第二十二話 碧の部屋 キスの写真撮らせて
碧は呆然とその場に立ち尽くした。
柚希の背中は、すぐに見えなくなった。バイト先の建物に入ったのだ。
肩を抱かれた指の感触が、まだ生々しく残っていた。肩口に顔をうずめたときに、柚希と名前と同じ、柑橘系のコロンの匂いがした。
好きだといってもらえた。
けれど、喜んでいいのか判断できなかった。柚希に、なにも訊けなかった。
なにを隠しているのか、なぜ、それを知れば嫌いになるのか、軽蔑するのか、なにもわからないままだ。
しばらくすると、碧は駅に向かって歩き出した。そのままそこにいれば、柚希を追いかけてしまいそうだった。
碧は住居である大学の女子寮に帰ってきた。
M大は交通の便が悪い。家が都内にあっても寮やアパートに住む学生が多かった。碧の家は大学から二時間以上かかる。一年のときは家から通ったが、申請していた女子寮に空きが出たので、四月から入寮していた。
いまは夏休みで帰省している者も多い。普段より閑散とした建物は、どこか寂しかった。
碧は部屋に入ると窓を開けて、風を通した。流れ込む風も生温かったが、気にせずその場に座り込んだ。
わからないことが多すぎて、頭が大渋滞している。
いつも我慢できなくて、変なことを仕掛けるのは自分だ。キスのときも、今日も。
けれどなぜ柚希は、まともに相手をしてくれるのだろう。適当にあしらってくれたっていいのに。
どうして柚希はあんなに綺麗なんだろう。
どうして自分は女に生まれてきてしまったんだろう。
いろんな感情が溢れてくる。柚希には自分の気持ちをちゃんと伝えていないけれど、ばれていたんだろうなあ、とぼんやり思う。そこそこ露骨につきまとっていた自覚はあった。
とにかく、好意を抱いてもらえているのだから、前向きに考えることにした。わからないことも、そのうち時期が来れば教えてくれるかもしれない。
部屋のドアがノックされた。
「碧、いる?」
「いるよ」
鍵をかけていないドアから、友人が滑り込んできた。小畑さくらだった。
さくらは碧同様、今年度から寮に入っている。同じ文学部の二年である。嫌でも一緒にいることが多い。おまけに、写真部に所属していた。もっとも、さくらは真面目な部員ではない。学祭や飲み会のときばかり、まじめに出席するお祭り部員だ。
「ねえ、来週、海、行かない? 工学部と話があるんだって」
海で合コンとは、随分あからさまだ。
「んー、やめとく」
「なんで? いま彼氏いないでしょ」
「そうだけど、なんか気が乗らない」
「ふーん、なんか最近、枯れてるね。やんちゃし過ぎて干上がっちゃった?」
さくらは奔放な碧の恋愛事情を知っている。口は悪いが、それなりに心配してくれていた。
「人聞きの悪い。海で合コンするような肉食系男子に興味がないだけだよ」
「いわれてみればそうか。碧の好みは百人が百人とも『優しそうなひと』って批評するような超草食系タイプだもんね」
身近なひとには必ずいわれる。碧は、判で押したように、同じタイプのひととしかつきあわない。
優しくて、穏やかで、温厚なひと。それが、初めてつきあったひととは正反対のタイプだと知っているのは、大学の友人では、さくらだけだった。
そして、そういうひとと長続きしない理由も、きっと碧以上に気がついている。
「ねえ、写真部の一年にすごく綺麗な子、いたじゃん」
「瀬戸さん?」
「そうそう。瀬戸さん、行かないかな?」
「海に合コン? どう考えてもそんなキャラじゃないでしょ」
行かれても困る。でも、水着姿にでもなったら、すごく可愛いんだろうなあ、と想像してしまう自分に自己嫌悪した。これではまるで発情してるエロじじいだ。
「だよね。碧、仲いいんでしょ」
「仲いいってほどじゃないよ。本貸してもらったり、メールのやりとりはするけど」
暑くなってきたので、窓を閉めてエアコンをつける。冷蔵庫から2リットルのペットボトルのまま麦茶を出すと、さくらは勝手にコップを出してきて注いだ。
「そういえば瀬戸さん、副部長にモデル頼まれたっていってた」
「うわ~、なんか怪しい。脱がせて写して『この写真をばらまかれたくなかったら、いうこときけ』なんてことになったりして」
「まさか……」
どこのポルノ小説だ。いまどき、そんな陳腐な展開、あるはずがない。けれど、なんだか心配になってきた。
「……大丈夫だよね?」
「冗談だよ。なに真剣になってんの?」
呆れたように肩を竦めるさくらに、碧はうん、と頷いて目を泳がせた。
「そんなにいい子なの?」
「うん。すごく」
