合わせが固定されているレンズのことだ。

「そうだよ」

「そこからだと、どれくらい被写体が入ってるんですか?」

「見に来れば?」

 碧は移動して松浦のカメラを覗き込んだ。

「へー、絞り強いなあ。これで設定したら固定なんですよね。ズームも望遠もできないって、不便な感じ」

「確かに、外でなんか写したいときは難しいな。今日みたいなときはいいけど」

 碧が一番撮りたいのは風景なので、絞りが強すぎるこのレンズを扱うのは難しそうだ。

 レンズの中の柚希は、モデルの務めを果たすためか、いつもより化粧が濃かった。初めて会った新歓コンパのときは、これくらいだったような気がする。最近、化粧が薄いのは、夏の暑さのせいだろうか。

 白い布に身を包まれているのに、こんなに綺麗なのに、花嫁のような、とは思わない。清廉すぎるのだ。生身の人間が持つ欲望を、柚希は持ち合わせているのだろうか。花嫁より妖精の方がしっくりくる。

 碧は元いた場所に戻った。

「そういえば、前に借りた小説、面白かったから他のも読んでみたの。読みにくかった~」

「あ、やっぱり碧さんもそうなんだ。話によって全然違いますよね。文学部のひとでも読みにくいんだったら、私なんか読めなくて当然ですね」

 とりとめのない話をしていく間に、シャッター音が届く。途中、レンズを変えて撮っていた。松浦の提案で、碧も自分のカメラで柚希を撮影した。自分が写した写真と比べて確かめたいから、と松浦に要請されたのだ。どうやら、碧をここに呼んだのは、それが目的だったらしい。

 リラックスしているところを勝手に撮るといっていたが、撮影が進むと、松浦は立ってくれ、座ってくれ、横を向いてくれ、笑ってくれと、注文を付け始めた。端から見ていて、モデルも大変な仕事だとわかった。じっとして動けないのは辛い。要求に応えているのに、何度も撮り直されれば、腹も立つし、表情にも出てしまう。

 けれど、柚希は文句もいわずに松浦についていってる。見た目よりずっと体力があるらしい。少し、感動した。一度引き受けたことに対する責任感の強さにも、好感を持った。

 かなりの枚数が撮れたので、松浦は写した画像を確認していた。碧は立てた膝に頬杖を突いて柚希を眺めていた。撮影中ではないのでライトの内側に入っている。

 近くで見ると、柚希のグロスがライトで光っていた。

 暗室で作業をした日、口づけを交わしたことを思い出す。あの日、自分からくっつけるだけのキスをしかけたときは、柚希に対して、こんなに心を傾けていなかったのに。

「ねえ、グロスってキスしても取れないの?」

 ふと思い出した台詞を口に乗せてみた。

「……さあ、どうなんでしょう。前にためしたときは、鏡で確かめなかったから」

 柚希も碧に倣って、あのときと同じような台詞で答えた。

「ためしてみていい?」

「いまはちょっと」

「そうだね」

 顔を見合わせて、笑った。

「あ、でもやっぱり、いまがいいかも」

 柚希がおかしなことをいった。

「松浦さん、メモリ、残ってます?」

 柚希は首を伸ばして松浦に問いかける。

「残ってるよ」

「ちょっと記念写真、お願いしていいですか?」

「いいよ」

「しばらく、構えててくださいね」

 松浦が三脚からはずしたカメラに顔を押し当てるのを待ってから、柚希は碧を手招きした。

「碧さん、あれ」

「あれって?」

 柚希の指差す方を見てみるが、なにもない。気を取られていると、二の腕を引き寄せられ、口角の横に唇を押し付けられた。

「…ッ! 瀬戸さん、なに……?」

「小畑さんの写真の意趣返し、かな」

 柚希はいたずらっぽく笑った。さくらの写真に対抗したとでもいうのだろうか。あんな、ためし撮りの意味もない写真に? 

「松浦さん、撮れました?」

「ちょっと待って……あー、撮れてるよ」

「そのデータ、後でコピーしてくださいね」

 どうして松浦はそんなに淡白な反応なのだろう。もう少し、びっくりするとかはないのだろうか。

 碧はドキドキしながら柚希の顔を見つめた。

「今日のグロスは、一回で移っちゃいましたね」

 身体に巻きつけられたオーガンジーを身体から剥がして、柚希はティッシュで碧につけたグロスを拭き取った。

 なんだか恥ずかしくて仕方がない。頬にキスされただけなのに。

 もう絶対、なにを訊いても嫌いになったり軽蔑するなんてありえないから、隠してること全部、教えて欲しかった。





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