第二十一話 カフェ カラオケ行ったのって、やっぱり副部長?
碧は指定したカフェの窓際の席にいた。
「碧さん」
声をかけると、碧は小さく手を振って顔をほころばせた。
「すいません。だいぶ待たせました?」
「そんなことないよ。瀬戸さんの方が時間ぴったりじゃん」
席に来た店員にアイスティーを注文して、碧に視線を向けた。
最初に会ったとき、幼い印象が強かったけど、いまはそれほど幼い感じがしない。柚希が情愛を傾けているからそう見えるのか、碧自身が変化しているのか、どうなのだろう。
松浦が、碧はあれで結構モテるから、といっていたが、なんとなくわかる。一見、どこにでもいそうな平凡なイメージなのに、目が離せないような可愛い二重だったり、かまいたくなるような表情をしたりするのだ。
どこか天然な言動も、愛しく思う男は多いだろう。
「これ、ありがと。全部、面白かった。特に、この二冊。ネズミの大量発生の話。何回も読み直しちゃった」
「私もこの話は好きでしたよ。最初に読んだときは高校一年でした」
「へー、高校生がよくこんな本に出会えたね」
「いま、バイトしてる店の店長に教えてもらったんです」
「いまのバイト先って、そんなに前からの知り合いなの?」
「えーっと、中学の終わりくらいですね。母を通じて」
運ばれてきたアイスティーをストローで撹拌した。グラスに氷が当たって涼しい音を立てる。
その音に、松浦とカラオケボックスで飲んだウーロン茶を思い出した。
「なんか最近、先輩と待ち合わせして、後から着いちゃうこと多いんですよ。反省しないと、やばいですね。下級生なのに」
「え? そうなの?」
碧は不思議そうに首を傾げた。
「一昨日、松浦さんと待ち合わせしたら、松浦さん、時間より早く来てて」
写真部のひとって、時間より早く着くのがあたりまえなのかと疑問に思う。
「あ、カラオケ行ったのって、やっぱり副部長?」
「はい。あれ? なんでカラオケ行ったの知ってるんですか?」
「『あいあいのあいある日常』に、そんなコメントがあったから」
「あ、そうか。そういえば、『マイマイの靴下』って碧さんでしょ?」
「うん。わかった? 『ユズ』よりは捻ってるんだけどな」
柚希は「やっぱりあのハンドルネームは芸がないですよね」と苦笑した。
「実は、ハンドルネームだけだと自信なかったんです。でも、コメントに写真部の名画のこと書いてあったし」
「うん。とりあえず、告知しといたら少しはマシでしょ」
「そうですね。あ、そうだ。バイト先の壁、からし色なんです。私、佐々木さんから、黄土色の背景で撮れるだけ撮るようにいわれたんですけど、バイト先のひとで撮ってもいいんですか?」
カフェバーの客は、柚希から名画の話を訊いて面白がった。自分たちにも参加させろとしつこく要求してきていた。社会人になると、ささやかな変化を求めるらしい。
「大丈夫だよ。だいたい同じ大学の生徒に限られたら、二千とか無理だし。からし色も黄土色もほとんど一緒だよ」
「よかった。これで数かせげます」
柚希はほっとしてアイスティーに口をつけた。
「一昨日、松浦さんに会ったのに、この事訊くのを完全に忘れてて。今日、碧さんに会えてよかった」
「……あのさ、副部長とつきあってるの?」
碧が上目づかいに尋ねた。
「え?」
「だって、前に副部長、告白してたから……」
柚希はふと、昨日碧が電話でいいかけて止めたことは、このことだったのではないかと思った。
「ああ、あれ、告白じゃなかったんですよ。もちろん、つきあってませんし」
「ほんと?」
「本当です。一昨日会ったときに、ちゃんと確認しました。ただ、写真のモデルをすることになりましたけど」
「へー、引き受けたの?」
碧は意外そうに目を見開いた。ひとの頼みをすんなり訊くようには見えないんだろうな、と柚希は苦笑いした。
「まあ、なりゆきで」
「副部長、喜んでたでしょ」