「そういえば、話題になってるもんね。綺麗だけど全然気取ってないって」
「そうなんだよ。目立つの、好きじゃないみたい。モデルのスカウトされたことあるけど、断ってきたんだって。瀬戸さん、副部長に一眼レフ教えてもらってたし、引き受けたみたい」
「そんな子だったら、今年の名画は楽勝かも」
「なんで?」
「パンダには人が集まるでしょ。瀬戸さんが声かけたら、みんな協力してくれるんじゃないの?」
「まだ一年だし、そんなに有名じゃないよ。文学部は亜衣ちゃんと一緒にいるのを見てるから、知ってるだけじゃないかな」
「そっか。残念。ところでさ、今年は私も個人作品出そうかと思ってるんだ」
「へ~、珍しくやる気じゃん。なんか撮りたいのあるの?」
さくらは頷いて、持ってきた鞄の中からデジカメを取り出した。小型ながらレンズの取り換えができるタイプで、素人でも一眼レフの写真が撮れるのをコンセプトにしているカメラだ。望遠は苦手だが、接写を得意にしている。
撮った写真を液晶に表示させて、碧に見せた。
「へ~、いい感じ」
幼稚園くらいの女の子が、おそらく自分の弟にキスしてる写真だ。背景は綺麗にぼけていて、うまく撮れている。表示を送ると犬の写真だった。何枚か送り続けてさくらは目あての写真に行き着いた。
「これどう?」
ダックスフントとポメラニアンが口をなめ合っている写真だった。
「可愛い」
さすがに犬がモデルのせいか、ピントが少し甘い。目に合わせるべきピントが前足に合っているが、写真自体は悪くなかった。
「こんな調子で、キスをテーマに何枚か集めて一枚のパネルにしようと思って」
「いいんじゃない」
「でしょ。協力してくれるよね」
「うん。なにすればいい?」
「キスの写真撮らせて」
「はあ? だれとキスしろっていうのよ。やだよ」
「べつに、男と舌絡ませてるキスしろなんていわないよ。子どもや犬の写真と並べて、同じくらい可愛いキスの写真が撮りたいの。碧は中身はともかく見た目は幼いし、女同士でほっぺにキスしてる写真でいいから」
中身はともかくとはひどい言い草だ。でも、思春期の初めに、ただれた性体験を経過した自覚もあるので、いい返すこともできない。唇を尖らせながらも頷いた。
「なんだ。それならいいよ」
背景ぼかして、フィルターかけて、逆光で……、カメラの性能と相談しながら、二人でプランを練る時間も愉しい。
「とにかく、ためしに撮ってみようよ」
「うん、いいよ。そういえば、だれとキスしたらいいわけ?」
「あ、考えてなかった」
「なにそれ。じゃ、さくらでいいよ。セルフでいこう」
「セルフか。タイミング難しいなあ。リモコンあったらなあ」
「あたし、持ってる」
碧は机の引き出しからリモコンを取り出した。幸い、さくらのカメラと互換性があって使うことができた。三脚もセットして、準備を整える。
「部屋、狭いし、ベッドの上しかないね。距離ないけど、ぼけるかな」
「練習なんだから、ぼけなくてもいいよ。で、どっちがキスするの?」
「碧がされる方。わたしがする方。碧が顔、カメラに対してほぼ正面で、目、瞑ってて」
モデル的には楽な役割だ。いわれた場所で座って待つ。リモコンを手にさくらが近づいてきた。ベッドが揺れて傾いた。
「何枚か撮ってみるから、しばらくそのままにしてて」
「オッケー」
目を瞑っていると、さくらが頬にキスしてきた。まぶたや唇の横や耳にも。少しくすぐったい。動くとピントがずれるので、動けないのがつらかった。
二十回くらいシャッター音がして、もういいよ、と肩をたたかれたので目を開けた。
「どう?」
碧も設定に口を出したので、写真のデキには興味がある。
さくらが撮った写真を表示させた。
「結構、いいじゃん」
「うん。いい感じ。逆光でよかったね」
「あ、これいい」
さくらが気に入ったのは、碧の唇のすぐ横にキスしてる写真だった。碧が少し首を傾げていて、角度があるのがよかった。心配していた背景のぼかしも、思っていた以上だった。
「練習のつもりだったけど、もう、これにするわ。ありがと、碧」
「もう、いいの?」
「いいよ。今度、モデルのお礼になんか奢ったげる」
「だったら、奢ってくれなくていいから、一緒に行ってほしいお店があるんだ。瀬戸さんがバイトしてるカフェバーなんだけど、ご飯もおいしいらしいの」
「いいよ。今度行ってみよ。じゃ、さっきのデータ、コピーしたら持ってくるから」
さくらは満足顔で出て行った。碧の部屋は三階。さくらは二階である。なにかあれば、すぐにでも行き来できる気安さだった。