第十六話 通学 汚れたガラスの向こう側
『誕生日、おめでとう』
試験二日目の朝、携帯には母親からメールが入っていた。仕事が忙しく、子どもの頃から、充分に構ってもらったことがないが、誕生日だけは、多少、母親らしい気づかいをしてくれる。
試験勉強で寝不足の目を擦りながら、洗面所に向かう。顔を洗っているときに、メールの着信音がした。
身支度を済ませて携帯を開くと、また母からだった。
『八月になったら、夏休みでしょ。ケンゴくんに連絡してあげて。人手が足りないから、柚希にバイトして欲しいみたい』
ケンゴはカフェバーの店長をしている。どういう経緯かは知らないが、母と逗留がある。年齢は三十半ばを少し過ぎたあたりで独身。いや、この先もたぶん独身のままだろう。彼はゲイなのだ。
ケンゴの店はゲイバーではないが、彼の友人知人が集まることも多いので、いきおいゲイが多く集まってくる。
母親を通じて知り合ったが、去年までは柚希も高校生だったため、バイトの誘いはなかった。だが、大学生になったら休みの間だけでいいから手伝ってね、といわれ続けていた。彼はそれを律儀に実行しようとしているのだ。
柚希は鞄を肩にかけ、足早に駅へ向かった。
大学までは電車で二駅だ。駅の喧騒を通り抜け、電車に乗り込んだ。電車の窓から流れる景色をぼんやり眺める。
昨夜の雨のせいか、ガラスが汚れていた。
線路沿いの道路をバイクが走っていた。電車の加速について行けずに、遠ざかっていく。夏休みに車の免許を取って、バイク通学にしようかと考える。通学時間がかなり短縮するだろう。
けれど、戸籍が女になってからの方がいいかもしれない。変更の手続きが大変そうだ。
電車がトンネルに入り、窓ガラスには車内の様子が反射された。すぐにトンネルは通りぬけたが、柚希の目にはもう、外の景色よりもガラスに映った車内ばかりが見えていた。
意識を戻せば、景色が見える。けれど、ガラスは向こうとこっちを仕切っていて、どちらを見ることもできる。汚れているのは外側のガラスだけで、暑さに晒されているのもやはり、外側のガラスだけなのだ。
碧の写真を思い出した。
『汚れたガラスの向こう側』
碧の表現したかった世界の一部が、少しだけ感じられた気がした。
もう一度、あの写真を見たくなった。