「うーん、酔ってたから、くわしいやり取りは、よく覚えてないんです。なんか時間がないとかいってましたけど、松浦さん、不治の病を患ってるとか訊いてます?」
「全然。あんな心臓に毛が生えてるようなひとが、不治の病とかあり得ないでしょ。不治の病に失礼だよ。就活問題じゃないの?」
身も蓋もない言い様に、柚希はおかしくなって笑った。
このけなし方を訊く限り、碧が松浦に恋情を抱いていることは、なさそうだ。
就活問題と訊けば、なるほど納得もできる。柚希はすっきりした気分になった。
「碧さんと亜衣にも手伝ってほしいっていってました。なんか、ややこしいことになったら、すいません。勝手に引き受けたことで」
「そんなの瀬戸さんのせいじゃないよ。でも、手伝いがいるようなモデルするの?」
「さあ? とにかくスタジオで撮るらしいです。夏の日差しの中では無理だって」
「まあ、そうかもね。コントラスト強すぎるし。副部長やわらかい光の写真、好きだもん。あたしは写真部だから、手伝うのはいいよ。亜衣ちゃんはどうかわからないけど」
バイトの時間が近づいてきたので、カフェを出ることにした。エアコンの効いた店内から出ると、一気に汗が吹き出しそうな暑さだった。
店の場所が知りたいからと、碧が一緒についてきた。本当に一度、来店するつもりらしい。
アーケードの中を移動して細い路地に入ってしばらく歩くと、碧はふいに足を止めた。
「碧さん?」
「ちょっと、触らせて」
碧が柚希の頬に手のひらをあてた。驚いて動けずにいると、碧が耳たぶに指を滑らせてきた。
「困ってるんでしょ」
「急だったから、びっくりして……」
「亜衣ちゃんだったら、びっくりした?」
亜衣だったら、急に顔に触ってきても、驚いたりしない。どうかしたのかな、と思うだけだ。首を横に振ると、碧は真剣な表情になった。
「あたしは、亜衣ちゃんとは違うんだよね。それは喜んでいいことなの?」
柚希は自分の首筋に伸ばされた碧の手首を掴んだ。掴んだ手首の細さに怖くなって指が震えた。
「瀬戸さんって、なにか隠してる?」
「……………」
碧は、柚希が男だということを、もう知っているのだろうか。柚希が言葉を探しあぐねていると、碧は俯いた。
「違うか。瀬戸さんがなにかを隠してるんじゃない。亜衣ちゃんが瀬戸さんのこと、なにか知ってるんだよね。亜衣ちゃんと飲みに行って瀬戸さんの話になったら、はぐらかされることあるの。なにか、あたしにはいえないことなんだろうなって……」
碧は知っているわけではなかった。けれど、いま碧が言葉にしていることは、二人の核心に触れることだ。
いまかもしれない。本当のことを告げるのは。
掴んだままの碧の手首を引き寄せた。碧の身体が柚希にぶつかった。柚希はそのまま碧の肩を抱きしめた。
碧の汗の匂いが立ち上った。眩暈がするような甘い匂いだった。華奢な肩の感触が、たまらなく愛しくて、ついさっきしたはずの覚悟が霧散した。
「私、碧さんのことが好きなんです。でも、隠してることを話したら、碧さんは私を嫌いになるか、軽蔑すると思うんです。だから、怖くていえないんです。ごめんなさい」
柚希はそれだけをいうと、碧から身体を離して踵を返した。バイト先に向かうために歩き出した柚希はもう、振り返らなかった。
ここまで読んで下さった方、本当にありがとうございました。活動報告の方でも書きますが、この二十一話で、一応、ひと区切りです。いままで、視点をこれだけ固定して書いたことはなかったので、読んで下さった方が読みづらくなかったか、心配です。特に柚希は見たことも聞いたこともないような、女の子に恋するニューハーフ直前という、特殊なキャラクターだったので、手探り状態のまま、二十一話になりました。書き始める前から、つきあうか、告白をしたら碧視点にするつもりでしたので、二十二話からは碧視点で話が続きます。再開の予定などは、活動報告を見てくださいませ。