第二十三話 碧の部屋 恋に似ている
碧は食事と入浴を終えて、春から撮りためた写真の整理をしていた。ふと時計に目をやると十時を過ぎている。
柚希が何時までバイトかわからないが、以前、遅い時間になるとゲイの客が多くなる、といった内容のメールをもらったことがある。ならばまだ、バイト中だろうか。
これ以上遅い時間に電話するのも非常識だし、今日はもう無理かな、と頬杖をつく。
声を訊きたかった。昼に会ったときのことを、ちゃんと話したかった。
けれど、冷静に会話ができる自信もなかったから、電話ができないのは、ちょうどよかったのかもしれない。
せめて、メールをしておこうと携帯を手に取った。
『今日は、会えて嬉しかった』
それだけを打って、全部消した。しばらく考え込んで、やっぱり同じ文章を打ち始めた。
『今日は、会えて嬉しかった。あたしは瀬戸さんのこと、よく知らないけど、なにを訊いても嫌いになったり軽蔑したりしないと思う。無理強いはしないけど、教えてくれるの、待ってるから』
送信して、携帯をテーブルの上に置いた。こんなメールで気持ちが伝わるのかなあ、と不安になる。文学部のくせに、言葉で気持ちを伝えることが苦手だったのかと情けなくなってきた。
柚希が隠していることは、なんだろう。なにを訊いても嫌いになったり軽蔑したりしないと決意したつもりだが、やはり不安はあった。
たとえば、柚希に恋人がいるとしたらどうだろう。悲しいしショックだけど、軽蔑することはない。実は、いままでその可能性を何度も頭の中で巡らせてきた。柚希と亜衣の間には、友情以上のものが存在しているように思えてならない。
パニック障害を患ったときに支えてくれた、と柚希は説明した。それは嘘ではないだろう。二人の間には、他人が入り込む余地などないくらいの絆があるように見える。
亜衣をうらやましく思うし、その立場にいるのが自分でないことも残念でならない。亜衣との間に、愛情は存在するのだろうか。いまの二人を見る限り、そうは思えなかった。
けれど、柚希と交わしたキスを思い出すと疑念がわく。慣れたキスだった。同性とのディープキスを柚希は知っていた。なりゆきや流れがあっても、同性とディープキスをする発想が、普通はない。
相手が亜衣以外のひととは、考えられなかった。
「一度は、なにかあったんだろうなあ」
だからといって、柚希がいまも亜衣に感情を傾けているようには思えないし、それは亜衣の様子も同様だった。
松浦が柚希に告白してきたときも、柚希は他人事のように冷静だった。ただ、並んで立っている姿が思いがけず似合っていて、男だというだけで、あっさり告白できる松浦に腹が立ったのだけど。
嫌いになるとか軽蔑するというのは、特殊なことだ。恋人がいるとか、実は他に好きなひとがいる、といったことではないだろう。だいたい、自分と柚希はつきあっているわけではないのだから、他のひととなにがあっても、口を挟むことはできない。
ならば、年齢を偽っているとか? 本当はもう五十歳を超えているとか? いくらなんでも、そんなことはないはずだ。中学からの友人だという亜衣もいるのだから。
だとしたら、全身、整形しているとかはあり得るだろうか? あの綺麗な姿が、実は整形によるものだったら、かなりショックだ。本当の姿が別人だったら? 嫌いなるだろうか? 軽蔑するだろうか? 中学の時に、パニック障害になったのは、元の柚希の容姿に原因があると考えられる気がしてきた。
あの綺麗な容姿を自覚していながら、目立つことを嫌がり、控えめで気取らないのは、本来の姿ではないから、と考えれば妙に筋が通る。
柚希は二十歳になるまで、ピアスもしないといっていた。なら、整形しているはずはない。でも、もししていたら、たとえば事故かなにか理由があって、不本意にも整形をする必要があったら、どうだろう。柚希の言動と、重なりはしないだろうか。
決して見た目だけに心惹かれたつもりはないが、あの美しさに心を奪われたことも事実だった。
碧は天井を見あげた。なんだか急に喉の渇きを覚えた。
冷房で身体が冷えてきたので、温かいものを飲みたくなって、コーヒーを入れた。
マグカップから漂うコーヒーの香りに、暗室で作業をした日に交わした口づけの感覚を思い出した。要するに自分は、欲求不満なのだ。あのときのあのキスを、もう一度したいのだ。
柚希の姿が本当はどうであれ、もうどうでもいい。考えてもわからないし、柚希が隠していることが、なんなのかもはっきりしていないのだ。はっきりしていることは、いまの柚希の姿が、碧の知る柚希のすべてだということだ。
夕方、さくらから頬にキスをされたとき、なにも感じなかったことに、碧は今頃になって気がついた。
翌朝、目が覚めると携帯には未読のメールが二通あった。柚希と松浦からだ。松浦のメールを先に開いた。
『柚希ちゃんの写真を撮りたいから、手伝ってもらいたいんだけど、お願いできる?』
撮影の日時とスタジオの場所が、そのあとに続いているメールのレスは、すぐに送った。
『行けます。持っていくものとかあったら、教えてください』
返信は時間をおかずに来た。
『一眼レフ持参で』
『了解です』
柚希のメールを開くときは緊張した。
『今日はわざわざ、ありがとうございました。あのことは、もう少し待っててください。いつか必ずお話します』
送信時刻は昨夜の十一時半頃だ。そっけないメールが、少し寂しかった。期待より、不安が膨らみそうだった。けれど、誠意も伝わってきた。
柚希に向けている自分の感情は、なんだろう。
恋に似ている。
でも、柚希は女だから、恋ではないのだろうか。
中学の時に、初めて好きになったひとに抱かれた。年も離れていたから夢中になった。いろんな性行為を仕込まれて、何度も浮気されて心が折れた。
二年以上つきあって、まともに喧嘩もできなかった。年が十以上離れていると、どんなに理不尽でも相手が正しいと思い込むしかなかった。いま考えれば、馬鹿馬鹿しい。年が離れていたとはいえ、相手も二十代だ。中学生に手を出すような男が、まともであるはずもなかったのに。
散々浮気を繰り返して、やっぱり碧しかいない、と戻ってきた男に、いつのまにかなんの未練もなくなっていた。罵倒する気力も、過ぎた月日に対する後悔もなく、碧は初恋を卒業した。
あのときの嵐のような感情が恋ならば、いまの、柚希に対する切なさはなんだろう。
この気持ちはこれから、どこに向かって動くのだろう。
碧は気持ちを振り払うように、洗面所で顔を洗った。